政治が最低限やるべきなのは真面目に働いている人々を泣かさないこと

今回、築地・豊洲問題をめぐって「過剰適応」について書くつもりだった。政治も築地の業者さんたちも目の前の顧客を満足させるのに一生懸命になっており、本来解決すべき問題が何かがわからなくなっているというようなお話である。だが、いくつか記事を読み「ああ、これは根本的に政治が間違っているのだなあ」と思った。

これはインスタグラムを転載したものらしいのだが、開業のない文章で不安が綴られている。これまで真面目に働いてきた人たちが「将来も仕事ができるのか」という不安を抱えている。しかし、マスコミがこの問題を取り上げることもなく、SNSで騒ぎが起きているだけという状態であると嘆いている。

本来ならば感情をできるだけ排して構造上の問題に注目すべきだと思うのだが、真面目に働いている人が苦しまなければならない政治はやはり間違っているのではないかと思った。よく「正しくやるのではなく、正しいことをやれ」という。法律に反しないプロセスを粛々と進めるだけでは正しいことをやったことにはならない。

これは政治だけではなくマスメディアにもいえるのではないか。コンプライアンスを守って正しく伝えるだけではなく、何が社会にとって正しいのかということを間違えながらでも追求してゆくべきである。マスコミは東京都のアナウンスに従って「移転準備が進んでいる」という伝え方をしているが、彼らは問題が起きていることも知っているはずである。地下から水が湧き出しているというセンセーショナルな動画もすでにアップされており材料は揃っているからである。だが、彼らは自分たちからこの問題を取り上げることはないだろう。もし仮に自発的にこの問題を取り上げると、多分東京都から恨まれることになってしまう。だから彼らは高いところに避難していて、どこかから火がつくのを待っているのだ。

ワイドショー視聴者が求めているのは人間ドラマである。人間ドラマとはつまり誰かが叩かれて落ちて行くことだ。今回も、例えば小池百合子東京都知事が明らかに嘘と知りながら農水省に虚偽の申請をしたとか、あるいは開場後に解決不能な問題が起き犯人探しが始まった時に、過去の映像が使われることになるのだろう。確かにマスコミは小池百合子東京都知事叩きを消費して次の話題に移ればいいのだが、築地から移転した人たちの暮らしはかなり深刻なダメージを受けるはずである。

この問題は今まで見てきた過剰適応の問題と少し違っている。東京都は別の成功例で「味をしめ」て豊洲でも同じことをやろうとしたという話がある。「秋葉原の成功体験があった」という記事を見つけた。秋葉原には青果市場があったのだが、これをどかしたところ多額の収入を得ることができたというのである。過剰適応では資産化している熱烈なファンが経営判断を狂わせるのだが、こちらはダイレクトに都が持っている資産が問題の元凶になっている。平たく言えば「金に目がくらんでいる」のである。

さらに、実績を上げたかった小池百合子都知事が「所有権はそのままで貸せばいいのよ」というフラッシュアイディア(つまり思いつき)を持ち出したために話が混乱した。音喜多ブログ・2018年3月を見つけたが、この時点では彼女の思いつきはたなざらしになっているそうだ。小池さんのような口だけの政治家を当選させた東京都民が悪いといえばそれまでなのだが、これはあまりにもひどい対応である。

では東京都が築地市場を残せばそれで良かったのかという問題がある。実はそうではないという点にこの話の難しさがある。確かに「情」で考えると、このまま築地でお仕事をして日本の伝統文化を守ってもらいたいと思ってしまう。だが、実際に我々の暮らしに注目すると、以前ほど築地で扱われている鮮魚を食べていないのも確かである。これが最初に書こうとした過剰適応の問題である。築地市場は公営だったために、経営的に成り立たなくても伝統が守れてしまうのである。

もし築地が私的に運営されいたとしたら経営的に成り立たないところから業態を変えるか撤退していたはずだ。「ひどい話」に聞こえるかもしれないのだが、後ほど述べるようにこれで伝統を守った商店街もある。

まずは全体像から見てゆきたい。東洋経済の記事を読むと、実は築地の流通は年々減少していたということがわかる。2002年と2017年を比べると実は36%も減少している。流通が多角化しているうえに、鮮魚も食べなくなっているからである。

こんななかで東洋経済では「思い切った戦略の変更が必要である」と書いてあるのだが、では思い切った戦略とは何なのかということに答えを出していない。普通に考えても「明日からなくなるかもしれないからすぐにアイディアを出しなさい」などと言われて応じることができる人はいないはずだ。

先行事例として京都錦市場がある。もともと中央市場のような役割があったが、中央市場が移転したために小売化が進んだ。この中で物流拠点から生活拠点となり現在では観光化が進んでいる。錦市場が生き残ったのは長い間に徐々に変化が起きたからなのである。そして、この試行錯誤は今でも続いている。一度観光化が進んだから安泰というわけではない。現在でも過度の観光化で「京都らしさが失われるのでは」という懸念があるからだ。(日経新聞

