令和最初の挨拶は?

令和最初の挨拶はどうすべきかという質問があった。昭和から平成に切り替わったときには祝賀ムードはなかったので「そんな挨拶はない」とする意見が書き込まれていた。




とはいえ今回はそのような自粛ムードはないのだから挨拶があってもよさそうではある。ということで一生懸命考えてみたのだが浮かばない。

しばらくして思ったのだが、元号の切り替えというものは新しい天皇に合わせて行われるわけだから、新天皇を祝賀すれば良いのだということに気がついた。つまり「Happy New Reiwa」的な挨拶はないのである。

にもかかわらず令和の挨拶という発想が出るということは、すなわち天皇即位がそれほど重要なイベントだと考えない人がでてきているということになる。怒られそうな例えだが春を祝うはずの節分が「恵方巻きの日」になったようなものだ。

もともと元号というのは、その世界をしろしめす(統治するという意味の古語だそうだ)権力者が勝手に決めていいものだ。統治者にはそのような権限があり、人々は徒然それに従うべきだという考え方がある。だから、その統治者が法律を公布することで人々はそれに従うのもあたりまえなのである。実際に明治政府はそれを利用し「天皇一代で元号一つ」としたのだろう。

このように、元号には非民主的な歴史的背景があるのでQuoraでは「元号は憲法違反なのでは?」という質問もあった。実際に訴訟(Huffinton Post)も起きているようだ。白黒はっきりさせたい人たちにとって、君主制と基本的人権は折り合わないし、国民主権と元号は折り合わない。これをなんとなく曖昧に運用してきたのが日本の日本的なスタイルである。

実際には元号制定プロセスが民主化(人によっては安倍政権の私物化というだろうが)されたことで、実際には真逆の動きが出てきている。元号切り替えがメインであり新天皇即位がサブだと考える人がでてきているというのはその一つの現れである。昭和から平成への切り替わりは「崩御」に向けた自粛期間があり元号切り替えはその一つの流れのほんのひとつのイベントに過ぎなかった。

ところが今回は「元号を変えて今までの閉塞感を払拭したい」という政権側の意向もあったのだろう。元号が政治利用された。

今回は内閣総理大臣が自分の思い込みを乗せて「国書から選ぶべきだ」としたとされている。ところが選定過程が迷走し、令和という元号もずいぶん最近になってから決まったというような話がまことしやかに語られている。安倍晋三さんが時代を支配しているとは誰も信じていないのだから、元号そのものにもはやかつてのようなありがたみはない。皮肉なことに一部の人たちが思い入れを乗せれば乗せるほどそれは俗化されてしまうのである。この国では誰も天皇家に変わることはできないということがわかる。

何もせず何も言わないから聖性を保っていられるというのは実に不思議で実に日本的なあり方だと言える。

政権の意向とは別に国民の間にも閉塞感を払拭したいと考える人がいるのだろう。平成は戦争こそなかったが災害と先の見えない不安に苛まれた時代でもあった。そういう時代を誰かに終わりにしてもらいたいというような希望があるのかもしれない。考えてみれば「新しい世の中をこうしたい」という声は聞かれず「誰かがこうしてくれたらいいな」というような感想ばかりが聞かれる。

こうしたあり方は伝統の破壊のように感じられるが、実はそうでもないようだ。江戸時代にも社会不安から元号を変えて時代を一新したいというようなニーズはあったようである。

特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。「新たな元号に政治改革へのほのかな希望を託していたといえる」(吉野氏)。

庶民の世論が影響? 江戸時代の改元

この記事を読むと江戸時代の人々は干支(60年周期)の暦と元号が組み合わせてつかっていたということがわかる。現在の私たちは西暦と元号を組み合わせて使っており、これも実は昔ながらのやり方を今に受け継いでいるのである。意外と昔から同じようなことを続けているのだ。

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壊し屋いっちゃんと二大政党制の夢

国民民主党と自由党が合併(ロイター)した。自由党が国民民主党に吸収されるということである。この事から、小沢が政党や政策を道具としか思っていない事がわかる。こだわりがないので簡単に潰せてしまうのである。一方で有権者との約束にこだわりのある山本太郎は党を出るようだ。




存続政党である国民民主党の協議は最後までもめ続け(毎日新聞)結局執行部が多数決で押し切った。そして他の野党は「これで野党結集が難しくなった」と言っている。「壊し屋いっちゃん」が民主党を引っ掻き回したという記憶が残っているからだろう。小沢一郎はウイルスのようなもので政党を中から破壊する。その毒素は闘争のための闘争である。

