政治が最低限やるべきなのは真面目に働いている人々を泣かさないこと

今回、築地・豊洲問題をめぐって「過剰適応」について書くつもりだった。政治も築地の業者さんたちも目の前の顧客を満足させるのに一生懸命になっており、本来解決すべき問題が何かがわからなくなっているというようなお話である。だが、いくつか記事を読み「ああ、これは根本的に政治が間違っているのだなあ」と思った。

これはインスタグラムを転載したものらしいのだが、開業のない文章で不安が綴られている。これまで真面目に働いてきた人たちが「将来も仕事ができるのか」という不安を抱えている。しかし、マスコミがこの問題を取り上げることもなく、SNSで騒ぎが起きているだけという状態であると嘆いている。

本来ならば感情をできるだけ排して構造上の問題に注目すべきだと思うのだが、真面目に働いている人が苦しまなければならない政治はやはり間違っているのではないかと思った。よく「正しくやるのではなく、正しいことをやれ」という。法律に反しないプロセスを粛々と進めるだけでは正しいことをやったことにはならない。

これは政治だけではなくマスメディアにもいえるのではないか。コンプライアンスを守って正しく伝えるだけではなく、何が社会にとって正しいのかということを間違えながらでも追求してゆくべきである。マスコミは東京都のアナウンスに従って「移転準備が進んでいる」という伝え方をしているが、彼らは問題が起きていることも知っているはずである。地下から水が湧き出しているというセンセーショナルな動画もすでにアップされており材料は揃っているからである。だが、彼らは自分たちからこの問題を取り上げることはないだろう。もし仮に自発的にこの問題を取り上げると、多分東京都から恨まれることになってしまう。だから彼らは高いところに避難していて、どこかから火がつくのを待っているのだ。

ワイドショー視聴者が求めているのは人間ドラマである。人間ドラマとはつまり誰かが叩かれて落ちて行くことだ。今回も、例えば小池百合子東京都知事が明らかに嘘と知りながら農水省に虚偽の申請をしたとか、あるいは開場後に解決不能な問題が起き犯人探しが始まった時に、過去の映像が使われることになるのだろう。確かにマスコミは小池百合子東京都知事叩きを消費して次の話題に移ればいいのだが、築地から移転した人たちの暮らしはかなり深刻なダメージを受けるはずである。

この問題は今まで見てきた過剰適応の問題と少し違っている。東京都は別の成功例で「味をしめ」て豊洲でも同じことをやろうとしたという話がある。「秋葉原の成功体験があった」という記事を見つけた。秋葉原には青果市場があったのだが、これをどかしたところ多額の収入を得ることができたというのである。過剰適応では資産化している熱烈なファンが経営判断を狂わせるのだが、こちらはダイレクトに都が持っている資産が問題の元凶になっている。平たく言えば「金に目がくらんでいる」のである。

さらに、実績を上げたかった小池百合子都知事が「所有権はそのままで貸せばいいのよ」というフラッシュアイディア(つまり思いつき)を持ち出したために話が混乱した。音喜多ブログ・2018年3月を見つけたが、この時点では彼女の思いつきはたなざらしになっているそうだ。小池さんのような口だけの政治家を当選させた東京都民が悪いといえばそれまでなのだが、これはあまりにもひどい対応である。

では東京都が築地市場を残せばそれで良かったのかという問題がある。実はそうではないという点にこの話の難しさがある。確かに「情」で考えると、このまま築地でお仕事をして日本の伝統文化を守ってもらいたいと思ってしまう。だが、実際に我々の暮らしに注目すると、以前ほど築地で扱われている鮮魚を食べていないのも確かである。これが最初に書こうとした過剰適応の問題である。築地市場は公営だったために、経営的に成り立たなくても伝統が守れてしまうのである。

もし築地が私的に運営されいたとしたら経営的に成り立たないところから業態を変えるか撤退していたはずだ。「ひどい話」に聞こえるかもしれないのだが、後ほど述べるようにこれで伝統を守った商店街もある。

まずは全体像から見てゆきたい。東洋経済の記事を読むと、実は築地の流通は年々減少していたということがわかる。2002年と2017年を比べると実は36%も減少している。流通が多角化しているうえに、鮮魚も食べなくなっているからである。

こんななかで東洋経済では「思い切った戦略の変更が必要である」と書いてあるのだが、では思い切った戦略とは何なのかということに答えを出していない。普通に考えても「明日からなくなるかもしれないからすぐにアイディアを出しなさい」などと言われて応じることができる人はいないはずだ。

先行事例として京都錦市場がある。もともと中央市場のような役割があったが、中央市場が移転したために小売化が進んだ。この中で物流拠点から生活拠点となり現在では観光化が進んでいる。錦市場が生き残ったのは長い間に徐々に変化が起きたからなのである。そして、この試行錯誤は今でも続いている。一度観光化が進んだから安泰というわけではない。現在でも過度の観光化で「京都らしさが失われるのでは」という懸念があるからだ。(日経新聞

もし市場の移転がスムーズに進んでいれば、築地の人たちもこうした「次への取り組み」ができたかもしれない。しかし、常に周りがごちゃごちゃとしており、もしかしたら移転できないのではないかという落ち着かない雰囲気の中でこうした議論ができるとは思えない。そもそも豊洲に市場が移った後に築地の街がどうなるのかというビジョンもない。

この政治の落ち着きのなさの原因は政治基盤がなくつねにふらふらと思いつきのアイディアを掲げて延命を図っている小池百都政の結果といえる。多分、再来年東京オリンピックの頃には大混乱しているはずで、築地の再生は今後もこの落ち着きのなさの影響を受け続けることになるだろう。

政治問題化した築地ではついに訴訟も起きている。東洋経済は次のように伝える。

9月19日、築地市場の水産仲卸業者とその家族ら56人が都を相手取り、豊洲への移転差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請。同時に移転差し止めを求める訴訟も提起した。記者会見した原告弁護団団長の宇都宮健児弁護士は、「土壌汚染問題が解決されておらず、食の安全・安心が確保されていない」と述べ、原告団の1人で築地女将さん会の山口タイ会長は「築地市場の移転は今もって多くの関係者が納得していない」と語った。

東京都は土地で儲けるスキームをなんとか形にしようとしてかなり無理をしたようだ。このため土壌汚染の問題は解決されていない。これが訴訟の原因になっている。ここに東京都知事選挙候補だった宇都宮健児弁護士が参戦している。周囲が落ち着きのない動きを見せる中、冒頭見た業者さんだけではなく多くの人が「一旦立ち止まって考え直したい」と言っているが、それも当然のことだろう。