もし市場の移転がスムーズに進んでいれば、築地の人たちもこうした「次への取り組み」ができたかもしれない。しかし、常に周りがごちゃごちゃとしており、もしかしたら移転できないのではないかという落ち着かない雰囲気の中でこうした議論ができるとは思えない。そもそも豊洲に市場が移った後に築地の街がどうなるのかというビジョンもない。

この政治の落ち着きのなさの原因は政治基盤がなくつねにふらふらと思いつきのアイディアを掲げて延命を図っている小池百都政の結果といえる。多分、再来年東京オリンピックの頃には大混乱しているはずで、築地の再生は今後もこの落ち着きのなさの影響を受け続けることになるだろう。

政治問題化した築地ではついに訴訟も起きている。東洋経済は次のように伝える。

9月19日、築地市場の水産仲卸業者とその家族ら56人が都を相手取り、豊洲への移転差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請。同時に移転差し止めを求める訴訟も提起した。記者会見した原告弁護団団長の宇都宮健児弁護士は、「土壌汚染問題が解決されておらず、食の安全・安心が確保されていない」と述べ、原告団の1人で築地女将さん会の山口タイ会長は「築地市場の移転は今もって多くの関係者が納得していない」と語った。

東京都は土地で儲けるスキームをなんとか形にしようとしてかなり無理をしたようだ。このため土壌汚染の問題は解決されていない。これが訴訟の原因になっている。ここに東京都知事選挙候補だった宇都宮健児弁護士が参戦している。周囲が落ち着きのない動きを見せる中、冒頭見た業者さんだけではなく多くの人が「一旦立ち止まって考え直したい」と言っているが、それも当然のことだろう。

築地女将さん会が今年3~4月に水産仲卸業者の全535社を対象に行ったアンケート調査では、回答した261社の約7割が豊洲への移転中止・凍結を求めていたという。近年、豊洲への市場移転を前に廃業する仲卸業者も増えており、「仲卸の目利き力」を核とする築地ブランドの価値低下を嘆く声も聞かれる。

錦市場の事例を見ていると、実際に築地がどうなるべきなのかを考えるのは当事者であって政治ではないのかもしれない。ただ、政治は少なくとも落ち着いて議論ができる環境を整備することはできるはずである。しかし、実際の政治は築地が今度どうなって行けば良いのかという助言を与えることもなく、いたずらに混乱を加えようとしている。小池都知事はプライドが高く「わからない」と言えないので、思いつきでアイディアを出してはそれを放置して混乱を生み出している。これは政治のあり方としてはやはり正しくない。

小池さんが東京都政を通じて何をやりたいのかはわからないのだが、履歴書の一ページを飾るためにやっているなら今すぐ辞任すべきだ。仮に何か実現したい正義があったとしても、それは真面目に働いている人たちを泣かせてまで実現すべきことなのか、もう一度立ち止まって考えるべきなのではないだろうか。

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小池百合子東京都知事はサイコパスなのか

Twitterを見ていたら、小池百合子東京都知事はサイコパスであるというような話が流れてきた。人格障害の一種だと考えられているのだから名誉毀損に当たりかねない話である。出元を調べたところ脳科学者の中野信子さんがニュース情報番組の中で軽く触れたようである。2017年9月27日のワイド!スクランブルの中でそう発言したらしい。






にわかには信じられなかったのでYouTubeにアップされているもので確認したところ第一部の10時57分から58分になる頃に苦笑しながら中野さんが「女性に珍しいサイコパスですね」と語っていた。中野さんを紹介するスーパーにも「サイコパスに詳しい」というような意味合いのことが書いてあるので、専門家にはそのような見方をする人もいるのかもしれない。

ただし、サイコパスといってもその種類は様々だ。草思社文庫から出ている「平気でうそをつく人たち」はサイコパスを扱った本だが、すぐに破綻する嘘をつく人もいれば、長い間嘘が露見しない人もいる。それはサイコパスの知的能力にばらつきがあるからである。Wikipediaには犯罪心理学者のロバート・D・ヘアによる定義が紹介されている。

  • 良心が異常に欠如している
  • 他者に冷淡で共感しない
  • 慢性的に平然と嘘をつく
  • 行動に対する責任が全く取れない
  • 罪悪感が皆無
  • 自尊心が過大で自己中心的
  • 口が達者で表面は魅力的

同じように「安倍晋三さんはサイコパスだ」などというわけだが、安倍さんは身内をかばうところがあり、共感能力が全く欠如しているとは言えない。また安倍さんなりには「良心」がある。さらに嘘をついているという認識もあるので、何の説明もしないで記者会見すら行わずに国会を解散したりもした。罪悪感があるのだろう。

