吉本興業の闇営業問題がなぜか社内内紛に発展してしまった。後からニュースを見ると、なぜ芸人のスキャンダルが経営内紛に発展したのかを誰も思い出せないのではないかと思う。それくらいわけがわからない。
日本では問題が解決できないとムラが心情的に揺れる。ムラが心情的に揺れると様々な解決策が出てくるのだが焦点が結ばれない。そしてムラが崩壊するか別の問題が出るまで揺れ続ける。岡本社長の会見はなぜ日本人が問題を解決できないのかという問題をかなり端的に示している。日本人が持っている心象主義に原因がある。この心象が藪を作っていて我々を閉じ込めるのだ。
この一連の吉本騒ぎには、芸能事務所・テレビ局・弁護士・芸人などいろいろな人が関わっている。しかし、皆口々に心象を語るばかりで何かが決定的に足りない。このため「いったい何が問題なのか」がわからなくなる。
テレビのコメンテータたちはいくつかの問題(反社会勢力とのつながりと芸人の処遇の問題)を分離しようとしているようだが、その試みもうまく行かない。視聴者も心象藪に吸い込まれてしまって一緒に藪の中をさまよっているからだろう。
宮迫さんと田村亮さんの会見は演劇めいていた。これを観察してわかったのは「空気」が大切だということだ。つまり宮迫らは藪をデザインしようとした。これはテレビ芸人がよくやる手法だという話をQuoraで聞き「なるほどな」と思った。テレビでは笑い声やテロップを足して「ここは笑うところですよ」などと誘導するのだそうだ。その空気に慣れている記者たちは中断に対して「空気が壊れる」と言って猛反発した。テレビ記者たちも観客として空気を作るのに協力していたのである。つまりテレビは心象藪を作りたがるのだ。
岡本昭彦社長の会見を見ると、岡本側が空気作りに失敗したことがわかる。岡本さんは「テープを撮っていないのか」といったのは洒落(冗談)であり、全員の首をきるといったのは「身内の感覚だ」と言い放った。つまり、彼は5時間30分の会見で彼の演出プランを語ったがそれは受け入れられなかったのである。そもそも5時間30分も時間を使ったのは「テレビ的な心象藪」を作るのに失敗したからだろう。岡本社長はたいして面白くもなくシナリオライターとしても三流だったことになる。
ここで重要なのは日本人が問題に興味を持たないという点だ。日本人は「本質」を気にしない。日本人にとって重要なのは心象であり、心象こそが「本質」なのである。芸能マスコミは一貫した心象を作り、それが出来上がった時点で「問題が落ち着いた」と見なす。心象藪さえ完成すれば問題は解決しなくても構わない。これは経営ではなく演劇の手法である。
この一連の騒ぎが大きくなったのは、演出プランが複数あり本物の藪ができてしまったからなのだろう。それぞれの人たちがそれぞれの心象でなんとなく現状を都合よく解釈しておりそれを擦り合せるつもりはないらしい。ただ、彼らが作ろうとした心象藪はテレビサークルの外にいるマスコミによって次々と崩されてゆく。藪が崩れると今度は新しい藪を作ろうとし、納得がゆく藪が作られるまで「ごまかしている」とリテイクを食らうのである。
視聴者は問題が解決しないことに怒っているのではない。話の筋が分からないことに怒っている。何だか無茶苦茶な話なのだが、誰も問題解決を望んでいない以上これが今回の正しいものの見方なのではないかと思う。
これは芥川龍之介の「藪の中」を読んだときのモヤモヤ感に似ている。藪には周りに木がたくさん生えていることはわかるが、いったいその藪のどこにいるのか、あるいは同じところにいるのかがさっぱりわからない。そして関係者が増えるたびにその「藪度」が増してゆく。小説は藪を完成させる手法だが、藪の中では統一されたビジョンは提示されない。それが藪の中のモヤモヤ感の正体なのではないだろうか。
経営者は「ビジョンを示して」社員をそこに導くべきだ。そのためには現在位置を把握しなければならない。つまり藪を切り開いて(あるいは高いところに立って)現在地をしめさなければならない。しかし、日本の会社にはそうした「鳥瞰型の視点」はない。日本社会は一生を藪の中で暮らす人たちが作り出す藪社会なのだろう。
芸人も「不安になった」とか「悲しくなった」とは言っている。また松本人志さんも「松本興業を作って面倒を見てやりたい」と言っている。ところが、現状の問題点を指摘しそれを変えてゆくにはどうするべきだというステートメントを提示する人は誰もいない。これは藪社会では極めて当たり前のことであり、したがってマスコミからも「吉本興業のビジョンを示す経営者が出るべきである」などという話は聞かれない。
このマネージメントがグダグダな会社が官民ファンドの100億円を扱うことになる。仮に何らかの不正が起こった場合(お金の管理が甘そうなので必ず何か起こるだろう)今度は官民ファンドを巻き込んだ藪論争が起こるだろう。
この心象藪社会というモデルから、日本の政治が抱えている問題がわかったと思った。例えば日本の憲法改正議論が全く折り合わない理由も藪社会で説明できる。日本人は藪をちょっと改良することはできるが藪から抜け出すことは決してできない。憲法第9条の場合は今までの経緯の積み重ねが藪を作っているのだから、全てをご破算にして今の状況にあった条文を作ればいいだけの話である。
護憲派の人たちは「戦争はいけないよね」という心象を語るばかりだし、改憲派の人たちは「今の憲法はみっともない」という心象を語っている。彼らは藪から一歩も出ないままそれぞれの心象を語っており、両者を合わせてみるとより暗い藪ができる。面白いことに誰も「藪を取り払って俯瞰的な見方をしてみよう」と呼びかけるものはいない。日本人は誰も藪から出られないのだし、誰かが藪を抜け出そうとするとその足を引っ張るのだろう。
今回の参議院選挙の結果を見ても、安倍首相は自身の藪の中から「選挙の結果憲法改正を前に進めろという民意が得られた」と語っていた。実際には改憲勢力は2/3を割り込んでいる。安倍首相の藪には国民民主党が維新のような改憲勢力になる未来がしっかりと見えているのだろう。彼の心象を頼りに政治を前に進めようとしている。
藪は外からの障壁になっていて我々に安心を与えてくれる。安倍首相は藪の中に引きこもることで「自分は人気中には憲法改正はさせてもらえないし、大衆を説得する力量もなかった」ことに気がつかずにすむ。しかし有権者はいつまでも解決しない諸課題を前にして途方にくれることになるだろう。政治家の藪が国民を苦しめるのだ。