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亡国の決算委員会

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西田昌司参議院議員が国会で「もっと財政出動をしろ」と叫んでいた。これを聞いて快哉を叫んだ人も多かったのではないかと思う。この西田理論が正しければ我々はもう税金を支払う必要はないからである。

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この中で西田さんはMMTという聞きなれない単語を使って財政出動をもっと積極的にやるように訴えかけた。具体的には新幹線をたくさん作れば日本は希望にあふれた国になるだろうと言っている。その原資を心配する必要はもうない。日銀が無限に借金すればいいのである。

この主張がデタラメであることはわかる。これは公共事業中毒だからだ。もともと公共事業は民間経済が上手く行かない間の緊急措置だったのだが、アベノミクスで民間経済が死んでしまったために「これを主経済にしろ」といっているわけだ。日銀が国債を大量に発行しつづければ国内だけでそれを維持することは難しくなり、やがて外国に頼らざるをえなくなる。だが西田議員にそんなことを説明してもスルーされるだけだろう。

さらにMMTという「革新的な理論」を持ち出してきたことで話がややこしくなっている。これを攻略している間は西田理論が崩せないからである。西田さんは天動説から地動説への転換であり、それがわからない官僚やインテリが悪いと主張している。だからこれを非難する人が経済理論を持ち出すと「インテリだから理解していない」と言えてしまうのだ。麻生財務大臣が実験的と指摘し黒田日銀総裁が断片的であると説明したMMTはまだ海のものとも山のものともしれない理論であり、いちいち議論のための議論をしている時間はない。目の前にある成長鈍化をなんとかしなければならないはずだ。だが、西田理論の前ではこうした主張はすべて無意味だ。そんなものはすべて無駄な努力であって、単に新幹線をたくさん作れば日本は蘇るからである。

しかしこの西田理論は一般の有権者が持っている感覚に近いところがある。2009年の民主党政権までの間、やがて国の財政はおかしくなるとの説明を受け続けてきたが「まだおかしくなってはいない」のは事実だからである。そこで「実はあれは全部でたらめでそんなことを考える必要はなかったのでは?」と考える人が増えても不思議ではない。さらに地方にはもう余裕がない。大企業が収益をすべて吸い取ってしまっており経済に余力がないからである。かつて大企業の恩恵で発展してきた地方は今度は大企業に吸い取られる側に回っている。

ここで何やら難しい理論を出してくることで「財政問題については考えなくていいんだよ」という人たちの思考停止を支援できる。これは思考停止ではなく天動説から地動説への画期的レジームチェンジなのだと言えてしまうのだ。「もう考えなくてもいいんだよ」というのは残念ながら集団思考の一過程に過ぎない。

こんななか選挙演説では利益誘導発言が蔓延しているらしい。そしてマスコミもそれを取り上げなくなってきている。世論はもうかつてのようには動かない。放漫財政でも国は破綻しなかったのだろうから危機は去ったと思っている人が多いのではないだろうか。

塚田一郎国交副大臣がとんでもないことを発言したとしてニュースにはなっている。ニュースでは取り上げられているが全く火がつかない。

民主党政権が公共事業バッシング論を展開したせいで、下関から北九州につながる道路事業が凍結された。これを再開するに当たって「安倍首相と麻生副首相の地元をつなぐ道路になぜ金を出せないのか?」と詰め寄ったところ「首相と副首相の地元なので忖度します」として調査予算をつけたというのである。国交相副大臣は法律に基づいて優先順位をつけなければならないのだからこれは法律違反だし、選挙演説で嘘をついたのならそれは有権者への裏切りである。

だが、日本人はこうした原理的なことをあまり信頼しない。この下関北九州道路は民主党が止めたという遺恨があるそうだ。つまり自民党を支える人たちには相手が否定したものを復活させて喜びたいという幼稚な運動会的世界を生きている。忖度という相手が嫌がりそうな言葉をわざと使っているのはそのためだろう。Twitterの嫌がらせとそれほど変わりない世界なのだ。

この塚田発言を見ると「利益誘導は全体としてみれば正しくないのだが、それぞれの地方では正義なのだ」ということがわかる。そして日本は地方の共同体なのである。彼らはどこかから雨が降ってくることを望んでいるが、その雨がどこからくるのかということにはさほど関心がない。どんなに雨が降ってもいつも水が足りないという状態が続いているのだが、誰もどうにかしようとは思わない。単に雨が足りないと願い続けるだけなのである。誰かがなんとかしてくれるというのは集団思考だし、儲けは考えられないが公共事業がないと暮らしが成り立たないというのは中毒症状である。

2018年度の決算委員会を見ると、日本という国は我々が一度やめようとした「無駄な公共事業」という薬物を再び摂取した結果「中毒症状がさらに進んだ」ということがよくわかる。だが、そのことを伝えるマスコミはなかったし、そのことを指摘する野党さえいなかった。もう我々日本人は考えるのに疲れてしまった。相手を非難することさえ疲れたという人も実は多いのではないかと思う。

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