築地女将さん会が今年3~4月に水産仲卸業者の全535社を対象に行ったアンケート調査では、回答した261社の約7割が豊洲への移転中止・凍結を求めていたという。近年、豊洲への市場移転を前に廃業する仲卸業者も増えており、「仲卸の目利き力」を核とする築地ブランドの価値低下を嘆く声も聞かれる。

錦市場の事例を見ていると、実際に築地がどうなるべきなのかを考えるのは当事者であって政治ではないのかもしれない。ただ、政治は少なくとも落ち着いて議論ができる環境を整備することはできるはずである。しかし、実際の政治は築地が今度どうなって行けば良いのかという助言を与えることもなく、いたずらに混乱を加えようとしている。小池都知事はプライドが高く「わからない」と言えないので、思いつきでアイディアを出してはそれを放置して混乱を生み出している。これは政治のあり方としてはやはり正しくない。

小池さんが東京都政を通じて何をやりたいのかはわからないのだが、履歴書の一ページを飾るためにやっているなら今すぐ辞任すべきだ。仮に何か実現したい正義があったとしても、それは真面目に働いている人たちを泣かせてまで実現すべきことなのか、もう一度立ち止まって考えるべきなのではないだろうか。

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アウフヘーベン

小池都知事が豊洲移転を決断した。アウフヘーベンと言っていたが、結局は玉虫色の解決策で、ある意味極めて日本的なやり方と言える、つまり日本人は何も決めないことを決めていることになる。表で決めると誰かの顔が潰れるからである。小池都知事は誰の顔も潰さないことを決めたことになる。

この解決策の良かった点は、やっと魚市場の定義ができたことだろう。誰がどうみても、今の築地市場には2つの全く異なった役割がある。これを分離して現代化すべき部分を豊洲に、伝統として残しておくべきところを築地にという整理をしたのはよかったと言える。

が、よかったのはそれだけである。小池都知事が決めたこと(あるいは言ったこと)はいくつかあるので整理して行こう。冷静に考えればわかる話ばかりなので、気がついた人は意外と多かったようだ。

築地の開場を5年後に設定したこと。小池さんが5年後に都知事であるという保証はない。多分、今回の発表の目的は都知事選挙での争点を潰しだったのだろう。自民党を中心とした議会がしっかりと役割を果たせていないということさえ証明できれば、築地問題そのものはどうでもよい問題だったのではないだろうか。その意味では石原元都知事と似ている。都政は道具なのだ。

都が新たな支出をすることを決めたこと。豊洲だと赤字が膨らむと言っているのだが、築地を市場として残しても赤字が解消できる理由がわからない。ワイズスペンディングだと言っていたので、実はスペンディング(お金を使うこと)を決めたのだが、英語だったので記者たちにはよくわからなかったようだ。が、反対意見がでないように、具体策は何も出さなかった。いわば「白紙委任状をください」と言っている。

都に政策立案能力がないことを認めたこと。これからいろいろな人の意見を募ると言っていた。有識者会議でも立ち上げるのかもしれないが、これは都に政策立案能力がないということを認めたことになる。であれば規制を緩和して民間に任せればよいのだが、関わりは持ち続けたいらしい。

このことからネット上では様々な懸念の声が聞かれた。日本人はあまり積極的には政治に関わらないが、実務的な人たちには問題がわかっていたようだ。実は極めて冷静な民族なのである。

指摘として多かったのは「金がいくらかかるかわからない」というものである。日本は内需が縮小し続けているので公共事業にはさまざまな業者が群がってくる。賢く使いましょうというのはうわべだけで、自分たちが持っている技術をいかに高く売りつけることができるのかということに熱心な人たちばかりだ。都の側はアイディアがなく、お金は出しましょうということだから、小池都政はこうした人たちのよいカモになることは間違いがない。

さらに「観光」という概念を持ち出してしまったことで、収支計算がますますややこしくなった。観光なので「面白くすれば集客が見込める」ということになる。競争相手はディズニーランドだ。が、真剣にディズニーランドと競争したらどうなるだろうか。多分、忍者の格好をした仲卸に魚を捌かせたりすることになるのだろう。テーマパーク化というのはそういうことである。築地の人たちは懸念を表明している。伝統の支え手ではなく「見世物になれ」と言われているからだ。

築地にバリューがあるのは「立地がよく、しかも見学そのものにはお金がかからない」からである。収益をあげようとして入場料をとったらそれだけで築地は成り立たなくなってしまうだろう。その意味ではディズニーランドとは違っているし、役所がそれを実現できるとはとても思えない。

さて、豊洲新市場はさらに悲惨な運命が待ち受けているような気がする。一つは除染のための実験場という位置付けである。安心・安全を区別しなかったことで「除染にはいくらお金がかかっても構わない」ということになりつつある。よく考えてみれば食糧流通の市場なので採算が取れるところに持って行けば終わりなのだが、豊洲にこだわってしまったことで、割高になっている。その上に有毒な場所を選んでしまったために、除染にいくらお金がかかるかがわからないということになりそうだ。

一見悪そうな話だが、裏を返せば「いくらでもお金をかけていい」利権が生まれたことになる。都民が安心を求めていますといえばいくらでもお金が使えるのだ。多分、冷静に聞いてみれば食べ物倉庫にお金をかけるより、保育所を増やしてくれという意見の方が多いだろうが、多分しばらくそういう議論はないだろう。そもそも都心の一等地に食べ物倉庫を作ることそのものが採算性が取れない話なのである。

さらにIT化をオブジェクティブに入れたのも実はまずかったのではないだろうか。ITというのは目的を達成するための手段なのだが、豊洲市場のIT化はには実は目的がない。あれば発表していたはずだ。もし、それがなければ大手ベンダーが先進的な技術を自分たちのリスクを追わずに実験する場所として豊洲を使えるということになる。成功しようが失敗だろうが、それはベンダーにはどうでもよいことだ。リスクを追うのは都民だからである。さらにITベンダーは自分たちでそれをやることはないだろう。どこかの業者に下請けに出して終わりである。

目的もなく、責任を追う人もいないというのは、政治家や役人にとってはまさに天国のような状態だ。

東京都民には二つの選択肢が提供されたことになる。一つは諸手を挙げて額面の入っていない小切手を小池都知事に渡すか、これまでの小さな利権を温存したがっている自民党の人たちを追認するかだ。

