エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学を読み直した。タイプ論は、ユングの臨床的経験から導き出されたようだ。つまり、いろいろな臨床経験をまとめ体系化したのだ。体系化する上で単純化も起こっているだろうから、これを「私はこのタイプ」というように、人を分類するために使うべきではないと言っている。
単純に内向性感覚型という人はなく、バリエーションが存在するからである。後に成長に関する議論が出てくる。このプロセスを個性化というのだが、もはや個別のタイプについて言及されることはない。ここで重要なのは、偏った態度が別の態度によって「補償される」つまり心はバランスを取るだろうという自己調整に関する仮説だ。なぜ、補償されるかは良くわからない。ただ、そう考えると臨床的な現象が説明できる、と説明される。
心の態度には「対立」が観察される。一方を優等とするなら、もう一方は劣等機能だ。これを同時に満たす事はできないように思える。しかし、地上にいると対立するように見えるものが、上空から見ると一つの景色を形成していることがある。こうして、人格を一つのものとして見る事ができたとき、両方をバランスよく扱うことができるわけだ。
ここまでは個人の問題だ。ここから先に「善・悪」と言ったような問題や「社会が因習に支配されているのに、自分なりの道を歩み始めた孤独な人格者」というような問題が出てくる。社会が意識されるようになるわけだが、次第に共時性(シンクロニシティ)や宗教との関わりが出てくる。
さて、タイプ論に話を戻す。このエセンシャルユングには詳細なタイプ論は出てこない。ほとんどが内向外向について言及されており、思考・感情、直感・感覚については短く触れられているのみだ。
- 思考:それが何を意味するものかを教える。
- 感情:その価値を確認する。
- 直感:どこから来て、どこへ行くのかを推測する。
- 感覚:存在するものを確認する。
ユングはこうまとめる。
あまり考えすぎると、自分がどう思っているのかが分からなくなる。故に極度に考える癖を持っている人は感情を疎かにするようになるだろう。この人にとって感情は劣等機能だ。
同じように直感はアウトラインを掴む機能なので、細かなことは覚えていられない。「赤いつやのある口紅をして、髪には緑の髪飾りがあって素材はシフォンだった」と考える人は、却って全体像を良く覚えていないものである。
感覚型の人は、直感型の人と折り合わないかもしれない。マーケターとウェブプロデューサが「派手な感じで作っておいて」という脇で、ウェブデザイナーは、このバナー部分にはどんな画像を入れて、赤はどの赤を使おうかと悩む訳である。1日ディテールを逡巡した挙げ句、プロデューサに持ち込むと、パッとみただけで「何となく違うんだよね」と言われて終わりになる。プロデューサの直感が正しくないとは言えない。しかしデザイナーから見るとこの人は「大雑把でちゃんと指示をくれない」人ということになる。
こうした態度の違いを「性格」と呼んだりする。MBTIテストではこうした違いを把握して、コミュニケーションの円滑化にいかそうとする。性格テストのよい所は、手軽に人の癖を把握できるところだろう。しかし、実際には問題はこれほど単純ではない。
タイプ論の中に45歳のアメリカ人実業家の事例が出てくる。この人は若くして成功し、莫大な事業を築き上げた。そして引退して贅沢な生活を送ることにする。乗馬、自動車、ゴルフ、テニス、パーティーなどなどである。しかしそうした贅沢なトロフィーは彼の人生にとって全く無意味だということに気がつく。怒りに任せて行動するようになる。不安に襲われ、死にたいと考える。で、あればと考えて仕事に復帰したのだが、彼は仕事がもはや彼を満足させないことに気がついてしまっていた。
ユングはこの人が「ほとんど廃人になってしまった」と書いている。結局、仕事に邁進したのは「もう死んでしまった母親への注意を引きつけるため」の置き換えだった。思考優位で生きて来た間に、彼の身体感情はなおざりにされていた。生活環境が変化したのをきっかけにこの「劣等」の何ものかが表出したということなのだろう。
ユングは、抑鬱と心気症的幻覚が示す方向へ従い、そうした状態から生じるファンタジーを意識化できれば救済への道になるだろうといっている。内側に浸れということだろう。また同時に、ここまで状況が悪化してしまったらあとは死だけがこの問題を解決するだろうといっている。
中年の危機の恐ろしい側面が描かれている。この人の場合、人生の初期に母親との関係と仕事の間にある種のバランスと「取引関係」が生じている。それが一応の完成をみる(もちろん、「リストラ」などの挫折という形で終わるかもしれない)のだが、完成を見たが故に、いままで劣等だった部分がてなずけられない形で顕現する。するとその人はその劣等の側面に支配されてしまうのである。
現代であれば、この問題はどう解決されるのだろうか。心理学や精神医学は格段の進歩を見せている。鬱病と診断され投薬治療されて終わりになる可能性もある。精神医療は「心の奥底で起こっていることは、うかがい知ることができないのだから」という理由で、あまりこういった無意識の領域には立ち入らない。
確かに、我々は意識のレベルでこうした無意識の問題をはっきり認知することはできない。できるとしたら想像や夢の中に隠されているだろう声にならないメッセージを汲み取ろうとすることだけである。しかし、投薬が有効だとしても、過度に投薬治療に頼ることでこうした内に向かい合う機会が奪われることもあり得る。
もう一つの問題は、彼の体調の問題が、彼の個人的な問題だということになってしまうところにあるように思われる。私たちの社会は利益や安全といった問題について社会的に団結しているように見える。しかし、その内側をよく観察してみると、そこに向かう心の問題は顧みられないことが多い。個人は健全であることが求められる。
ここでいう健全とは、社会の目標に向かって全力で立ち向かえるような強さを持っているということである。その準備をしておくのは個人の責任だ。そこからはずれてしまうと、生産性に向けて回復するまでの道のりは「自己責任」ということになる。
社会の側からは「生産的」「非生産的」という分類がされる。つまりそこから逸脱することは「不正解」であり「役に立たないことだ」ということになる。逸脱は特に最初の段階では、後に役に立つのか(つまり生産性に寄与することになるのか)そうならないのかが分からない。生産性を優先して、非生産的な逸脱を抑圧してしまう。それが現れたとしても投薬で抑制する事もある。
現状の維持に力を注げば注ぐ程、それが破綻したときのエネルギーは大きいものになる。これは多分、個人も社会全体も変わらないだろう。社会にも特性があり、それに即した発展をしている。しかし内面が変化したり、環境的な変化に直面すると、劣等だった機能が我々の社会を苦しめることになるだろう。
ユングの心理学を読んでみても、どうして個人が個性化や成長を目指す(あるいは目指さざるを得なくなるの)は書かれていない。とにかくそこを目指してしまうものなのだとされる。人はバランスを取るように進んで行くというのだ。しかし、それはどこに向かうのか分からない経験だ。もしかしたら、社会を変える活力になるかもしれないのだが、社会を破壊してしまう恐ろしい経験になることもあり得るだろう。