安倍晋三と小沢一郎は同じような「虚無」という属性を持っている。安倍が虚無ゆえに自民党の最高意思決定者に上りつめたのにくらべ、小沢は虚無故に民主党を破壊した。利権を核にする構造はお互いに潰し合うので虚無の中心なしにはまとまらず、利権がない政党は破壊されてしまう。その意味では二人は平成後期の政治の病的な部分を代表しているのだが、その結果は全く反対である。

小沢一郎は小選挙区制を主導した事で知られる。池田信夫がNewsweekで解説するように、派閥内政治に敗れた小沢が党内左派や左派リベラルを潰すために画策したと考えられている。小沢には政治的に実現したいことがない。このため彼の政治人生には政局しかない。闘争で成功して幹事長に上り詰め、闘争ゆえに民主党系の議員から疎まれるようになった。

池田はこの文章の中で次のように書いている。

こう振り返ると、小選挙区制が政治改革だったのかどうかは疑問である。河野氏も後悔しているように、それはかえって政治の劣化を促進したのではないか。中選挙区では小党分立が起こりやすいが、小選挙区はでは絶対多数を取らなければならないので、大衆迎合の傾向が強まる。

小選挙区制は「政治改革」だったのか

このブログをお読みいただいている方は、大衆迎合主義が小選挙区制で広まったのではないという事はご理解いただいていると思う。普通選挙で小選挙区制が中選挙区制になっても大衆迎合主義がなくならず、最終的に大政翼賛会に移行してしまったという歴史があるので、そもそも日本の議会政治には問題解決の能力も意思もない。日本人にできるのは議員たちが闘争のための闘争に陥らないように利権で手なづけることだけでなのである。

どうやら日本の政治は政策ではなく藩閥政治が元になっているようだ。そのため隣の藩は敵ということになり、政策に違いのない人たちが「敵味方に別れて争う」というような政治体制が作られてゆく。藩はもともとお互いに競い合う遺伝子が組み込まれている。これを刺激すると例えばふるさと納税の返礼品競争などが起こる。過剰な闘争はやがて内部から崩壊する。これを官僚が規制で抑えていた。

日本が闘争によって潰れなかったのは官僚組織がしっかりと国家運営をしてきたからである。国家ぐるみで戦争をする1940年体制を作ったのも官僚だったし、戦後処理をしたのも官僚組織だった。彼らが保守本流というグループを作り、戦前からの議員たちからなる保守傍流を退けて戦後体制を主導してきた。この官僚組織がいつ壊れたのはわからないのだが、議会出身の人たちが徐々に政治を蝕んできた。彼らはやりたいこともないのに世襲で政治家になり、そのまま選挙と党内派閥争いという政治に耽溺するからだ。

日本は小選挙区制土を導入するまで、そもそも「政策について選挙に諮った」歴史がなかったにもかかわらず、アメリカ型の二大政党制を目指すとしてしまった。だから、最終的に日本の政治は壊れてしまった。

今後の選挙区制度をどうすればいいのかという事を考えるためには諸外国を参考にすると良いと思う。

アメリカとイギリスは小選挙区制二大政党政治である。候補者が政策コンペをして最終的にA/B案を選択するというやり方である。一方で比例代表制度を活用している国もある。ドイツ、イタリア、イスラエルなどがそうだ。ドイツとイタリアは比例代表・小選挙区併立だそうだが、イスラエルは比例代表だけである。こうした国々では選挙結果を受けて選挙の枠組みを政策協定して決める。

ただ、日本はそれ以前の問題を抱えている。例に挙げた国々では「そもそも政策を提示して選んでもらう」という制度をとっている。だがその当たり前が日本では成り立たないのである。だからどのような制度をとっても結局揉め事が起きてしまうのである。

今回、国民民主党と自由党が合併する事を決めた時、その政策セットを報道するマスコミはなかった。さらに、国民民主党と立憲民主党の政策がどのように違うのかという事もわからない。政策がないのに「共産党だけはいや」とか「小沢一郎は嫌い」という理由で合併の可否を決めているように見える。好き嫌いだけで組み合わせが決まり、内部での揉め事を誰もまとめないままで分解するということを繰り返している。が、それが当然のことだと見なされる。つまり有権者もまた政策には興味がない。

小沢一郎の歴史は集団組み替えの歴史なのだが、結果的にそれは何も生み出さなかった。そこには目指すべき国家像がないからだ。だが、その像を作ることが日本人にはできない。なので、小沢は迷走し続けるしかなく、結局誰も注目しなくなってしまったのである。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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上級国民

天から落ちてきた人を叩く

飯塚幸三元工業技術院長が轢き逃げ事件を起こし(日経新聞)た。母子がなくなっており夫の無念の会見が印象的だった。しかしこの件では全く別の件が大きく取りざたされることになる。それが「上級国民」という悪意のあるキーワードである。