普通の感覚だといい格好をして逃げるなどということは許されそうにないが、それが許されてしまうのが任期付きの政治家なのかもしれない。

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街から魚屋さんが消える訳

先日エイプリルフールネタで、東京で刺身が禁止されるという話を書いた。そんなことはありえないだろうという前提で書いたのだが、どうもそうではないようだ。
豊洲の最大の汚染源は「ばい菌が繁殖しかねない魚」なのだから魚を禁止してしまえばいいのだというのが話の筋だ。そんなことは本末転倒なので「築地は汚い」という人のカウンターになるだろうと考えたわけである。
魚食について気軽に考えてしまった理由は近所に魚屋があることが影響している。若葉区には石毛魚類という魚屋があり、銚子漁港の魚を卸して公設市場のようなところで売っているのだ。高齢者はスーパーの魚には満足できないので、こうした魚屋に需要があるのだろう。豊洲の移転の問題に都民ほどの切実さを感じないのは、千葉市では産直の魚が気軽に食べられるからなのである。
しかし、他の地域ではこれはあまり笑えない話だったようだ。考えるきっかけになったのはTwitter上の「うちの近所から魚屋がなくなった」というツイートである。


近所から魚屋が消えれば、当然築地市場も縮小する。いろいろ調べてみると築地はピーク時から比べると1/2程度の取り扱い量になっているというエントリーも見かけた。豊洲移転は魚屋が消えてゆく駄目押しにはなるが、直接の原因ではないことになる。
だが、これは政府の陰謀ではない。実は消費者のニーズに応えた結果らしい。消費者は多くの品物が一度に手に入るスーパーマーケットを好んでおり、商店街での買い物を面倒だと感じている。この地域でも商店街は消えつつあるが、原因は駐車場の不足だ。働く人が増えて買い物の頻度が減り、多くの荷物を運ぶためには車が必要になるということだ。一度決めた区割りは実質的に変更できないので、都市計画は消費者の変化に対応できない。そこで空洞化が起きてしまう。空洞化したところには小口のスーパーマーケットが入るが加工食中心だ。人件費を削減しているから工業製品の価格は抑えられるが、生鮮品を手に入れるためには車が必要になる。
効率で収益をあげるスーパーも鮮魚を取り扱いたがらないし、消費者も面倒な調理を嫌う。このため、マグロ、サーモン、イカといった管理が簡単な魚が売れるようになり、自分で「三枚におろす」必要のある魚が敬遠される。このようにして魚の家庭内調理は敬遠されてゆくのだ。
冗談のエントリーでは「東京オリンピックを前にアジア的な魚食文化は後進的で恥ずかしい」と書いたのだが、実際には「面倒で手がかかり不衛生に見える」魚は避けたいという消費者の感覚が魚を遠ざけていることになる。
だが、魚が敬遠されているのは、消費者が魚の味を嫌うようになったからではなく、魚の料理が面倒だと感じる人が増えたからである。水産庁のホームページでは水産資源の二極化の進行が報告されている。つまり、外食で使われる魚の需要は堅調なのだ。
このように魚食文化は変化しつつある。大量に供給できるサーモンなどが寿司ネタとして提供されているのだ。バンダイの調査(添付はPDF)によると、好きな寿司ネタランキングは、いくら、マグロ、サーモン、タマゴ、エビ、納豆の順番らしい。そもそもかつては子供が気軽に外で寿司を食べるということは考えにくかったわけだから、魚食文化は広がっていると言える。一方で、伝統的な大衆魚とされていたイワシやお祝いの代名詞だったタイは忘れさられてしまうかもしれない。こうした魚は骨を避けて食べるのが面倒だ。
中国などとの間で魚資源の獲得競争が起きて魚資源の枯渇も心配されているのだが、これは中国が日本に近づいているということもできるし、日本の魚食文化が単純化されている結果とも言える。つまり日本側でも「安く手軽に魚が食べたい」と考える人が増え、仕分けや調理が面倒な近海魚が淘汰されかけているということになる。
もともとは冗談から始まった話だったのが、意外と深刻な変化が起きているようだ。これを考えてゆくと、豊洲・築地の問題は、現代的な魚流通の要請に応えつつ、観光資源や伝統文化をどう守ってゆくかというテーマになることがわかる。これは伝統的な文化の継承を政治の根幹に掲げる保守主義の政治家にとっては重要な課題になりえるはずで、結果的に日本の保守主義の薄っぺらさを端的に示していることがわかる。
有害物質を生成していた場所に食べ物を扱う市場を誘致する感覚が政治家として不適格だが、伝統的な魚文化を「単に汚いもの」として切り捨ててしまったというのも信じがたい暴挙と言えるだろう。

減価償却はサンクコストです、が……

減価償却はサンクコストというのは嘘だという書き込みを見つけた。で、これにレスをつけようと思ったのだが、なんかややこしい話になりそうなのでまとめる。


確認したわけではないけれど、多分、池田信夫さんのこの文章が元になっているものと思われる。
まず減価償却は初期投資の変形だ。つまり、過去に支払いが終わった費用を分割して計上しているだけなので、すでに投資は終わっている。ゆえに減価償却はサンクコスト(埋没費用ともいう)だ。このあたりは検索してみるといろいろと出てくる。
ただ、この一連の発言のもとになった小池さんの発言の意味がわからないので、議論自体あまり意味がないんじゃないかと思う。サンクコストを「取り返しがつかない何か」と言っているように思える。実際には「すでに発生した出費」はすべてサンクコストなので人間が恣意的にサンクコストを作ることはできないからだ。

小池さんは「サンクコストにならないためにどうすべきか客観的、現実的に考えていくべきだ」といいましたが、(池田さんの文章から引用しました)

ということで投資の最大化ということを捉えると、池田さんの言っていることが正しいように感じられる。豊洲はこのままで安全なのか(つまり追加投資コストはかからないのか)という議論が出てくるのだが、多分それがわかっているので不自然な位置で「飲み水じゃないから大丈夫」という話が出てくる。これは多分予防線になっているのではないか。
そもそも初期投資が終わっているとはいっても、支払いはすんでいないらしい。出費はあったのだろうが、どこかから借りているのではないだろうか。プロジェクトの提言をみるとその費用をどう議会に説明するかという問題が起きているように見える。文章によると提言は次のようになっているという。以下引用。

それによると、市場の豊洲移転が案として成り立つためには、お金の問題を解決しなければいけないとして、(1)豊洲の赤字を防ぐため、他の10市場も含めて使用料を2倍に上げる、(2)11市場を順次売却して、その収益を市場会計に繰り入れて赤字を補う「たこ足生活」で対応する、(3)減価償却分(大規模修繕・改修などの設備費用)約3050億円と豊洲建設費の不足分、市場の赤字は、すべて税金で賄う―の3点を挙げている。

