玉木雄一郎議員が予算委員会で「安倍首相は嘘つきだ」と指摘して議会が騒然とした。安倍首相は「人を嘘つき呼ばわりするということはそれなりの証拠を示さなければならない」という。だが、安倍首相が嘘をついていないなどという人はもう誰もいないだろう。
首相官邸で今治市職員が面談をした時のメモが流出している。かなり具体的なことが書かれており全くでたらめだとは考えにくい。その上、愛媛県知事はわざわざ記者会見を開いてメモを書いた人を確認したと表明している。
安倍首相は常々「人を嘘つき呼ばわりするならそれなりの証拠が必要だ」とうそぶいてきた。証拠が出てきたのだから今度は安倍首相側が「反証」する責任が出てきたということになる。しかしながら、安倍首相側は反証ができていない。柳瀬唯夫首相秘書官(当時)は記憶がないと言っており、安倍首相は柳瀬唯夫首相秘書官(当時)がなかったといっているのだからそれを信頼していると言っている。官邸側が明確な否定ができない理由は二つ考えられる。いろいろなことを隠蔽しすぎて何が現実なのかがわからなくなっているか、それとも実際に今治市の職員を呼びつけているかのどちらかである。
一方の当事者である今治市・愛媛県側は具体的な証拠を出してきているのだが、もう一方は記憶がなく記録も残っていないと言っている。どちらを信頼すべきかという話になるのだが「具体的な記録と記憶を持っている側」が正しい可能性が高い。加えて、安倍官邸は「首相の関与」を隠さなければならない動機があるが、愛媛県側には話を隠蔽する必要はないように思える。
状況は変わり始めている。太田理財局長は枝野議員とのやり取りで森友学園側の弁護士とのやり取りをほぼ認めてしまっている。枝野さんは「口を割らせる」ようなことはせず、淡々と話を進めていた。太田さんは「首相の顔色を伺って名前は出せないが、かといって隠そうとも思っていない」ということになる。太田さんは多分官邸の「チーム隠蔽」が怖いのだろう。怖いから彼らのストーリーには逆らわないが、かといって言われていないことはやらないという姿勢が見受けられる。彼らは法的には当事者なのだが、実際には官邸というアンオフィシャルな人たちの指示で動いている。
「チーム隠蔽」は総理(首相の側近は「首相」という言葉を使わないのだそうだ)のご意向を背景にかなり強引なことをやっていたようだ。今回の隠蔽の筋書きを書いているのは彼らなのだろう。首相秘書官が玉木議員にヤジを飛ばすというシーンがあった。秘書官らの「本当に国を動かしているのは自分たちだ」という思い上がりがある。彼らにとっては議会というのは単なる小うるさい追随機関であり「黙って俺たちのやっていることを追認すればよいのだ」と考えているのではないだろうか。モラルやルールよりも首相の意向の方が大切なのだということがわかる。
こんな中で別の本音も見られた。決済文書をいちいち見ていないと言い放った官僚がいた。それについて感想を求められた麻生財務大臣は「そういうこともあるでしょうね」と追認した。
これに対する財務省・太田充理財局長の答弁はこうだ。
「本人に確認しました。『責任はありますが、正直に言うと、そこまでちゃんと見ていなかったので、覚えてませんでした』というのが、彼の正直な発言です」
彼らはまた別のポジションにいる。彼らは「オフィシャルな意思決定権者」であると同時に「傍観者」でもある。
これらのことからいろいろなことわかる。
- 日本ではリーダーが暴走を始めるとそれを止めるのは難しくなる。しかし、リーダーが機能不全に陥ったからといって国全体が機能停止することはない。なぜならば実際の意思決定はアンオフィシャルな現場の権限のもとに行われているからである。そしてリーダーは細かいことは知らず、むしろ暴走を追認する立場にある。
- 実際に暴走しているのはリーダーではなくリーダーの権威を背景にしたチームだ。彼らはモラルやルールを無視する傾向がある。モラルやルールよりも自分が所属している集団の影響力を重要視するからだろう。今回の非公式のチームは「官邸」と呼ばれており、経済産業省という経験を共有した人たちの集まりのようである。彼らは次第にアンオフィシャルな意思決定ルートを形成しようとするのだが法的な権限がなく、かつ実際の意思決定はアンオフィシャルな「現場の権限」によって運営されている。そこで、次第に圧力を強めて行く。彼らはアンオフィシャルなので法的な責任を負わないし、チームで動くので誰がどんな意思決定しているのかよくわからない。しかし、彼らの使用者であり黙認者は細かいことを知らないので、こちらも法的な責任は取らない。