飯塚さんが逮捕されなかったことをうけて「上級国民だから警察が忖度しているのではないか」と話題になったのだ。J-CASTが面白い分析をしている。日本では推定無罪原則が無視されており、逮捕が社会的制裁と捉えられている。しかし、上級国民であればそうした制裁を免れることができるのではという疑念が国民の中に渦巻いているというのだ。あるいはそうなのかもしれない。

よく衆愚主義などというのだが、その行動動機は社会正義の追求である。ただあまりにも「勝ち負け」にこだわりすぎるので最終的にはリンチ担ってしまう。もともと法の下の平等も推定無罪の原則も建前としか思っていない国民だが、政府に反抗することはできない。だからそこから落ちてきた人を執拗に叩くわけである。

そこにあるのは弱者叩きの快感だけだ。テレビは一応「この事故を繰り返さないように議論が進むものと思われます」などと言っていたが「嘘つけよ」と思ってしまった。誰かを叩くコンテンツは売れる。だから流しているわけで、問題解決など実はどうでもいいという姿勢があまりにもあけすけだった。

見たくない現実は実は目の前にあった

先日、石窯のあるパン屋に立ち寄った。イートインスペースがありそこで100円シュークリーム(コーヒー付き)を食べていると、次々と高齢者が入ってきた。食事を作るまでもないが何かちょっといいものを食べたいくらいのニーズを持っている人たちがパンを買いに訪れるのではないかと思う。

ここのところ本当に杖をついている人をよく見かけるようになったのだが、彼らが運転してきていることにまでは気がつかなかった。外にあるイートインスペースからは駐車場が見えるのだ。

一人で買いに来ているお年寄りもいたし、あるいは夫婦揃ってという人もいた。夫の方が足が悪くて「運転は男がするものだ」という気持ちが強いのではないかと思う。そして無理を重ねた結果事故を起こすのだ。このことからも「弱者に転落」することを恐れた天国の住人が最終的にとんでもない加害者として人生を終えることになるという悲劇があるように思える。

皮肉なのは飯塚さんが官僚だったということだ。つまり政府の一員も国が助けを必要とする人を救済するなどということを全く信じていなかったことになる。自分で外出できなければ自分も粗末に扱われるだろうという確信があったのだろう。

それでも失敗した人を叩き続ける社会

このようにみな漠然と落ちてゆく不安を抱えており、なおかつ現実に落ちてきた人たちを容赦なく叩く人たちも多い。

ただ、本当にそれでいいのだろうかと思った。なぜならば自分も、加害者家族になるという可能性があるからだ。そこで、家族に免許返納させたことがある人はいますか?」と聞いてみた。案の定答えはつかなかった。さらに「加害者の関係者になる可能性もあるのでは?」と回答もしてみたが、やはり飯塚さんや家族の責任を問うコメントがついた。

日本人は「弱いもの」と認定されるのを嫌い、また「弱いもの」は無制限に叩いて良いという社会である。そしてどうしたら勝てるかを冷静に見ているので決して政府に改善を訴えかけたりはしない。このようにして私たちは毎日息苦しい社会を自分たちで作っている。その間問題解決は「おやすみ」になる。こうして問題ばかりが積もってゆく。

ただ、あまり世の中を嘆いてばかりもいられない。最近は忙しくて余裕のなさそうなお母さんや高齢者の運転が増えている。携帯電話で連絡を取りながら車を運転している人も珍しくない。だから、車を見たら運転席を覗き込むようにしている。向こうから「どうぞ」と言ってくるまでは絶対にこちらからは(たとえ信号が青でも)渡らないようにしている。

社会が弱者叩きに邁進し問題解決をしないのだから「自分の身は自分で守らなければならない」のである。多分、今回教えるべきだったのは「車は絶対に信用してはならない」「青信号を鵜呑みにしてはいけない」ということなのだろうと思う。

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消費税はなぜ導入されたのかというそもそも論について見直す

Quoraにまた面白い書き込みを見つけた。「消費税議論は本来福祉目的税なのに議論が混乱している」というのである。




これを聞いて「この人は何を言っているのだろう?」と思う人もいるかもしれないのだが、実は消費税は福祉目的の税ではない。Quoraで再度質問すると「もともと大型間接税議論だったのに変ですね」という人もいたので知っている人は知っている。消費税は使い方が限定されていないにもかかわらず福祉目的税と説明されるので「あれ変だな」と思う人もいるだろうが、実はそれが正しい見方だ。にもかかわらず多くの人が福祉目的税だと信じている。

さらに問題なのは実は政治家たちも最初の目的をよく理解していないという点である。確かなことはわからないのだが、これは官僚が政治家を操作しようとして失敗したのではないかと思う。この辺りは読み手の皆さんに判断していただくとして、経緯だけを説明したい。