普通プロジェクトの投資計画を建てる時には、便益と費用を並べて現在価値を出した上で投資の正当化するはずだから、豊洲建設が決まった時点で費用のアプルーバルは出ているはずだ。お金を使ってしまって建物が建っているのに今更「プロジェクト自体が成り立たないかもしれない」などと言い出すのはおかしな話なのだが、それがまかり通っているのが都議会なのかもしれない。
この文章の一番大きな問題は何だろうか。それは政治的な説明責任と経営上の投資の最大化という問題がごっちゃに語られていることなのではないかと思う。
政治責任は過去に起こったことに対して問われるのだから、埋没費用だろうがなんだろうが関係がない。税金を無駄遣いしたのなら正されなければならないし、運営体制がいい加減ならそれも精査されるべきだろう。また、過去にいい加減なお金の使い方をした人は将来にわたってもそういうお金の使い方をする確率が高いからである。さらにモニタリングすらまともにできていなかったわけだから「追加費用がかからない」という言葉の信頼度もわからない。つまり、説明責任に対するクレディビリティの問題だ。これも信用問題で、平田座長は「安心は政治マターだ」みたいなことを言っている。
つまり、政治問題はプロジェクト運営能力と発言の信頼性に分解できそうだ。
一方、商人の世界では持っているお金を最大化しなければならないわけだから、過去にとらわれるのはよくない。サンクコストが問題になるのは長々と投資をしていると成果が上がらなくても「なんとなく後ろ髪引かれる」気分になるからだ。今まで使った金をドブに捨てるのかという気分になる。これが問題になるわけである。このつぶやきの前段には「損きりの言い訳に使われる怪しげな用語」というようなニュアンスがあるのだが、これはある意味では正しい。
さらに、文章の後段は主観やリスクの話をしているので、さらに話がややこしくなっているのだが、この文章は「無理を承知でめちゃくちゃな出費をしたとしても既成事実を作ってしまえば問題はなかったことにできる」と言っているように聞こえる。問題を放置した責任までなかったことにできるんですかと言われれば「それは通らないですよね」としか言いようがない。
同じような論法は原子力発電でも見られると思う。原発事故は起こってしまったので除染に一兆円かかろうが二兆円かかろうがそれはサンクコストだ。ゆえに原発は一番安い電力なのだと言われれば「それは将来同じような災害が起こったらその費用も度外視するつもりなんですよね」としか言えない。だが、実際にはその類の議論がまかり通っている。
豊洲・築地の問題は、利権の絡んだ面倒な政治問題だ。加えて感情的な議論を起こしてページビューを稼ぎたい人たちがたくさんいて、袋叩きすら商売になっている。なので、あまりテクニカルなところには立ち入りたくはない。だが、議論の顛末を見ていると、つくづく党派性のない試算とモニタリング結果が見たいなあと思ってしまう。
長々と1900文字も書いてしまったが、豊洲の問題は「政治的問題(プロジェクト運営能力)」・「政治問題(信頼性)」・「経営(将来の収入と追加投資)」「リスク」の問題がごっちゃになっていることが問題だと思う。中にはわかっててわざとごちゃごちゃに書いている人もいるので、なかなか始末に負えない。
 

石原証人喚問という猿芝居を見た後の虚しさ

石原元都知事への証人喚問が終わった。「よくわからなかった」という感想が多いみたいだ。最初は細かい経緯をあまり知らずに聞いたのだが、あとで調べてみて「ああこれはひどいな」と思った。で、さらに別の話を聞いてかなり打ちのめされた。この感じはなかなか説明できそうにない。ちょっと長くなるが順を追ってまとめてみたい。

最初の感想

まずは経緯を知らないでNHKの中継を聞いた。感想は「まあこんなもんだろう」というものだった。
第一に石原さんは「海馬異常で記憶が曖昧」と言っていたので「豊洲移転について都合の悪いことがあるが言えない」と告白しているんだと思った。石原さんが海馬に異常を持っているのなら、過去の実績も忘れてしまっていたはずだ。選択的な記憶の分別は海馬にはできないからだ。しかし、自分が何を成し遂げたかということについてはよく覚えており、小池都知事を糾弾するネタも仕込んできたらしかった。
海馬は新しい記憶を収集する役割があり一度獲得した記憶には関係がない。嘘はつけないので記憶にございませんと言うのがお約束なのだが、知っている人が聞いたらすぐに露見するような科学知識のぞんざいな扱いに呆れだ。
自民党の質問は豊洲移転の正当化なので特にコメントする必要はないと思うが、公明党も選挙用に「自分たちは石原さんと対決している」ということを印象付けたいだけという感じだった。面白いのは民進党の質問だ。東京ガスの元社長と会っていたことについては記憶にないという答弁を引き出していた。つまり会っていたので言えなかったのだろう。このことから、東京ガスとの個人的なつながりを勘ぐられることは都合が悪いということも石原さんは理解していたことになる。だが、なぜか追求はそこ止まりだった。
音喜多都議の一連の質問が誘導しているのは、東京ガスが土地汚染に関して免責になることを東京ガスと浜渦さんが知っており、なおかつ都の関係者が知らなかったということだ。つまり「都議会は騙された」と言いたいのだろうということがわかる。
それでも、石原さん怪しいという印象がつけばあとは有権者が判断するだろうから、まあこんなもんでいいんじゃないのかと思った。つまり「豊洲移転は石原さんとお友達がおいしい思いをするために東京ガスと密約し重要な情報を都民に知らせなかった」という印象さえ残ればそれでいいだろうと考えたのだ。

実は民進党も含めて猿芝居だったらしい

さて、ここでちょっとしたバックアップのつもりで過去の経緯について調べてみた。石原さんが繰り返し言っていた「浜渦に任せていた」という浜渦さんだが、民主党(当時)の議員に「やらせ」の質問をさせたことを糾弾されて辞任しているそうだ。当時の浜渦副都知事を追い落としてたのは自民党の内田茂さんだと噂されているという。じゃあどうして浜渦さんと内田さんが対立したのかということはよくわからなかった・
これまでの経緯をおさらいする。かなり観測と類推が混じるすっきりしないストーリーだが一応つじつまの合うお話が作れる。

銀行も頓挫させていた石原都知事は新都心開発が巨額の赤字をなんとかする必要に迫られており(事実)、これを築地の土地売却などで穴埋めしようとしていた(類推)。しかし、めぼしい移転先がなく、多摩地域に移転させるというアイディア(本人証言)も周囲から一蹴される。唯一残っていた土地が東京ガスの工場跡地だった。しかし、東京ガスはここに市場を持ってくることが現実的でないことを知っており、売るのをためらっていた(関係者証言)。そこで「豪腕」浜渦さんが「土地の処理は東京都で行う」という密約を交わした(音喜多質問より類推)。都知事は「なんとしてでもあの土地を買いたかったが東京ガスは売りたくなかったので、豪腕浜渦氏を起用した」と証言している(本人証言)。