一方、小池さんは「誰が利用できるか」ということを基準に人を選んでいることから共感能力がない人だということはいえそうである。彼女の通ったあとには混乱が起こるが、記者会見でそれを聞かれても全く意に介している様子はないばかりか、自説を述べて笑顔を浮かべている。一方で、相手とその先にある関係性は読めているようなので、人間関係の認知には問題はなさそうだ。

サイコパスというラベルには人格的破綻というニュアンスがあるので「小池さんはサイコパスなのだ」という云い切りは避けたいと思う。ただし、サイコパスについて理解すると、小池さんの行動原理がよく理解できる。

小池さんは嘘をついているつもりはないのだろう。曖昧な情報に対して相手が勝手に期待しただけであって嘘ではないのだ。また、責任はしがらみにすぎない。そんなものにとらわれていては自由に行動できないのだ。

小池さんにとっては「今どんな行動を取るのが自分にとってもっとも得策なのか」ということだけが重要であり、そのあとで状況が混乱しても自分さえ関わらなければそれはどうでも良いことなのではないだろうか。

小池さんが通ったあとには混乱が残るが本人は比較的無傷である。これは将来起こるかもしれない混乱に対する責任を本人が全く感じていないからである。と同時に、いつも逃げ道が用意されている。だから小池さんは一つの党や役職に止まることができない。同じところにいると責任を取らされるリスクがあるからである。築地・豊洲の問題をみる限り、現在の東京都はかなり混乱しているはずだが、彼女は国政に逃げるつもりでいるだろうからそれほどの危機感を持っていないのだろう。

記者会見で小池さんに「総理になる準備があるか」と聞かれた時、小池さんは日本の首相は国会対応に縛られているという意味のことを言っていた。普通の人は権力があるのだから責任もあると考えるのだろうが、それは不当だと思っているのだろう。だから「国会が変わらない限り首相にはならないだろう」という。

日本は議会が首相を互選する議院内閣制をとっているので、どうしても首相には「しがらみ」が生まれる。小池さんは「自分の思い通りにコマとしての人間を動かす」ことだけが楽しいので、責任を取るポジションには立ちたくないのだろう。都知事として楽しいのはパワポで夢を語っている時であり、それになんら実現性がなくてもそれは構わない。だが実現は好きではない。なぜか人が怒り出すからである。もしかしたら小池さんはなぜ人が怒り出すのかを理解できないのかもしれない。

だからしがらみのない政党というのは、自分が好き放題にできる全く新しい政党というような意味なのである。今のように持参金を持って彼女を称えてくれる前原さんの存在はとてもありがたいはずだが、かといって前原さんとの間に交わした約束を守るつもりなどないだろう。

小池さんは「政権を取る」といって議員の期待を集めたのだから、衆議院選挙に出ないのは論理的におかしいと言っている人がいる。確かに、議員には「政権が取れるかもしれないから」とほのめかしたかもしれないが、それは議員が勝手に期待したことであって彼女には責任はないと理解すべきだ。だからそれは彼女の嘘ではない。むしろ政権を彼女にプレゼントしてくれない無力な議員が悪いのだ。

細野さんは過半数の立候補者は集められないと言っているので、実際には政権など取れないことを彼女は知っている。これがいけないという評論家もいるのだが、多分、小池さんにはこの理屈が火星語のように聞こえているはずである。今周りが動くことが重要なのであって、実際にそれが起こるかどうかは重要ではないのである。

彼女がその時にそこで言ったことはその場では真実なのだが、あとになって状況が変われば「結果的に嘘になってしまう」可能性がある。それはビジョンであって約束ではない。ビジョンなのだから実現できない可能性はある。例えば公明党候補のいるところには都民ファーストの対抗馬を立てないというには「そうなるといいですね」という夢であり、後で結果的に都民ファーストが候補者を立ててもそれは嘘ではない。だから罪悪感を感じないのだろう。

この観点で小池さんのインタビューをみると、どの言葉にも一切コミットがないということがわかる。衆議院選挙に出ないのかと聞かれて明言を避けていた。これは彼女が「責任というしがらみ」を嫌うからだ。同じように、2030年までに脱原発する工程表を作るといってもそれは嘘にはならない。それが遅れることがわかるのは2030年だし、その時にはその時の話を考えれば良い。彼女にとって重要なのは期待してくれている人に夢を語ることである。

築地を一旦更地にして元に戻れるようにすると言っているが、そうならなくても彼女は責任をとらないだろう。それはそのような約束を信じた人が悪いのであって彼女の責任ではないし、そうしなかったのは諮問機関の委員と案を作るコンサルタントたちである。

安倍さんと小池さんのどちらが悪質なのだろうか。安倍さんの嘘は正常者の嘘であり、嘘をつくとそれを隠そうとする。それなりの罪悪感があるからだ。だからこそ人々はその嘘を感知することができる。だが、一方で小池さんの頭の中にある「本当と嘘」のラインは別のところに引かれているので、彼女は多分「嘘をついたことがない」と感じているはずだ。だから、過去のことを聞かれても全く罪悪感を感じない。だから聞いている方も「彼女は嘘をついている」とは思わないのかもしれない。