まず概念整理をする。最初の書き込みに答えるときにやや混乱し、そのあとで調べ直したものである。間接税に一般間接税(消費税)と贅沢品にかける税があるというのがポイントである。

  • 直接税:法人税や所得税など
  • 間接税
    • 自動車(税制上は贅沢品扱いになっている)に関する各種税・お酒・タバコなどの贅沢品への課税
    • 一般物品にかける消費税

消費税導入の狙いはもともと財源の安定化と単純化だった。シャウプ勧告で整理された間接税がなし崩しになっており、再度引き締め直そうとしたところに原点がある。途中まで読めるコトバンク(世界大百科事典)は次のような書き出しで始まる。

もともと直接税としての所得税にはサラリーマンが補足しやすく農業などが補足しにくいという問題があった上、将来は少子高齢化で現役世代が減り捕捉がますます難しくなるという予測があった。しかし、これを従来型の間接税で補うと体系がますます複雑になる。これを直間比率の見直しという。

ところがこの説明で政治家を納得させることはできなかった、むしろ彼らに響いたのは「赤字国債の穴埋め(つまり財政再建)」という説明だった。子孫に借金を残すなという言い方が真面目な日本人にアピールしたのだった。ここが最初の失敗である。

だから、竹下内閣で消費税が導入されたときの目的は財政再建だった。

ところが政治家の説明に国民は納得しなかった。ロッキード事件やリクルート事件で金権選挙批判があり自民党は選挙で負け続けたので「年金が維持できなくなりますよ」という説明に変わった。否定的だった細川内閣が突然構想がぶち上げて頓挫(内閣そのものが崩壊)するが、この頃から福祉が全面に押し出されるようになり現在に至る。政治家も官僚も国民さえ納得させられればいいと考え始めたのかもしれない。

ところがこの嘘は現在収拾がつかなくなりつつある。元々の目的が税制の簡素化であるという視点が忘れられているので軽減税率が導入された。この後この軽減税率は複雑化するだろう。官僚システムがしっかりしていた日本の議会政治は国家運営について真剣に考えないので、税制議論が票取引の材料に使われてしまうのだ。現在のTwitter論壇では「選挙に有利だから5%までの引き下げを検討しろ」などという議論が真剣に交わされている。

財政再建という目的すら忘れられており、プライマリーバランス黒字化の目標は先送りされ続けている。ついに「国債は無限に発行できる」という日本版MMT理論が議論されるようになった。

国民の多くは「自分が生きている間は年金システムを維持してほしい」と考えており福祉目的税だと信じている。一方、安倍政権は手薄になっている現役世代を民主党系に取られまいとして、教育無償化にも使いますよと範囲を広げてしまった。

そして、自民党の足元から消費税延期議論が出てくると慌てて「消費税を延期すれば一兆円の国債を発行しなければならない」と言いだしている。消費税増税を前提にして予算を組んだのだから延期すればそれがなくなるのは当たり前なのに、もう使い道を決めたから止められないのだという議論を始めてしまったのである。

さらに、政府の説明も「直間比率の単純な見直し」となっているものがある。これを見ると直接税(所得税と法人税)に何か欠点があるように見えてしまうのだが、実はこれも本質ではない。間接税の中にも自動車関係税のように徴収に手間がかかる税金があるからだ。そうすると読んでいるうちにとても混乱してしまう。

引きの絵で見ていると、とても無駄な議論をしているということがしみじみわかると思うのだが、Twitterで情報を眺めているとなかなかそれが実感できない。もともと説明しやすい嘘から始まった議論なので、細かな情報を調べれば調べるほど話がわからなくなってしまうのである。現在の国会議論はとても混乱しているように見えるのだが、実はこれが定常なのかもしれない。

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日本「右傾化」の確かな傾向 – ピエロが暴走するとき

先日来お伝えしているようにQuoraで政治系の質問をすると萩生田光一さんに期待するコメントがいくつか見られる。彼らのメッセージが静かに浸透していることがわかる。




よく「右傾化する日本」という言葉を聞く。右傾化というと戦争への道を突き進み中国と韓国を蔑視するようなイメージがある。確かに安倍官邸のやり方を見ているとそんなところがありヒヤヒヤさせられるのだが、実態を見ているとそれだけでは説明ができない何かがあるようだ。Twitterだとこれが確かめられない。結論だけで背景となった思考がよくわからないからだ。

ところが、Quoraの回答を読んでいるとちょっとだけ輪郭がつかめるようになる。彼らは旧来の政治システムや社会体制に対して疑問を持っているようだ。だが、改革勢力が現れないので、自民党内部から打破して欲しいと思っているのではないかと思う。こうした「ネトウヨ」の心象にはいい自民党と悪い自民党が存在するのだ。地方の利権にまみれた自民党や消費税を上げようとするのは悪い自民党なのだが、自分たちの話を聞いてくれる良い自民党もある。それは日本を中国との戦いにおいて、あるいは生産性革命において我々国民を力強い勝利に導いてくれる自民党である。