一方で、民主党は豊洲移転に反対していた(事実)。こちらの対策は内田茂さんに頼った(「いわゆる事情通」の観測)。内田さんは民主党議員をひとりづつ切り崩して行ったとされている。民主党議員がどうして転向したのかということがわかる資料はない。

土地の処理に東京都の費用が入るのは問題にならなかった。むしろ多ければ多いほどよいとされたのかもしれない。なぜならば石原都知事の関係者が土地処理に関連していたとされているからだ(事情通の類推)。これが「豊洲利権」と呼ばれるようになったようだ。築地を売ることは利権にならないが、土地浄化事業が利権になったということになる。

石原さんのこの完璧な計画には二つの誤算があったようだ。一つは浜渦さんと内田さんが対立してしまったこと。旧東京都庁(大手町)の処理で二人が対立したことが原因だと噂されているようだ。結局、石原さんはこの対立を安定させることができず、子飼いだった浜渦さんを退任させている。もう一つはこれだけの巨費を投じたものの土壌処理がうまくできなかったということである。赤字にまみれた東京都を救おうとして始めた事業なのかもしれないが、結局関係者の食い物にされてしまったのである。
すると共産党と生活者ネット(もしかしたら音喜多さんたちも)以外はこの問題に連座していたことになり、都議会はとても石原さんを追求することはできないだろうことが予想される。石原さんが逆ギレして「お前らもおいしい思いをしただろう」といえば大変な騒ぎになる。だから石原さんは笑っていられたのだなと思った。結局は猿芝居だったようだ。

私たちは何を売り渡してしまったのか

当然、マスコミもこのことを知っていたはずで、お笑いタレントなどに「いやあ真実がわかりませんでしたねえ」と言わせていたことになる。つまりはみんながグルになって、何の意味もないショーを見せられたのかもしれない。だが、まあ世の中ってそういうものだよねと思った。
そこまで考えたところ、Twitterに建築エコノミストの森山さん書いた記事が流れてきた。この対談を読んでまた気持ちが揺れた。日本の魚河岸文化と築地の継承についてストレートに論じている(リンク先はPDF)のだが、猿芝居を見た後では眩しすぎて正視できない感じだった。バブルの失敗を隠蔽するために自民党も民主党も魂を売った上に生活(議席)のために敵味方に分かれて猿芝居を演じているのだが、それが売り渡そうとしたものの正体は我々のおじいさんやおばあさんたちが真面目に積み上げてきた暮らしやなりわいの集積だったということになる。
石原元都知事の薄っぺらい愛国を責めることもできるのだろうけど、あまり意味はないように思えた。表面上の対決を面白がって見ていた自分を含めて、もう本当に大切なものをかなぐり捨ててしまったんだなと思えたからだ。本当に貧乏って辛くて惨めなものだなと思った。
石原さんは周りにいる人たちを抱き込むために巨大なプロジェクトを必要としていたのだろう。このあとオリンピックを言い出して、国を巻き込んだ騒動に発展している。大企業が利権に群がるために、これも巨額の赤字が予想されている。オリンピックは戦後復興を成し遂げた日本人の誇りだったオリンピックだが、今回は「日本人はもう国を挙げて大きなプロジェクトを成し遂げられないほど衰退してしまったんだ」ということを直視する大会になるだろう。でも、お腹が空いた関係者に食べさせるためには、もう「誇り」とか「伝統文化」などは捨ててもいいような取るに足らない存在だったのだ。


森山さんからこのようなツイートをもらったのだが「はいそうですね」などという返事は簡単にできなかった。何かとても情けない気持ちでいっぱいになってしまうのだ。

豊洲の青酸マグロ

前衆議院議員の川内博史さんという人が「豊洲には青酸マグロの可能性がある」みたいなことを訴えていた。


民進党のことは信じていないので、テレビに乗りたくてウケ狙いで危ないこと言ってるんだろうなど考えて、軽〜くツイートしたらご本人から返信が来た。答弁を調べろという。ちゃんとURLつけてくれればいいのにとブツブツいいながら調べたら答弁が出てきた。リンク先はPDFだ。拙い理解なのだが要点は次の通り。

  • 環境省の基準は飲み水についてのもので、揮発したものがどういう影響を及ぼすかということは考慮に入れられていない。
  • 実際に対策を取るのは東京都と農水省なので環境省としては豊洲の危険性についてコメントする立場にない。
  • モニタリングもちゃんとやるから危険があればちゃんとわかるはず。

まあ、豊洲について日頃からウォッチしている頭のいい文化人のみなさんはちゃんとこのあたりを読みながら議論しているんだろうけど、暖かい春の陽気でぼーっとなっている上に森友学園の面白いおっさんに夢中になっており、豊洲で何が起きているのかということはきちんとフォローしていない。ずいぶん前に環境基準は飲み物についてのもので魚市場などのための基準ではないみたいな話を昔聞いたことがあり、最近は「飲み水は水道だから大丈夫」というような説明を聞いた気がする。小池さんもコンクリで固めてあるから平気なんだけど消費者の理解が得られないみたいなことを言っていたような気がする。
答弁を読む限りは「シアン化合物が飛散してマグロについたら青酸マグロになる可能性があり、その可能性はゼロではないけど、わし(環境省)は知らない」であり、シアンが出たらか即青酸マグロになるというわけではなさそうだ。そういう意味では川内さんは言い過ぎである。だから、シアン化合物が検出されたとしたら、マスコミは下記のことを調べるべきなんだろうなと思った。

  • これがある程度永続性があることなのか、地下水モニタリングシステムの稼働に伴う一時的なものなのかを調べること。
  • 付着するんだとしたら、食べたら死ぬのか、お腹を壊すくらいなのかということをきっちり説明してもらうこと。

そこで新聞を調べてみた。日経新聞はシアン化合物は猛毒なんだけどコンクリートで覆われているから大丈夫みたいなことを言っている。漏れた時の想定がないのでちょっと怖いなあ〜と思う。NHKもシアン化合物がどのように危険なのかは書いてない。笑ったのは時事通信で