日本人はなんらかの理由で一体になれないのだが、現在の小選挙区制度のもとではすべての人の約束をかなえてやらなければ、国政でも都政でも政権を取ることができない。すると、結果的にはすべての人に口当たりの良いことを言って、誰の言うこともかなえないのが一番のよいアプローチということになる。小池さんはそれに成功した。しかし、その瞬間から混乱が始まる。

それだけではなく、有権者は「選挙時の約束」には敏感だが「実際に何が起こっているか」ということにはほとんど関心がない。そのような状況は「夢を語りたがる人」にとってはとても魅力的な狩場なのではないだろうか。

多分、小池さんにとっての地獄とは最高の地位に上り詰めて人を振り回した結果すべての人を怒らせ、なおかつ逃げ場がないという状態だろう。日本ではそのポジションは首相に当たる。彼女が首相にならざるをえなくなった時、彼女にとっての地獄が始まるのだろう。

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小池百合子と闇鍋総選挙

安倍首相が政界再編というパンドラの箱を開けた。パンドラの箱に唯一残ったのは「希望」だったというのは有名な話だが災厄も大きかった。右往左往する政治家を見て「政治家にとって政策などというものには何の意味もないんだな」ということを悟った人は多かったのではないだろうか。今回の選挙は踏み絵総選挙ともいえるし、闇鍋総選挙とも言える。いずれも政治不信に接続している。

小選挙区制度は日本では無理

まず、日本では小選挙区制は無理だということがわかった。いくつかの理由があるが、第一に組織が個人の意見をうまく吸収できないという日本に特有の課題があげられる。

今回は安保法制と憲法改正に賛成することが希望の党への入党条件になっている。これは脱原発を左派から奪い取るために小池さんの作戦である。つまり、原発は左派思考という信仰を捨てるかという踏み絵になっているのである。小泉さんの面白いところは「原発ムラに依存している自民党では絶対に実現できず」なおかつ「左派からも票を奪い取れる」というセグメントを見つけたところだろう。政治家はこういう考え方をするのだなと、少し感心した。

こうした踏み絵が起こるのは脱原発・護憲が日本では少数派にとどまるからだろう。しかし、無視できるほど小さな勢力ではないという点も実は重要である。すなわちマイノリティとしては存在感があるので、どうにかして政治がそれを拾わなければならない。しかし、なんらかの理由で左派は排除されなければならないと考えられているようである。

もしこうした声を拾わなければ、それは院外活動という形でいつまでも政治に暗い影を落とすことになるだろう。多分、そのうちに「政府も議会も自分たちの思いを実現してくれない」ということを彼らは学ぶはずで、そうなると選挙には行かずにデモにばかり熱心という人たちが増えるだろう。つまり政治不信が定着し、一つの行動様式になってしまうのだ。

前回にこれが起きた時、解決したのは高度経済成長だった。だが、高度経済成長が見込めない今、こうした苛立ちは日本の政治にいつまでも付きまとうことになるのではないかと思う。

保守という身分制度

それではなぜ、社会主義者は排除されなければならないのか。どうやら、小池さんは民進党の問題は「社会主義者という下層民」への依存だったと感がているようだ。社会民主党は自分たちでは「ソ連の共産主義ではなくヨーロッパ型の社会民主主義をモデルにしている」と主張しているが、普通の人たちはそんな違いは気にしない。そして共産主義といえば、角棒を持って武力闘争をする人たちか、ソ連の労働者のように貧しい人たちを想起してしまうのである。

つまり、日本の社会主義はカースト上の下層民のスティグマであり、それは退けられなければならない。だから保守という身分が必要なのである。真性保守というのはすなわち、貴族の出であるか、少なくとも首相を出した家柄でなければならない。民進党蓮舫元代表のように外国の血が混じっている人は保守になれない。

普通の身分の人が保守になるための最短コースは最近では「日本教」に帰依して「日本書記」という教典への忠誠を誓うことだったのだろう。そのために疫病のようにして日本会議に所属する人たちが増えたのだと考えられる。つまり、宗教と身分制度がごっちゃになった前近代的な思想が根付いており、とてもまともな民主主義国家とは言えない。

つまり日本の選挙はどの政党が身分としての保守主義の総本山になれるかという選挙であり、決してイデオロギーには関係がない。イギリスの保守思想が「古い伝統を残しつつ変えるべきところは変えてゆく制度だ」などと言ってみてもそれは単なるファッションであって、本質とはなんら関係がない。

身分制度なので「社会主義者」というマルブラッドは淘汰される必要があり、踏み絵としての総選挙が実施されるのである。イデオロギーというのは所与の身分から脱却して、一人ひとりの考え方を中心に政治を組み立てて行こうということだ。戦後の一定の期間にはこうしたイデオロギーベースの政治が実現していたわけだから、経済が停滞するにしたがって日本は近代国家であるということを放棄しつつあるということになるのではないだろうか。