若年層はネットリテラシも高く、自分で情報を集めた末に同じような結論に至っているのだから、背景にはそれなりの感情に彩られた合理性があるのだろう。

皮肉なのはネトウヨがこう思わされている背景も透けて見えてしまうところである。

萩生田さんに代表される「良い自民党」の人たちはいわばガス抜き要員である。自民党は本質的には利権分配政党だがそれだけでは無党派層が集められない。だから社会への不満と怒りを乱暴な言葉でぶつけられる人を「おもちゃのように」与えておいて取り込もうとしたのだろう。誰が考えたのかは知らないが戦略としては面白い。

萩生田さん対する公明党や二階幹事長の「いなし」はそれを示している。つまり彼らはガス抜きのピエロであって表にしゃしゃり出てきて「真面目な政治」に顔を出してはいけないというのだ。実際に萩生田さんは黙って従っていた。日経新聞は短く二階幹事長と山口那津男代表のコメントを伝えているが、実際の会見では二階さんは「代理だっけ代行だっけ」と記者たちの前で本人を屈辱して見せた。朝日新聞では「安倍首相以外の発言は聞き逃せ」と言っている山口代表の声を紹介している。これまで新聞を読んできたハイコンテクストな日本人はそれをすぐに察する。

だが、ネットが台頭し新聞を読まない層が出現したことで、このハイコンテクストが伝わらない層が出てきているのかもしれないと思う。彼らはネトウヨ系議員のガス抜き発言を信じ込んでしまい「自分たちこそが正統な自民党支持者だ」と思い込む。彼らは新聞の情報を読まないからだ。

今回の大阪の動きを見ていると「自民党に投票していた無党派」と呼ばれる人たちが維新に流れてしまったという様子がうかがえる。日経新聞は次のように伝えるが、実は自民党の支持者も別の政治家に流れているのだ。

  • 「支持する政党はない」と答えた無党派層のうち自民党候補に投票したのは、大阪12区では13.6%、沖縄3区では23.8%にとどまった。
  • 無党派層から最も多くの支持を集めたのは、大阪12区では無所属元職の樽床伸二氏で40.7%。日本維新の会新人の藤田文武氏が36.7%で続いた。無所属元職の宮本岳志氏は9.0%だった。
  • 自民党新人の北川晋平氏は同党支持層も53.5%しか固められず、23.1%が藤田氏、21.3%が樽床氏にそれぞれ流れた。

今後この流れが全国に広がるのか(あるいは広がらないのか)という点が問題になる。実は有権者は自民党・公明党が考えるのとは違う理由で自民党を信じていたがついに痺れを切らせたのかもしれないし、あるいはガス抜きが効かなくなりもっと強いメッセージを求め始めたのかもしれない。

いろいろ記事を探したり質問をして見たのだが、これが何を意味するのかを分析した人はいなかった。あるいは分析する人は現れずなし崩し的に事態が動くのかもしれないと思う。バラバラだった無党派層をどう取り込むかが既成政党の宿願だったわけだが、いよいよこれが塊になって暴走する可能性が出てきたのである。

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自民党青年将校たちの転戦

先日、QuoraでMMTの質問をしたのだがどうも反応が良くなかった。MMTというのは西田昌司さんが国会で質問して有名になった理論だ。国が借金を引き受ければいくら引き受けても大丈夫だという夢のような話なのである。だが、西田さんの話を聞くとアベノミクスというのがそもそも撤退の結果生まれ、また別の撤退をしようとしているということがわかる。




東洋経済の「あ、またか」というニュアンスがあまり伝わっていないようだ。経緯を忘れている人が多いからだろう。だが、これについて調べるとそもそもアベノミクスの失敗を証明しようとした野党の戦略がなぜ不毛だったのかがわかる。そもそも撤退戦なので「最初から失敗している」のである。

この議論は消費税増税派と上げ潮派のせめぎ合いが源流だ。もともと構造改革をして経済成長をさせるという小泉・竹中路線があり、それを継承したのが「経済成長を優先させろ」という上げ潮派だ。このときに勝利したのは財務省側の麻生さんである。つまり上げ潮派は一度負けている。

ところが麻生内閣は惨めに瓦解し民主党政権も失敗する。敵が潰れてしまったので結果的に「悪夢の民主党政権」の時にささやかれるようになったリフレ理論が生き残った。この集大成がアベノミクスであった。経済成長を諦めて「財政出動を金融エンジニアリングでファイナンスする」という理論である。リフレ(リフレーション)派など言っているが実は経済成長させられなかったから金融政策で時間を稼ぐという撤退の主張だったのだ。