会議後の記者会見で平田座長は「地上は大気の実測値を見ても安全。地下も対策をすれば(有害物質を)コントロールできると思う」と述べる

思うってなんだよという感想を持った。多分平田さんはなんかあっても責任とらないですよね。
まあ、よく考えたらわざわざ毒がある土地を買い取って市場なんか作らなきゃいい話で「何やってんだ」くらいの感想にしかならない。浜渦さんは「難しい交渉をまとめて褒められてもいいくらいだ」などと言っていた。何言ってんのかわかってんのか。なんかロシアンルーレットみたいだけど、青酸というと「毒入り危険食べたら死ぬで」だ。
驚いたのはこれが民主党政権下での質問だということで(別に民主党の監督が不行き届きだったということを言いたいわけではないのだが)同じところをぐるぐる回っているんだなあと思った。日本の土木技術というのはそれなりに優れていて、なおかつ世界に輸出しようというくらいなのだと理解をしていたのだが、魚市場も満足に作れないわけで、それほどでもないものなのかもしれない。
小池都知事はいろいろ言っても「もうトップが変わったのだから、これからはきっちりマネジメントします」みたいなことをいうのかなあと考えていた。しかし「青酸マグロ」が出てくる可能性があるとしたら、もうアウトなのではないかと思う。実際に被害が出たらシャレにならないし、ここまでいろいろなことがわかって許可したら、もうこれは間違いなく小池さんの責任になってしまうからだ。
だが、みんななんとなく他人事に見える。マスコミも「小池さんがなんとか決めてくれるだろう」という姿勢らしい。でも自分の口に入る可能性のある食べ物については自分で判断したくないですかと言いたい。新聞はそのために必要な情報を提供すべきだろう。それともみんな魚なんか食べないんだろうか。

豊洲移転問題の識者達は全員大学からやり直せ!

東京スポーツWebを見て、おじさんわかっちゃったよ!と思った。次の瞬間これまでウンウン悩んだのはどうしてなのかと思い、そして腹が立った。どいつもこいつも大学からやり直すべきだとすら思った。

と、意気込んで書いたのだが、その後数時間経って「過去の調査費用が高すぎる」とか、専門家委員会がちゃんと検査したかどうか評価し直すという話が流れてきた。科学が理解できていないというだけでなく計測すらまともにできない人たちだったみたいである。

「豊洲の土地が汚染されている」といったとき、我々素人が考えるのは「きれいな土地と汚い土地」があって、その検査値はいつも変わらないという世界だ。きれいな土地からは有毒物質は出ないし、汚い土地からは有毒物質が出る。ゆえに、検査値がまちまちということは「誰かが隠蔽していた」か「検査方法が間違っていた」ということになる。
ところが、実際には地下水処理の仕組みが働いている。つまり、豊洲は動的に動いていることになる。もちろんそれ以外にも雨が降ったなどという環境の変化もあるだろう。これまでの調査ではこの処理システムがどう動いていたか、どれくらいの影響があったのかということは全く問題にされていない。が、よく考えてみると「条件が同じでないのなら結果がちがっていて当たり前」である。
小池都知事はこのことがわかっていない可能性がある。検査機関を複数にしてやり直すと言っているからだ。これは検査機関が「エラー」を起こす可能性は排除していないが、環境が変わること想定していないということになる。もし観測対象が動的に変化している可能性がわかっていれば、複数の人から話しを聞いていたはずだ。環境が違うのだから安全数値がでても、過去の測定が間違っていた証明にはならないのだ。
これがどれくらい馬鹿げているかということを簡単な例で説明しよう。昨日と今日で外の温度が変わっているが、それは温度計が壊れているか誰かが嘘をついているのではないかと疑っているような状態だ。実際には雲とか地球の傾きなどが複雑なふるまいをした結果温度が変わっているだけなのだ。つまり、昨日20度あったからといって、今日が9度しかないということを否定することはできない。
しかし「温度が10度以下だとお外に出てはいけませんよ」と言っているので、気温が10度を下回ると「本当は10.1度あったのではないか」とか「外に出てはいけない基準は半ズボンのときだから長ズボンを履いてはどうか」などと言い争っていることになる。別の人は「みんな10度ルールを守っているのだから、それが違うなどと言い出すのは人の道に反する」と叫んでいる。
じゃあ、安全に管理できるなら豊洲に移転してもいいんじゃないかという声が出てきそうだが、そうではあるまい。リスクがある土地に移転した場合、そのリスクを管理し続ける必要がある。だが、都のリスク管理能力はほぼゼロに近く、モニタリングすらまともにできない。
多分モニタリングするチームと地下水処理のシステムを動かすところなどが別のセクションにありお互いに調整しないままに事業が進んでいるのではないだろうか。都はプロジェクト管理能力がないのだから、豊洲移転などもってのほかだということになるだろう。
なぜ都が当事者能力を持っていないのかはわからない。日本の大学教育がぶっ壊れているか、集団になるととたんに無能化するのだろう。
 

日本人は合理的に事実が扱えない

なんだか、たくさん読んでいただいているようで恐縮なのですが「そうだ!」という意見があまりにも多いので、ちょっと怖くなってきました。「いや、そんなはずはないのでは」という幾分批判的な視点でお読みいただいた上で、できればこれを乗り越える方法などを考えていただけると幸いです。(2017/1/22)


築地・豊洲問題が新しい展開を見せている。会社を変えて調査をやり直したところ有毒物質の計測値が跳ね上がってしまったのだ。これを見ていて日本人には合理的に事実が扱えないんだなあと思った。
残念なことに、事実が扱えない原因には幾つかのレイヤーがあり普通の日本人がこれを乗り越えることは不可能だろう。それは非合理的な判断基準、プロセスへの無理解、文脈(党派性など)への依存である。

穢れと安心安全

最初のレイヤーは穢れに関するものだ。食卓の上に雑巾と靴をおいて食事をしてみるとよい。例え完全に消毒していても「その汚さ」に耐えられないはずだ。これは普通の日本人が外を穢れとして扱うからである。こうした文化を持っているのは日本人だけではないそうだが(インドやイランでも見られるそうである)極めて珍しい特性だと考えられている。これは最近「安心・安全」として語られることが多くなった。
東京ガスが「穢れさせた」土地には有毒物質があり、それを完全に遮蔽できたからといって日本人には耐えられないだろう。石原元都知事は「保守だ」「愛国者だ」などと言っていたが、日本人が持っている非合理性には全く理解がない人だったということになる。普通の日本人は東京ガスの跡地では食べ物を安心して扱えないと考えるのだ。それは靴を滅菌消毒しても「汚い下ばきだ」と考えるようなものだ。