誰が首相になるかわからないという悪夢

だが、保守が身分制度だというのは幻想である。なぜならばそれが社会に秩序を与えて恩恵を庶民にまで伝えるということができないからだ。経済が縮小しつつあるので、利益は仲間同士で分配される必要がある。これは韓国の大統領選挙に似ている。韓国はどの地域が大統領を出すかによって恩恵を受ける人たちが決まっている。だから次の選挙で別の大統領が出ると、前の大統領が粛清されてしまうのだ。

だが、選挙の前の段階では、誰が多数派になるのかは誰にもわからない。それはほぼ偶然によって決まるのである。小池さんは「公明党から首相を出せばいい」などと言っている。もし仮に単独で多数が取れなくても公明党と組めばいいということなのだろう。だが、もし単独多数が取れれば小池待望論が出るはずである。無党派層がどう行動するかということは選挙直前にならなければ誰にもわからない。

こうしたことが起こるのは、保守という身分制度が実は不完全なものであって、ゆえに特権階級が不安定な身分であるからである。安倍首相はこの不安定な制度を完成させるのに重要な役割を果たした。つまり、相手に準備ができていない段階で選挙に打って出ることで、これまで数年の間に蓄積してきたマニフェストも党首という実績もすべて無になってしまうということである。これが解散権を悪用することの一番大きな副作用だ。韓国の場合は弾劾という制度を使ってじっくりとプロセスを進めるのだが、日本では一人の気まぐれでこれができてしまうということが証明された。

こうした状態が続くならば、有権者は毎回の総選挙で闇鍋を食べさせられることになる。何が入っているかわからないが美味しいかもしれない鍋を食べさせられるわけだ。だが、有権者もまずい鍋を二つ提示されるよりは、美味しいかもしれない(し、毒が入っているかもしれない)鍋を好むようになるかもしれない。

これは定期収入が得られないなら、宝くじを買って一山当てたいというような感覚に似ている。そうなると普段からコツコツ努力する人はいなくなってしまうだろう。だがこれは、政治に何も期待せず、選挙の結果にコミットしたくない有権者にとってはかなりいい選択肢だ。つまり何が入っているか知らされない鍋を食わされているのだから結果的にうまく行かなければ文句を言っておい落とせばよいからだ。

つまり、これは憲法上の欠陥(解釈によって憲法が歪められてしまう)ことと、多様な意見を包摂できない小選挙区制という制度上の欠陥が混じり合った、当然の帰結だということになる。その結果は、有権者の無責任化と政治の不確実性という形で結実することになり、しばらくその混乱は続くものと考えられる。

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小池百合子さんのアウフヘーベンの意味

小池百合子さんがよく「アウフヘーベン」という言葉を使うがどういう意味だろうか。

終身雇用が崩壊して目標を見失った男が威張りつづけたいっていう欲望も、男に威張り散らされてうんざりしている女の不満も、私がのし上がるために利用できるっていう意味では同じなのよっ!アウフヘーベンよ。

ちなみに前者は今では保守と呼ばれ、後者は革新とかリベラルとか言われることが多い。希望の党はどっちも叶えてくれるそうだ。

中道左派の用語では市場万能主義でもなく計画経済でもなく「いいとこ取り」することをアウフヘーベンというそうだ。翻訳としては「いいとこどり」だと思っていればいいと思うのだが、実際には「どっちつかず」か「どちらも失敗」になりがちである。菅直人さんの「第三の道」もアウフヘーベンなのだそうだ。

ちなみにGoogleトランスレートにかけてみると「つけています」という訳が表示される。かぶるという意味があるようである。auf haben eine Perückeとすると「かつらを持つ」と表示された。かつらを被るではなく持っているという意味になるようだ。aufは「上の」でhabenは持っている(英語のhave)だそうだ。

だがaufhebenをGoogle Translateにかけると「キャンセル」が出てきて、Ich aufhebenと入れると私は拾うと出てくる。ドイツ語は難しい。

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小池百合子のキャスター的リーダーシップ力

最初に申し上げておくと小池百合子東京都知事は嫌いだ。ふわふわとしたビジョンを示すのはうまいが、築地豊洲の問題を見ていても問題解決能力はまるでない。なのだが今回の結党宣言を見て学ぶところが多いなあと思った。これは騙される人が相当数出てくるだろうなあと思う。いくつかにまとめてみた。

ビジョンの統合力

第一に重要なのはビジョンの統合力だ。Twitter上には様々なリベラルな人たちの「希望」が並べられている。民進党はこれを一つひとつ拾って、それをお互いに連携せずに一つひとつ政策に結びつけようとしていた。例えば「解散権の乱用だ」という声が出ると、総理の解散権を縛るのを公約にするという具合である。つまり、バラバラに出てくる要望をバラバラに実現しようとしているために、全体としてちぐはぐなことになってしまっている。しかも、それでもうまくいきそうにないとおもうと内部から足を引っ張る声が出てきて分解してしまう。これを賽の河原エフェクトと呼びたい。つまり、民進党は地獄だった。