しかしこのアベノミクスもうまく行かなかった。つまり経済成長は起こらず、その結果としてのインフレも起こっていない。6年成長がなかったので失敗した(あるいは成長させるつもりはなかった)のだが、安倍政権はこれを認めていない。麻生さんの消費税増税は消費市場を冷やすことがわかっているし、もう一つの選択肢である民主党も経済成長させられなかったことがわかっている。だから国民はもうリフレ派を信じるしかなくなっているのである。

今回のMMTが「またか」というのは実はこれを踏まえてのことだ。東洋経済は議論が20年続いていると言っている。自民党で麻生政権になった時「結果的に財務省側が勝った」のだが、自民党自体が政権を失った。そこで財務省側は負けたことになってしまい2年かけて野田佳彦を教育(あるいは洗脳)する。すると民主党が政権を失ってしまった。このあと増税延期が2回あったのだが、財務省は粘り強く既成事実を積み重ねてきたのだろう。彼らは負けつづけたがあきらめなかった。しかしこの粘り強さは国内市場を絞め殺すことになるだろう。

このように経済成長派は負け続けているので政府によるファイナンスを正当化し続ける必要がある。ところが金融政策も行き詰っている。金利をゼロ近傍に抑えているために銀行経営が悪化し始めているのである。ついにスルガ銀行が詐欺的スキームに手を出してしまい、次に潰れるのはどこなのかということになっている。ついには公的資金を注入しなければと言い出す人が出てきた。

戦争でいうとあれもダメこれもダメというレポートが各地から上がってきているという状態だ。Twitterを見るだけでも伝わってくるのだから政府が知らないわけはない。

しかし政府・自民党は反省しないし負けを認めない。今度は、アメリカからまた新しい理論を持ってきて国債をばんばん発行して新幹線をガンガン作りましょうと言い始めている。議論をずっと見てきた人が「ああ、またか」と思ってもなんら不思議ではない。

自民党にせよ民主党にせよ「経済停滞」という敵に負け続けている。そこで撤退を余儀なくされているわけだが、大本営はそんなことは言えない。言えば負けが確定してしまう。ブルームバーグは藤巻参議院議員のコメントとしてすでにMMTの実験室になっておりやがて破綻するという予言を掲載している。ロイターの解説によると安倍政権はこれを否定しているようだ。そして今度はBloombergの地銀の政府資金注入の可能性をささやき出している。

先日来「インパール作戦だ」と言っているのだが、これは例えではない。日本は敗戦を認められず「撤退」を「転戦」といい続けている。その足元では補給なく戦わされている人がいる。賃金は減り、非正規雇用は増え、外国人労働者の「輸入」が始まり、教育機関は予算を減らされ続け、年金の受給年齢を後退させる検討も始まった。そして最後の砦だった大企業さえも終身雇用は守れないと言い始めている。そして地銀の不調も伝わってくる。

日本人の多くは真面目にやっていればいつかは勝てると思う健気さを持っているのだが、これを俯瞰で見るとビルマで竹槍を持たされて「食料は自分で確保して持ちこたえてくれ」と言われているようなものだということが良くわかるだろう。これを「自己責任社会」という。そのうち本当に餓死する人がでてくるかもしれない。

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安倍晋三さんの抜けられない牢獄と新興宗教としての自民党

日本人は村同士の闘争に夢中になる傾向があり議会民主主義が成熟しなかったというお話を書いている。これはこれで良さそうなお話だったのだが大きな欠点がある。ではなぜそれが最終戦争のような状態にならないのかという疑問である。つまり、最終的には枠組み全体が破壊されても良さそうなのだがそれが起こらないのだ。




これかなと思い当たるものがあった。Quoraで法律について話している一団の人たちが絶対に越えない一線があることに気がついたのだ。会計士が経営に口を出さないようなものだ。日本人には越えない一線があり多分それは社会的に決まっている。

そんなことばかりを考えていても鬱々とするので外に写真を撮影しに行った。三脚を立てて浮かれていた(まあ、実際に浮かれていた)ら公園を散歩しているおじいさんに絡まれた。彼は俺が若い頃は戦争で……と言い始めた。だがブログを書いているネタのない中年に絡んだのが間違いだったと思う。話を聞いているうちに「あ、これはネタになるな」と思ってしまったのだ。

そこで彼に今の政権について聞いてみた。また戦争になるかもしれませんよと言ったのである。すると彼は猛然と「野党がだらしない」と言い始めた。安倍がやめたらあとはどうなるんだというのである。

あまりにも急な展開だったので「なぜかなあ」と考えていたのだが、多分共産党か創価学会に間違えられたのだと思う。黙って人の話を聞いて政治の話を持ち出す一般人などいるわけもない。こういうのはたいていオルグなのだ。

