概要
ユングは「万人にとっての究極の目標と願望とは人格と呼ばれる生の充実を極めて行く事にある」かということについて検討している。子どもの人格を高めたいと思う親は多いが、その人格は完成されたものだろうかという問題だ。親の人格も実は完成しておらず、大人が考える子どもらしさを、子どもに押し付ける。そしてそれは完成すべき全体のほんの一部でしかないだろうというのだ。自分たちができなかったことを子どもに押し付ける場合すらもある。故に教育は人格者への道ではあり得ない。
ユングは、人格とはその人が生まれながらに持っているその人特有のものを最高度に実現させて行く事であると言っている。しかし「その人が生まれながらに持っているもの」は善いものなのか、悪いものなのか、その最初の時点では分からないものだ。その成長の原点は、内面と外面から生まれる必要性だ。気まぐれによって恣意的に選ぶ事ができるものではない。極めて個人的なものだとユングは主張するのだ。つまり教育によって押し付ける事はできない。
「人格の発展は聖なる贈り物ではあるが、呪いでもある」とユングは続ける。大衆は無差別性、無意識性があるのだが、ここから目覚めると意識的に不可避的に大衆からの分離を意味するからである。これは孤立を意味する。これまで周囲と馴染んでいた人であっても、社会、家族、地位も何もやくに立たなくなってしまうからだ。
このように人格の発展は厳しい道のりだ。故に多くの人は、集団的因習に従う道を選ぶ。集団的因習は多くの人にとっては必要なものなのだが、同時にその人自信の全体性を犠牲にするという意味で理想的ではあり得ない。人格を発展させるということは、集団性(恐怖、信仰、法則、機構)の中から自己を解放することである。
さて、ある人に自分の道を選ばせるものは何なのだろうか。それは<使命>である、とユングは主張する。非合理的な要因が、群衆から、そして踏み荒らされた道から、その人を解放するように運命づけるのである。人は、従わざるを得ないから、その道に従うのである。
この使命は、集団の中に埋没してしまいがちだ。大抵の場合、個人の心の問題として片付けられてしまう。その動機は無意識から来るので「単なる空想だ」と片付けられてしまうことすらある。
いったん集団の因習から自由になったとしても、こんどは社会との問題が出てくる。集団は全体を意識的に統合する機能はないので、全体を統制のない自然法則のように無意識的に進行して行く。ここに異質な人格者が関与すると、時には破壊的で、集団にパニックを引き起こす場合がある。内なる声を意識的に識別できる場合もあれば、そのまま集団の無意識の中に埋没して破滅してしまう場合もある。
ユングは、自分の法則に従わず、人格にまで高めて行かない程度に応じて、人間は自分の人生の意味を逃してしまうと断言する。ある人に神経症的な問題があるとして、その神経症的な問題が使命を意識することによって解消されることがある。内なる声が十分に意識されないうちは、それが「圧倒されるような特別な危険」を意味しているからだ。ある場合には、その声に飲み込まれて破局を迎える。部分的にでも受け入れれば、内なる声を同化することが可能になる。
善は永久に善ではあり得ない。もし、仮にある時点で善が完成してしまえば、それ以上の善というものがなくなってしまうからだ。それに挑戦するものは最初は悪という形で立ち現れる。道のないところに踏み出すわけだから、それは生を失うかもしれない危険な行為であるといえる。しかし、こうしたリスクをとる形でしか新しい道を追求することはできない。踏み出したからといって、それが善い道に続いているとは限らない。
人格とは中国哲学でいうところの「タオ(道)」と同じようなものである。タオは、完成、全体性、到達した目標、実現した使命、始めと終わり、そして生まれながらに持つ存在の意味の完全な実現を意味している。
まとめと考察
ユングの考察は、極めて内向的な人の成長論であると思われる。社会(集団)と人間を対立構造で捉えている。外向性の人が同じような考察をした場合に、内なる声に従うべきだと考えたかどうかは分からない。社会に貢献することが人格を磨く道だと考えたかもしれないのだ。この論文の「集団の因習」が個人の成長を脅かすという点に理解を示せない人も多いのではないだろうかと思われる。
特に、教育や指導的立場にいる人にとって、この成長論は受け入れがたいのではないだろうか。子どもの自発性に任せるといったとしても、それが結果として社会を破壊してしまうかもしれないのだ。論文の中には、英雄を待望する人たちの様子が出てくる。当時のヨーロッパ(特にドイツ圏)の事情が関係しているものと思われる。熱狂的な英雄待望がヒトラーやムソリーニといった人たちを登場させることになる。
人格の成長がどうして起こるのかということを探してみたのだが、成長の動機付けがどこから来るのかという明確な記述はついに見つけられなかった。それは内部から無意識的に立ち現れるのである。自分の内部から来るのか、神のような説明の付かないものに与えられるのかということもよく分からない。極めて個人的なプロセスだとしながらも、人間は周囲と同じようなものだからという理由で社会とつながっている。同じように「善」「悪」も容易には識別できない。次の善につながりそうなものが、悪の形で現れる場合もあるし、善いように見える事が、悪である場合もある。
この文章には書かれていないのだが、個人の内部では意識していることと対立する動きが無意識で起きている場合がある。故に、こうした内なる声を長年無視していると、その声に支配されてしまうことがあり得る。「もう手遅れ」になる場合すらあるというわけだ。この対立構造をねじ伏せたり、清算することによって問題を解決するわけではない。問題に直面するうちに、その対立を越えた解決策に到る、固有の(つまり一回性の)道が見つかると、ユングは考えたようだ。
最後に、善や集団性の因習がどうして時代を経て古びて行くのかということも詳しく書かれてはいない。人が成長をせざるを得ないということはどうやら正しい考察のようだ。さもなければ、狩猟で日々の糧を得ていた人たちが、高度に洗練された文明を構築する事はなかっただろう。しかしどうして人はこのように「成長するのか」ということについては、言及されない。
この成長欲求そのものが「人類にとっての呪い」である可能性すらある。人は永遠に現状に満足する事はあり得ないのである。
現在には「社会的な枠組み」が破綻しつつあり、新しい道を探さざるを得ない状況がある。同時に、こうした成長に目覚めてしまう人もいるわけで、二重の意味で変化に晒されているものと思われる。中年の危機に陥った人が抱えている問題は、こうした成長にともなう痛みである場合がある。そしてこの論文が書かれたときと同じように、極めて個人的で心理的な「問題」だとされてしまうのが常である。
内部に対面するのはとても恐ろしい体験だ。どこに行くのか分からず、それが経済的な成功をもたらすかどうかも分からない。これは誰にでも起こることかもしれないし、選ばれた人のみが陥る体験かもしれない。しかし、いっけん個人的に思えるこうした体験が、人類の成長をもたらすことは十分に考えられる。
つきつめてみれば、集団は個人の集まりだからだ。