小池さんはこうした声をまとめた上で「産業競争力を増すためには思い切った施策が必要ですよね」として、そのために必要な政策をブレットポイントとして出している。Twitterを見てパワーポイントでリストを作るようなやり方をして、最後に「希望」という言葉でまとめた。こうすると、あたかも全体が整っているように見える。

小池さんはこれを「幹」と言っていた。

皮肉なことに日本人の男性は「幹を作る力」を失っている。なぜか女性のほうが大局的にビジョンを構築する力を持っているようである。なぜそうなるかはわからないのだが、そうなっている。多分、男性陣には「俺はこれをやりたい」という野望があるので、それをなんとかして全体の中で整合させようと右往左往するのだろう。多分、小池さんには「やりたい政策」がないのだ。強いて言えば小池さんのやりたいことは政界でのプレゼンスを増すことだけなのかもしれない。だから、他人のビジョンが統合できるのだろう。

このやり方は実は小泉首相に似ている。小泉首相もやりたいことがなく、みんなが実現したがっているビジョンを統合するだけだった。

つまり、ビジョンを統合するためにはやりたいことがあってはいけないのである。

構成力

キャスター経験が生きているなと思ったのは、小池さんが記者を指名して話を聞き、記者が「解散が発表された」と言えば「解散する見込みね」などといなしていた点だ。こうして、プレゼンテーションの流れをコントロールしていたのが、強みになっている。

例えばいままで一人歩きしていた「一院制」も「議員の質に問題があり数を減らすなら抜本的な改革ができますよね」と言ってまとめていた。若狭さんが新聞社にどんなプレゼンをしたのかはわからないのだが、目的と手段のうち、具体性のある手段だけが一人歩きしてしまうことになった。多分、新聞社は政治の記事を右から左に流すのに慣れきっていて、もう全体像が見えなくなっているし、興味もないのだろう。一院制は例示であり、維新潰しではないだろうか。

重要なのは、男性政治家は自分の政策(しかも国民生活から見るとどうでも良いものも多い)を押し通して生き残ることに夢中になっており、記者たちも毎日の細かなニュースを追いかけるのに疲れているので、誰かが統合してやらなければならないという点ではないだろうか。つまり、毎日がTwitter状態になっているのである。ここでキャスターのスキルが役に立った。

そこで小池さんはテレビカメラを集めた上で台本を構成して短いプレゼンテーションを行った。まず「日本には希望が足りない」といい「そのためにはいくつかの具体的な政策が必要だ」と続き、最終的に「仲間を集めて政党を作ります」と宣言した。

さらに、それが「絵空事」に聞こえないように「衆議院選挙は政権選択選挙なので、ひょっとして与党になるかもしれませんよ」と匂わせて、ニュースに価値を持たせた。過不足ない構成は見事としか言いようがない。一度ビジョンを刷り込まれたマスコミは一斉にその方向について流れ出し、民進党と自由党に合併話があり、最終的には希望の党と連携するのではなどと伝えていた。

後出しじゃんけん力

最後に上手だったのが後出しじゃんけん力だった。まずは絶対に成果をあげそうにない若狭さんに「自力でやらせて」見る。するといろいろなところから不満の声が出る。しかし、それで表に出るということはなく、さらに焦らす。そして安倍首相が解散を言い出す直前になって「満を持して」登場したのである。

いったんリセットすると言っているのは、つまり「若狭さんじゃだめでしょ」ということである。まずは三流俳優に踊らせておいて満を持して登場する女優のようなものだ。もちろん外向けの発言でもあるのだが、若狭さんにも「身の程をわからせる」ということになった。若狭さんの立ち位置はせいぜいコメンテータレベルで、全体の番組を構成する力はない。

この後出しじゃんけん力を見ると、豊洲・築地の問題でもあまり事前に騒がないほうがいいかもしれない。あとで統合して見せることで「さすが小池さん」ということになるだけだからだ。

キャスター的政治の限界と罪

小池人気を支えているのは「私は立派なビジョンを持っているが、国が邪魔をする」という論法である。この論法は政権につかない限りは利用可能であろう。しかし、実際にはやりたいことがあるわけではないので、政権についてしまうと政策は空中分解するだろう。

本来なら有能な政治家がバックについて、戦略を立てながら進むべきなのだろうが、みんなプレイヤーになりたがる人ばかりなので、ニュースショーを作ることはできても、それを実現するのはなかなか難しいのではないかと思う。

ニュースを見ていると「ああ、こうすればいいのに」と思うことがある。つまり、現実そのものを編集して見せればすっきりとしたニュース番組ができる。つまり、ニュースキャスターが「シナリオ」を書いているようなものなのだ。もちろん、現実はシナリオ通りに動くわけではないので、少なくとも東京都政ではオリンピック計画も築地豊洲移転もそれほどうまく進んでいない。小池新党が政権政党になると国政は混乱するだろうが、今のところそれを心配する必要はなさそうだ。