プロセスに全く関心がない日本人

次の問題はプロセスに対する理解の不足である。都はこれまで、たいへん甘い計測をしてきたらしいのだが、今回違った計測値が出たことで「何かの間違いではないか」と言い出す人が出てきた。本来なら、過去の計測方法と今回の計測方法を比較して批判すべきなのだろうが、政治家もマスコミもそのようなことを言い出す人はおらず、単に計測結果を見て慌てている。学校で「アウトプットの正確さはプロセスに依存する」ということを習ってこなかったからだろう。
この無理解を「理系文系」で分けて考える人がいるかもしれないのだが、例えばMBAの授業では統計の取り方を最初に教わる。これはアメリカの企業経営では当たり前の考え方なのだが、日本人は統計を気にしない。もともと事実が意思決定にはあまり寄与しないからなのだろう。
加えて日本人はジャーナリストになるのにジャーナリズムを専攻しない。このため社会に必要な知識を学ばないまま専門家になってしまうのだ。
もっとも小池政治塾では統計の読み方を最初にテストしたようである。これは教育の問題なので、西洋式の教育さえ受ければ克服可能だろう。

文脈への依存・誰が言っているかが重要

にもかかわらず日本人は党派性を強く意識する。橋下徹弁護士は随分早くから「安全性はいずれ証明される」と予言してきたが、実は何の根拠もなかったことがわかった。だが、維新の党の人たちはこれに追随してきた。そこでポジションができてしまい、今では「今度の統計は何かの間違いでは」と騒いでいる。よく考えれば彼らは部外者であり、この件にはなんのかかわりもない。彼らが関心を持っているのは小池都知事の人気と橋下さんへの忠誠心だ。
だが、こうした早急さは新聞記者にも見られる。彼らも調査はリチュアル(儀式)だと考えており、数値の発表の前に小池都知事の「決断」を聞きたがった。新聞記者たちはジャーナリストでございますなどという顔をしているが、単にジャーナリストの衣服をきたピエロのような人たちで、事実は文脈によって決まり、その文脈は俺たちが決めると考えているのである。ジャーナリストは小池さんに直接何かを聞ける立場にいるので、それにどう色をつけたら文脈を操れるのだろうかということばかりを考えている。

文脈への依存・世論の動向

もう一つ文脈が大きな役割を果たしている現象がある。実は豊洲移転には明確なOKの基準がない。安心(穢れが全くない状態)を基準にするのか安全(リスクが管理されている状態)を基準にするのかがわからないのだ。代わりに「騒ぎになっていること」が移転判断の基準になってしまっている。リスク管理(安全)を基準にするならできるだけ詳細なデータを取っていたはずだ。リスクがわかれば管理できるからである。しかし、甘い調査をしていた点をみると「瑕疵がない」ことを証明することが調査の目的になっていたようである。これは、安全にも安心にも関係がない。石毛亭が正しかったという証明である。しかし、彼らの思惑ではシアンを無毒化することはできなかったのである。最初からシアンがあることがわかっていれば、それを封じ込めて「リスク管理ができるから安全ですよ」と言えていたかもしれない。

豊洲移転は不可能になった

いずれにしても豊洲への移転は不可能になったと考えてよいだろう。例え次の調査でこれまで通りの低い数値が出たとしても「隠蔽している」と信じたい人は今回の数値を引き合いに出して反対運動を続けるだろうし、消費者たちはなんとなく疑念を持ち続けることになるはずだ。さらに外国人はもう日本の魚を買わなくなるに違いない。これは日本人が事実を扱えず、従って適切にリスク管理ができていなことが原因なのである。政治的には豊洲移転は可能だが、これは日本の伝統に対する信頼を大きく毀損することになるだろう。
 

豊洲移転問題と関東軍

peekいつものようにアクセス解析を見て驚いた。突然アクセスが跳ね上がっているのだ。何か炎上したのかと思い緊張した。
色々調べるとミヤネ屋で「豊洲市場移転チームの技術屋は関東軍だ」という説明があり、関東軍がなんだかわからない人が調べたらしい。テレビの影響って怖いなあと思った。YouTubeを見ると確かに関東軍という見出しになっているが、関東軍についての説明はほとんどない。

関東軍とは

関東軍は「専門家が暴走した」比喩として用いられる。満州の防衛を担っていた陸軍の組織で、関東とは満州のことで、日本の関東地方とは全く関係がない。関東軍が有名になったのは、第二次世界大戦は陸軍が勝手に起こしたもので、天皇も国民も知らなかったという説明に用いられるからである。
関東軍が中国大陸で「暴走」していた時期はちょうど大恐慌の時代に当たる。政府は経済運営に失敗したが政争に明け暮れており解決策を提示しなかった。陸軍本部も東京で内輪の出世競争をしていた。そこで現場は「どうせ、東京には中国大陸の事情はわからない」と考えて、勝手に中国の要人を殺し、戦線を拡大した。
しかしながら、東京側は陸軍を罰せず、作戦を追認した。国民の圧倒的な支持があったからだと言われている。当時の大手新聞社もこれを煽ったのだ。国民が支持したのは軍部が戦線を拡大したことで日本の景気がよくなったからだ。中国大陸に植民地ができたことで需要が喚起され、余剰の労働力が吸収された。この結果、日本の景気はいち早く回復した。
しかし、この回復は出口のない戦略だった。中国の利権獲得を狙ったアメリカと衝突して外交的な緊張関係に陥る。資源輸入を制限され国民生活は窮乏する。結局日本は挑発に乗る形で真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦ののちに中国利権を失った。

関東軍と豊洲移転チームの違い

関東軍と豊洲移転チームには共通点がある。本部が無能でありプロジェクトを管理する能力がない。別の事象に夢中になっていて現場に関心もない。現場には特有の危機感があり、リソースはないが問題を解決する能力を持っている。すると、状況をよく考えずにプロジェクトが始まってしまうのだ。いわゆる「出口戦略」がないので、いずれ状況は破綻する。専門家には多様な視野がないからだ。
一方で違いもある。関東軍は「勝手に暴走した」わけではない。もちろん最初のきっかけは暴走なのだが「結果を出した」ことで政府や国民の信任を得ることになる。国内の政治は二大政党による政争だったのだが、戦時体制に組み込まれ「一致団結」する道を選んだ。これが後になって翼賛体制と批判されたが、当時は「話し合いではないも解決せず行動あるのみ」という空気があったのである。