- 一方でオフィシャルな意思決定ルートは単に非公式な決定を追認するにすぎない。そう期待されているし、実際にそうなっている。彼らは形式上の責任をとるとされているが、実際には何も知らないし何も決めていないので何もしない。
- つまり、最終責任者、公式の意思決定者、非公式の意思決定者は情報と責任を分担しあっており、誰も責任を取らない。後になって情報を追ってみても何もわからないのは責任が上手に分散しているからである。
責任が分解されているので状況がわかりにくい。そしてこうした状況を作っているのは安倍首相である。ある時は官邸の意思決定者として振る舞い、別の時には公式の意思決定者として答弁するので話が複雑化している。しかし実際にはどちらも情報を持ってはいない。そして情報を持っている人には意思決定もしないし権限も持たない。この使い分けは憲法議論でも行われている。昨日の答弁では憲法について自民党総裁として答えていた。左派野党にはお答えできないと言っているのでダブルスタンダードなのだが安倍首相にとっては単なるゲームなのだろう。この立場の使い分けが国会を混乱させているという認識はないようだ。
今回の件からわからないのは「実際に国会議員が権限に基づいて組織マネジメントをしようとするとどうなるか」ということだ。これが顕著に弊害として現れたのが民主党政権だ。官僚が切り捨てられるリスクを冒してまでも自民党政権を守ろうとするのは多分「それでも意思決定に直接介入してくる民主党政権よりマシだ」と考えているからだろう。今回は小野寺防衛大臣がため息をつきながら「自衛隊が日報を隠蔽しようとするような習慣は民主党政権時代になんとかしてくれていれば起こらなかったのではないか」とほのめかしていたのだが、おそらくはごまかしではなく彼の実感であったという気がしてならない。それほど一次情報を「編集」する文化が横行しているのかもしれない。一次情報にこそ本音が隠されているからだ。
首相が複数の新聞で嘘つき呼ばわりして何も決められなくなっている国で誰もそのことを心配したりはしない。日本人は「リーダーは本質的に何もしないし何もできない」という合意形成があることになる。つまり、誰も何も決めないし何も決められないのが日本なのである。「文書」はもともと何の意味もない公式な意思決定の過程を記録しているにすぎないので特に重要な意味を持たない。一方で重要な意味を持っているのは一次資料である個人のメモである。
前回の寺子屋の議論で日本人はゼネラルマネージメントを学ばないと書いた。日本の企業で総合職が最初にやらされるのは議事録の作成である。議事録をまとめるに当たって重要なのは「何を残し、何を捨てるのか」を体で学ぶことである。つまり欧米のマネージャーたちが問題解決の方法を学んでいる同じ時期に、日本人は調整を学んでいるということになる。
面白いのは(真面目に政治を見ている人には面白くないかもしれないが)これが決めたがる民主党政権の揺り戻しとして起きているということだ。決めることは権力の源泉であると同時に官僚にとってはやりがいだったのだろう。これを奪われそうになり3年にわたって抵抗した結果、民主党政権は自滅した。この経験から官僚組織は様々な手段を使って安倍政権を支えることにしたのだろう。だが、その結果として首相の意向を背景に暴走するチームが生まれて手に負えなくなった。
こんな中自民党は文書管理のチームを作ったそうだ。一次情報が掌握できれば官僚組織が掌握できる。これを行っているのが次期首相候補の岸田さんのチームであるというのは興味深い。しかしながら、官僚は一次情報が権力の源泉であるということを理解しており、なおかつ一次情報を手放して政治家に意思決定を任せると政府が混乱することはわかっている。これが上手く行く可能性は高くなさそうだ。
ということは今の政府は「実際に何が起こっているのか」を十分に把握しないままで混乱している可能性が高いという推測もなりたつ。