少なくとも関東圏ではかなり躍進するのではないかと思う。

小池さんの構成力は見事なので、結論を言い切って「できる人」に見られたいなら参考にすべき点がいくつもある。しばらくは、何かを作り出したり実現する人ではなくプレゼンがうまい人がいい思いをする時期が続くのではないだろうか。

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前原民進党はどのように崩壊するのかを予想する

9月の最初に前原民進党がどう崩壊するかを予測した。この時には「キレるとかなり極端なことをし」「純化欲求の求のために暴走する可能性がある」と書いた。社会党系の人を切るのは予想できたが、まさか政党として自殺するとは思わなかった。

以下、文章があまりにもひどいのでやや直した。この後「少数者を探し出しては血祭りにあげることが横行するのでは」と予測している。当たらないといいなと思う。(2017/9/19)


民進党の党首選挙を見た。地方では枝野さんの方が強いと思っていたので、この勝ち方は意外だった。枝野さんが「地方で頑張っている地方議員のために頑張る」と言ったのはスルーされれたことになる。左派の人たちは枝野さんが左旋回してから追い込んだなどと言っているがこれは負け惜しみだろう。地方組織と左派は負けたのだと思う。

Twitterにいる有権者には左派リベラルの代表としての民進党への期待があるようだが、政治に携わっている人たちには「正当性」への嗜好みたいなものがあるのだろう。つまり「本物の政治家」でありたいのに、<女々しい>左派や<卑しい>共産党に頼るヒモのような存在でいいのかという悩みだ。

欧米型の二大政党制は自由と平等という理念の間を揺れ動くことになっているのだが、日本の場合にはこうした理念による二大政党制が成り立たない。政治家にはさしたる目的意識がないのに自意識が強すぎるのではないかと思う。こうなると自分を客観的に見るのが難しい。

政治家が持っている<正当性>の基準は曖昧でつかみにくい。が、小池百合子東京都知事を見ているとなんとなくその一端がつかめる。小池さんは「女性でありながら」既得権益と戦うしなやかな女戦士で、「女性としての幸せ」より「国益を優先するために」戦っている。つまり、男性的な闘争心が「本物の政治家」のもっとも重要な資質なのだと考えられる。

一方で野田聖子さんのように「女の幸せを追求するために子供を産む」と総理の資質が亡くなったなどと言われる。子供に障害があると「足手まといの子供がいて、政治に専念できない」などと考えられてしまう。これは、日本人は政治に「男らしさと競争」を求めるので、弱さは排除されるべき属性なのだろう。だから弱さを代表する左派リベラルは邪魔なのだ。

男性型競争社会を志向する日本人は、擦り切れるまで集団に尽くすことが美徳とされる。より居心地のよい社会を目指してお互いに助け合うのは「負け犬の言い訳」であって取るに足らないことなのかもしれない。

自民党は実利的に両者のバランスをとっている。政権政党なので男性型闘争にばかり力が入ると有権者の一部が離反することがわかっており、競争には権力闘争という目的がある。しかし、民進党には支持者がいないので思う存分男性的な競争を求めて暴走する余地がある。有権者は離反するだろうがそもそも誰も期待していないので支持者が減る心配をすることはない。

前原さんは党首になってからの最初の演説の中で高揚のあまり言葉をかんでしまった。彼はこれから「男らしい政党のたくましいリーダー」として振る舞わなければならないので、自分を鼓舞するために冷静さを失ってゆくだろう。この力みは崩壊の一因になりそうである。自民党と「競争」して男らしさを証明するためには自民党より過激にならなければならない。

一方で若狭さんは「民進党の枠組みを残したままでは合流しない」と言い続けている。数が足りない若狭新党はこのままでは対等合併にならず主導権を握れないので、この提案は当然のものと言えるだろうが、これに擦り寄りたい前原さんはどうするだろうか。多分、旧社会党の「女々しい奴ら」を排除することで純粋性をアピールすることになるだろう。自らが男であることを証明するためには極端に走らなければならない。地元のヤンキーが悪いことをして目立ちたがるのと同じだが、前原さんは高揚のあまり言葉をかんでしまうほど気が弱いので、キレるとかなり極端なことをするのではないか。

同じことは連合でも起きている。連合の中には「自分たちはエリート労働者の組織」であって「卑しい弱者に目を向ける」共産党とは違うと考える人がいるようである。そこで「残業ゼロ法案」に賛成した。これからも繰り返し「純化運動」に邁進するはずであるが、労働者自体はこの本部の暴走には懐疑的なようだ。

言い方は悪いかもしれないが、植民地にいる混血の人がマジョリティの人たちに代わってマイノリティをより過激に弾圧するのに似ている。民進党や連合が形として崩壊するかはわからないのだが、形が残ればこうした純化運動が起こる可能性が高いのではないだろうか。