私たちは普段政治の話をしてこなかったし、そもそも人の気持ちも聞いてこなかった。彼が本当に言いたかったのは自分は寂しいということなのだろうが、強さを求める日本人にはそれはできない。だから共産党・創価学会はこういう人たちの話をゆっくり聞き「引き入れる糸口を探そう」とするのだ。オウム真理教事件が起こるまでは新興宗教もこういうことをやっていた。

おじいさんは社会があてにならないから一生懸命歩いているそうだが、政治的な話をしてこなかったために「今のシステムをかろうじて支えてくださっている政治家さんがいなくなったら大混乱」だと思うのだろう。それはバブル期に新興宗教を信じたがっていた大学生の目に似ているように思われたし、自動車の仕組みがわからずディーラーも知らないから恐る恐る壊れかけの車に乗っている人にも似ている。

帰ってきてQuoraを見たら最近大学を卒業したばかりの人が実名で「自分は消費税増税反対派」であり「萩生田光一さんがあの発言をしたのはもしかすると総理を狙っているからかもしれない」という回答を見つけた。マニフェスト政治を実現できずに失望した人たちが最後にすがるのもまた自民党なのだということがよくわかり暗い気持ちになった。

いろいろな人に話を聞いてみてわかったことがある。みな「今のシステムで真面目にやっていれば必ず報われるはずだ」と思っている。ところが一生懸命にやっていても成果が上がらない。だから「誰かがズルをしているのだろう」と思うのかもしれない。またその一方で「自分は一層真面目にシステムに仕えなくては」と感じるようになるのだろう。これはもう新興宗教のスキームである。

というより日本の新興宗教はこの庶民の真面目さを「エンジニアリング」しているのではないかと思う。自民党が意図して新興宗教的な「信じれば報われる」という思考様式を広めたのか、あるいは結果的に成功したのかはわからない。おそらく後者なのではないかと思う。利益誘導になびかない<真面目な>無党派層に響く選挙メッセージを模索するとこうなってしまうのだ。

ノートルダム大聖堂が焼けた時フランス人は「時代にあったものに建て替えよう」と考え、日本人は少なからずそれに反発した。この動きは自発的だったことから、日本人はかなり深いところで現状維持への欲求があることがわかる。これが人々を整然と動かし、あるいはシステムの中に閉じ込める。

だが、このルール変更というのが厄介である。経営者と会計士の違いのようなものだ。つまり日本人はすべての人が会計士になりたがるのだが、会計士はルール変更や枠組みのスウィッチングができない。これは経営レベルの仕事である。

ただ、会計士が会計士マインドのままでルールを操作すると大変なことになる。アメリカではエンロン・ワールドコム事件が起こって社会問題になった。「ライバルに打ち勝つために自分たちに都合が良いようにルールを解釈」したり「投資家を騙すために統計を変えたり」という脱法行為(cook the booksというそうだ)が横行したのだ。経営者は「持続可能な状態で枠組みを変えられるビジョン」を持つべきなのだが、会計士はそうは考えない。もちろん経営者は会計士なしでは現状把握もできないし資金調達の戦略も立てられないので両者が手を携える必要があるだろう。

最初の「なぜ最終戦争にならないのか?」という疑問に戻ると、日本人はプレイヤーレベルの思考に止まり競争の枠を残そうとするので、戦争が過熱してもそれが全体のシステムを壊すことはないということになる。一方で、それが自分たちをルールという檻に閉じ込める。

この脱却の難しさは安倍官邸の暴走にも現れている。安倍晋三は「ゲームチェンジャーになる」として首相になったのだが、実際にはゲームチェンジャーになれなかった。彼は経営者に憧れている会計士だったので、会計士マインドのままでルールを翫び統計改竄やドキュメントの隠蔽を黙認するようになった。悪の会計士はみんなに呼びかけてルールの変更を呼びかけることはできない。しかし自民党にも経営者感覚のある人がいて、ルール変更の環境を作ろうとしていた矢先に、官邸の青年部隊隊長がシステムに切り掛かり「ワイルドな憲法改正」と言ってしまったのだろう。彼はワイルドなゲームチェンジャーになったつもりでいるのだろうが実際には単に暴れているだけである。日本人が決まった枠を超えることの難しさがわかる。

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萩生田光一さんのプチ炎上

萩生田光一さんが炎上(朝日新聞)した。本来なら幹事長代行と書きたいのだが発言が軽すぎるので「さん」で行きたい。




Twitterに最初に入ってきた話は確か「ワイルドな憲法改正議論」の方だった。インターネットテレビの話らしい。そもそも「ワイルド」の意味がわからなかったのだが、まあ野党は怒ってみせるだろう。野党側の提案が取り入れられることもないだろうし、妥協も成立しそうにない。民主党系には制憲議会に参加したい人たちがいるようだが、支持者がそれを認めそうにもない。ここから萩生田さんが「情報発信」したメディアがどんなところかわかる。仲間内で強がっている姿を全世界に晒しているのである。