楽譜の読めない人を指揮者にしてはいけない

豊洲移転問題の要点は「楽譜の読めない人を指揮者にしてしまった」ことにある。当時の東京都政の喫緊の課題は予算の膨張を防ぐことだった。石原都政は銀行経営に失敗しており、都の金を使っって後始末したばかりだったからだ。
有毒物質を産出していた土地で食べ物を扱うわけだから「100%の安全」のために万全の対策をとれば金がいくらあっても足りなかったはずだが、石原慎太郎は判断の間違いを認めず、現場になんとかさせようとした。
そこにコストカッターと言われる市場長がやってきて「どうせお前達は無駄ばかりしているのだろう。費用は削れ。でも安全は確保しろ」などと言われれば、現場はどう思っただろうか。その中でもできるだけのものを作ろうと思った善意の人はいたかもしれないが、微妙で技術的なことを言ってもわかるはずはない。
これは作曲家が「若者に受けてSNSで爆発的にヒットするが、万人に理解される音楽を作れ。ただし楽隊の編成は最低限にしろ」などと言われているようなものだ。いろいろ作ってくるかもしれないが、発注者は音楽にさして興味がない。クライアントに言われたことを調整せずに垂れ流しているだけだからである。煮詰まった作曲家は三味線だけで演奏できる演歌を作って持って行く。しかし、発注者は楽譜が読めないので何が書いてあるかわからないのだから「知らなかった」と言って受け取ってしまう。クライアント会議でお披露目した席で「私は騙された」というのかもしれないのだが、それは作曲家が悪いのだろうか。
冒頭に書いたように「関東軍」は、現場が勝手に暴走した際に使われることが多いレッテルだ。含みとしては「議会と都知事は悪くなかった」という総括であり、実際には何も解決していない。しかし、豊洲の場合には図面や契約書には嘘はない。すべての報告は技術的には上がっている。これを「理系が暴走した」と説明してしまうのは、ものすごく乱暴だ。そもそもの原因は「予算はないが100%の安心安全を目指した施設を作れ」という都側の指示なのだ。
ただ日本テレビも番組制作プロダクションが何か問題を起こしたとき「私たちは知らなかった」などと言いそうだなあとは思った。いつも「予算はないが、クライアントが満足できて視聴率がどーんと取れるものを作れ」などと言っているのだろう。そこでプロダクションが安全管理を怠っても「プロダクションが暴走した」などといって済ませてしまっているのではないだろうか。
これをあろうことか「理系(関東軍)の暴走」という表現をしている。「理系」とは一般人にわからないようにわざと難しいことばかりいっている人という意味なのだろう。一般人は難しいことを理解しなくてもいいし、無理難題は専門家に押し付ければいい。日本人が理系離れするのは当然かもしれない。
先の第二次世界大戦の教訓は関東軍の暴走を国民が黙認したことにある。遠く離れた土地の出来事なので多くの国民は「自分には関係がない」と考えて黙認した。戦後も多くの日本人はこれを軍部の暴走と総括して反省しなかった。プロセスには関心を寄せず長期的な視野も持たず、単に結果だけをみて一喜一憂している。日本人だけの悪癖だとは思わないが、同じような失敗が繰り返されていることは間違いがないだろう。

石原慎太郎と保守老人という害

豊洲移転問題の大体の構図が見えてきた。
石原慎太郎は築地市場問題には興味がなかった。しかしながら、東京ガスは有毒で民間が買い取りそうにない土地を都に押し付けたいという希望を持っており、それに政治家が関与した。
東京ガスはいいわけばかりの土地再生処理を行ったのち都に土地を押し付けた。ところが実際に土地を見たところ、当初の予算ではとても処理ができそうにない。そもそも処理できるなら民間が買い取っていただろう。
そこで石原は技術官僚と現場に「なんとかするように」と言い含めた。これを指示だと受け取った現場側は土を使わない節約方法を提案した。しかし、表向きはすべてきれいな土を使うということになっているため議会には説明しなかった。だが、技術文書や契約書には、盛り土はしないということになっており、責任者はそれを了承した。
議会に説明しなかったのはこれをまともなルートで議題に挙げると承認したのは議会だということになってしまうからだ。現場側としては技術的文書に印鑑は押されている。だから承認は受けたと言える。そして、責任者は細かいことはわからないと言うことができる。
ここでいう「老害」とは何だろか。それは、責任を取るべき役席にありながら「知らなかった」で済まされると思っているところだ。石原に至っては「私は騙された」と言っている。役席の特権は享受しながら、実際の責任は取らなくて良いと本気で信じているわけだ。本来なら知らないことを承認することなど恐ろしくてできないはずなのだが、それを考えたりはしない。石原は「都知事とは言われればハンコは押す存在だ」という趣旨のことを言っている。最初から政治的プレゼンスのために都知事という役職を利用したのであって、その責任を果たすつもりはなかったのだ。
有毒の土地を買い取っていて「なんとかしろ、ただし予算はない」と言っている。つまり、判断の責任を取らず、解決策を提示もせず、単に利益だけを貪ろうとしている。もし「知らなかった、できなかった」というなら、すべての報酬を返還すべきだろう。移転中止で莫大な損害を被る市場側は歴代の都知事を訴えるべきである。
どうやら現場は問題を認識していたようだ。盛り土をしても有害物質が上がってくるかもしれないし、液状化して地盤が使い物にならなくなるかもしれない。そこで土地の一部に空洞を作って調査できるようにしていたようである。
よく保守を名乗る人たちは、日本には長い歴史があるので日本人であることは誇るべきだが、個人としての日本人には価値はないなどということを言っている。しかし、実際には私たちが豊かな文化を持っているのは、単に天皇陛下が毎日先祖に祈りを捧げているからだけではない。例えば、毎日危険を覚悟で漁に出かけ、一生をかけて魚の良し悪しを学ぶ仲卸が朝早くから魚を仕入れているからである。つまり、毎日の積み重ねが、私たちの伝統を支えている。
集団無責任体制が悪いとは一概には言えない。それはある意味「優しさ」である。だが、その「優しさ」の結果、築地の伝統が破壊されかけた。それは近代東京が育んできた魚食文化が根底から破壊される可能性を含んでいた。すでに「新市場の土地は汚染されている」という風評が英語で発信されており、東京への寿司ツーリズムは被害を受けるかもしれない。つまり<保守老人>に熱狂した人たちは、日本の伝統を潰しかけたのだ。
真の保守はどうしたらこのような毎日の暮らしを守って行けるかということを真剣に考えるべき人たちなのではないだろうか。なぜこのようなことが起きたのかを真剣に考えるべきだろう。
翻って石原は、自分の差別意識に根ざして尖閣諸島の件で中国を挑発して事態を悪化させるくらいの<愛国心>しか見せなかった。その一方で、暮らしや民族の伝統を守るということについては、何の見識もなかったのである。
一見無関係に見えるプロジェクト管理能力のなさと<保守的発言>なのだが、実際のところは通底するものがあるのかもしれない。現場に対する理解がないからこそ、無責任で放埓な<保守>発言ができるわけだ。
ここで「私こそ真の愛国者だ」と叫びたくなるのだが、それは控えておいたほうがよいのかもしれない。誰でも自分の地域や国を誇りたいという気持ちは持っているものだ。しかし、それを支えているのはなんということのない日々の繰り返しであって、声高に何かを叫んで、誰かを罵倒しても、それが明日を作ることはない。