一方で、Twitterで見ている人たちは、特に社会主義運動に肩入れをしているとは思えない。つまり彼らは行き過ぎた競争社会に疑問があり、それを牽制してくれる勢力が欲しいだけなのである。有権者と当事者の間にズレがおこるのは、多分有権者の方は政治的なイデオロギーをアイデンティティではなく実利的に捉えており野党共闘を特に「女々しい」とは考えていないからだろう。

政治家の人たちが考える「男らしさ」とは何だろうか。これが実は人によって違っている。自民党を中心とした人たちは「年配の男性が尊敬される」ことが男らしさだと考えている。が、小池新党は例えば「家でタバコを吸っている人」を悪者扱いすることで「自分たちの方が偉いのだ」と考えたがっているようだ。つまり、少数者を悪者を扱いすることで序列を作るマウンティングが「男らしさ」なのである。

すると、彼女たちが「男らしく」いるためには常に悪者がいなければならない。つまり少数派探しが自己目的化することになるだろう。前原民進党がこうした戦力と協力するためには少数者を探し出して次々と血祭りにあげる必要がある。攻撃が外に向かうか内に向かうかでかなり現象は変わってくるのではないだろうか。

職場の男性のマウンティングは単に権力闘争に過ぎないのだが、権力や意思決定権を持たない女性のマウンティングはそれが自己目的化する上に逃げ場がなくなる。女性のマウンティングは果てしない。LINEいじめをやめたいがやめられないというのが女性のマウンティングである。

前原民進党がどう崩壊するかはわからないが、純化欲求のために暴走するか抑圧的になってゆく可能性が高いのではないかと思う。こうした闘争は私たち有権者のニーズを全く無視しているが、とにかく有権者の希望を裏切り続けるのが民進党の「芸」なので、引き続き生暖かい目で観察して行きたい。

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待機児童問題には関心がなさそうな小池百合子氏

小池百合子さんが「待機児童問題を解決するために空き家を利用すればいい」とドヤ顔である。これを聞いてとても腹が立った。
空き家にも持ち主はいる。借り手と貸し手の間でトラブルが頻発することは明白だ。設備が壊れたら貸し手が修理するのだが、空き家の持ち主がそこまでしてくれるだろうか。国土交通省もデータベースを作っただけで空き家問題を解決しようとしている。細かなトラブルは市町村で解決してほしいと考えているようだし、市町村はそうしたトラブルは当事者同士で面倒を見てほしいとおもっているようだ。不動産の貸し借りというものを甘く見ているのではないかと思う。
さらに小池百合子さんは「空き家をシェアハウスにすれば、賃金を5万円も上げなくてよい」と言い放った。これ実はとてもひどいことを言っている。保育士も結婚して家庭を作りたいはずだが、それを諦めろと言っているのだ。なぜ、誰も突っ込みを入れないのだろうかと腹が立った。シェアハウスで自分の子供を育てろというのだろうか。
確かに都がこうした家を市場価格で買い取って、家を解体したうえで、新しい保育施設を建ててくれれば万々歳だろう。しかし小池さんのアイディアは「小額のレンタル料で家が借りられる」という点にあり、人件費も抑制できるだろうと言っている。つまり、いろいろな市場の失敗を空き家の持ち主と保育士に押し付けているのである。
まだ、子供相手だからと考えている人がいるかもしれないが、同じことは実は介護にも言えるのだ。介護士の給与も安いから、空き家を借り手シェアハウスで高齢者の面倒を見ろ、そして自分の家庭を持つことを諦めて、シェアハウスで暮らせということである。ずいぶんと印象が変わって見えるのではないだろうか。
もちろん地域住民も黙ってはいないだろう。保育施設を新しく作るのでさえ大騒ぎになる。子供は騒音をまきちらすからだ。こうした問題をNIMBYというそうだ。空き家にある日突然子供たちがやってきて大騒ぎになるのだ。地域住民はこれに耐えられるだろうか。
確かに「反対意見ばかりでは何も変わらない」のは確かだろう。都の優秀な職員が関われば、解決策も見つかるのかもしれない。だが、問題の本質は別のところにあるように思えてならない。
小池さんは国の大枠(軍事・外交・憲法など)の大きな政治にばかり関心があったようだ。過去の発現も国防や憲法がらみのものが多い。中には「現行憲法を停止して、新しい憲法を施行しろ」という革命まがいのものや、日本もアメリカから核兵器を借りろという過激なものもある。こういう問題は「頭の体操」としては理解できる。
だが、こうした人たちは介護や福祉を小さな政治問題を「簡単に片付く取るに足らない問題だ」と考えているように思えてならない。地方自治体というのは、こうした「取るに足らない問題」の集積なのである。
普通の人々の生活にシンパシーがない「優しくない政治」が展開されることは明らかだろうし、事によってはかつての前任者たちのように途中で都政を放り出すことになりかねない。