あまり関心がなかったのだがなぜかテレビが取り上げ始めた。最近の地上波は安倍政権の失策は絶対に伝えないので、逆に火消しに入ったんだなと思った。田崎史郎さんというのは官邸の人だと思って良い。だが、この田崎さんの様子がどこか変だった。

田崎さんは「消費税増税しないと国債一兆円ですよ」と視聴者を軽く恫喝した後で「消費税はこのまま上げるが、支援者の人たちを無視しているというわけではありませんよ」という意味の解説をしていた。ジャーナリストが勝手に国会議員の心の声を代弁したら大変なことになるはずなのだが、周囲は誰も驚かない。

八代英輝さんは官邸からの話は直接は聞いていないらしかった。探り探り何かを言っていたのだが、次第に田崎さんにシンクロして行きその範囲で話をするようになった。「忖度」とよく言うのだが、見事な集団曲芸と言えるだろう。空気を読む達人であり、そうでなければテレビのコメンテータは務まらない。さすがだなと感じた。

面白かったのはこれが昼番組だったことである。萩生田さんが直後に出てきて「田崎さんと全く同じこと」を言ったのだ。恵俊彰さんが「いやーシンクロしているみたいですねえ」と言っていた。シンクロしているのは当たり前である。多分ソースは同じなのだろう。つまり、テレビはもう「これがお芝居ですよ」ということを隠さなくなっているのである。

ここが地上波とネットテレビの違いだと思った。地上波は大人の事情がスパゲッティのように絡み合っているのだろう。瞬間芸的に話を収めてしまうのである。ジャーナリズムの体裁を取ってはいるが、事実上は官邸の広報機関である。一方ネット浜田そこまでの芸を身につけていない。いずれにせよどちらも曲芸なのだ。

しかしながら、田崎さんも八代さんも「はいはいお仕事お仕事」という感覚になっているようだった。つまり官邸のことを信じているわけではなさそうだ。サーカスで言えば別にこんな曲芸は危なくもなんともないということを隠していないということになる。ちょっとしらける。消費税増税議論について「まあ、理屈になっていない理屈で止めてますからねえ」と言っていた。なので見ていても面白くない。

このドライさは弁護士やジャーナリストといった非当事者だけが持てるドライさである。日本人は他人事として勝っている側に立っていることを示すのを好む。そして当事者たちはそれぞれの闘争に夢中になる。だから誰も問題は解決しないのだということになる。問題は視聴者も多分非当事者になって眺めているということだろう。劇場型が一転して冷ややかなムードに満ちている。

このドライな話を聞いているうちに別の感想も持った。どうやら安倍首相は消費税をあげたくないらしい。ところが財務省が安倍首相に考えさせないように話を前に進めてしまい「引っ込みがつかなく」なっているようだ。とはいえ選挙時に色々と言われているのだろう。ちょっとまずいなとは思い始めているのではないかと思う。

本来ならばデータを見たり専門家の意見を聞いたりしたほうがいいのだろうが、もうそれはできない。散々歪めてきているからである。なので言っていることが支離滅裂になっている。NHKの岩田さんのような安倍信者は減りつつあり、民法は生暖かく<検証>してみせる。選挙対策に過ぎないということは誰も隠そうとしないし、一貫した理屈がないこともお見通しだ。だから野党がそれを攻撃しても無駄なのだ。最初から誰も何も期待していないのだから。

なので、官軍がもう勝てないとなると手のひら返しが起こるだろう。すでに経済界は離反し始めている。経団連は終身雇用は継続できないと言い始めているし、同友会は平成は日本敗北の歴史と言っている。

今回の一番のポイントは、こんな中で安倍首相がもう何も決められなくなっているという点なのだろう。彼は迷い、それを部下に漏らし、部下が忖度し暴言を吐き、それを周りが収めてしまった。日本の首相は多分統治意欲を失っており、統治能力も喪失しているのだろうということになる。

今の状態はパイロットが失神していて、それをフライトアテンダントたちが話術でつないでいるような状態なのかもしれない。話術では飛行機は飛ばせない。操縦席を見に行くか座席に座り続けるのかは人それぞれなのだが、かといって操縦席でパイロットが失神しているのをみても我々には何もできない。おそらく日本という飛行機はそんな状態なのだと思う。もしそうだとしたら、多分あとは広い平原を必死で探したほうがいい。もっとも目の前が山でも避けられないのだが。

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