安倍首相が政界再編というパンドラの箱を開けた。パンドラの箱に唯一残ったのは「希望」だったというのは有名な話だが災厄も大きかった。右往左往する政治家を見て「政治家にとって政策などというものには何の意味もないんだな」ということを悟った人は多かったのではないだろうか。今回の選挙は踏み絵総選挙ともいえるし、闇鍋総選挙とも言える。いずれも政治不信に接続している。
小選挙区制度は日本では無理
まず、日本では小選挙区制は無理だということがわかった。いくつかの理由があるが、第一に組織が個人の意見をうまく吸収できないという日本に特有の課題があげられる。
今回は安保法制と憲法改正に賛成することが希望の党への入党条件になっている。これは脱原発を左派から奪い取るために小池さんの作戦である。つまり、原発は左派思考という信仰を捨てるかという踏み絵になっているのである。小泉さんの面白いところは「原発ムラに依存している自民党では絶対に実現できず」なおかつ「左派からも票を奪い取れる」というセグメントを見つけたところだろう。政治家はこういう考え方をするのだなと、少し感心した。
こうした踏み絵が起こるのは脱原発・護憲が日本では少数派にとどまるからだろう。しかし、無視できるほど小さな勢力ではないという点も実は重要である。すなわちマイノリティとしては存在感があるので、どうにかして政治がそれを拾わなければならない。しかし、なんらかの理由で左派は排除されなければならないと考えられているようである。
もしこうした声を拾わなければ、それは院外活動という形でいつまでも政治に暗い影を落とすことになるだろう。多分、そのうちに「政府も議会も自分たちの思いを実現してくれない」ということを彼らは学ぶはずで、そうなると選挙には行かずにデモにばかり熱心という人たちが増えるだろう。つまり政治不信が定着し、一つの行動様式になってしまうのだ。
前回にこれが起きた時、解決したのは高度経済成長だった。だが、高度経済成長が見込めない今、こうした苛立ちは日本の政治にいつまでも付きまとうことになるのではないかと思う。
保守という身分制度
それではなぜ、社会主義者は排除されなければならないのか。どうやら、小池さんは民進党の問題は「社会主義者という下層民」への依存だったと感がているようだ。社会民主党は自分たちでは「ソ連の共産主義ではなくヨーロッパ型の社会民主主義をモデルにしている」と主張しているが、普通の人たちはそんな違いは気にしない。そして共産主義といえば、角棒を持って武力闘争をする人たちか、ソ連の労働者のように貧しい人たちを想起してしまうのである。
つまり、日本の社会主義はカースト上の下層民のスティグマであり、それは退けられなければならない。だから保守という身分が必要なのである。真性保守というのはすなわち、貴族の出であるか、少なくとも首相を出した家柄でなければならない。民進党蓮舫元代表のように外国の血が混じっている人は保守になれない。
普通の身分の人が保守になるための最短コースは最近では「日本教」に帰依して「日本書記」という教典への忠誠を誓うことだったのだろう。そのために疫病のようにして日本会議に所属する人たちが増えたのだと考えられる。つまり、宗教と身分制度がごっちゃになった前近代的な思想が根付いており、とてもまともな民主主義国家とは言えない。
つまり日本の選挙はどの政党が身分としての保守主義の総本山になれるかという選挙であり、決してイデオロギーには関係がない。イギリスの保守思想が「古い伝統を残しつつ変えるべきところは変えてゆく制度だ」などと言ってみてもそれは単なるファッションであって、本質とはなんら関係がない。
身分制度なので「社会主義者」というマルブラッドは淘汰される必要があり、踏み絵としての総選挙が実施されるのである。イデオロギーというのは所与の身分から脱却して、一人ひとりの考え方を中心に政治を組み立てて行こうということだ。戦後の一定の期間にはこうしたイデオロギーベースの政治が実現していたわけだから、経済が停滞するにしたがって日本は近代国家であるということを放棄しつつあるということになるのではないだろうか。
誰が首相になるかわからないという悪夢
だが、保守が身分制度だというのは幻想である。なぜならばそれが社会に秩序を与えて恩恵を庶民にまで伝えるということができないからだ。経済が縮小しつつあるので、利益は仲間同士で分配される必要がある。これは韓国の大統領選挙に似ている。韓国はどの地域が大統領を出すかによって恩恵を受ける人たちが決まっている。だから次の選挙で別の大統領が出ると、前の大統領が粛清されてしまうのだ。
だが、選挙の前の段階では、誰が多数派になるのかは誰にもわからない。それはほぼ偶然によって決まるのである。小池さんは「公明党から首相を出せばいい」などと言っている。もし仮に単独で多数が取れなくても公明党と組めばいいということなのだろう。だが、もし単独多数が取れれば小池待望論が出るはずである。無党派層がどう行動するかということは選挙直前にならなければ誰にもわからない。
こうしたことが起こるのは、保守という身分制度が実は不完全なものであって、ゆえに特権階級が不安定な身分であるからである。安倍首相はこの不安定な制度を完成させるのに重要な役割を果たした。つまり、相手に準備ができていない段階で選挙に打って出ることで、これまで数年の間に蓄積してきたマニフェストも党首という実績もすべて無になってしまうということである。これが解散権を悪用することの一番大きな副作用だ。韓国の場合は弾劾という制度を使ってじっくりとプロセスを進めるのだが、日本では一人の気まぐれでこれができてしまうということが証明された。
こうした状態が続くならば、有権者は毎回の総選挙で闇鍋を食べさせられることになる。何が入っているかわからないが美味しいかもしれない鍋を食べさせられるわけだ。だが、有権者もまずい鍋を二つ提示されるよりは、美味しいかもしれない(し、毒が入っているかもしれない)鍋を好むようになるかもしれない。
これは定期収入が得られないなら、宝くじを買って一山当てたいというような感覚に似ている。そうなると普段からコツコツ努力する人はいなくなってしまうだろう。だがこれは、政治に何も期待せず、選挙の結果にコミットしたくない有権者にとってはかなりいい選択肢だ。つまり何が入っているか知らされない鍋を食わされているのだから結果的にうまく行かなければ文句を言っておい落とせばよいからだ。
つまり、これは憲法上の欠陥(解釈によって憲法が歪められてしまう)ことと、多様な意見を包摂できない小選挙区制という制度上の欠陥が混じり合った、当然の帰結だということになる。その結果は、有権者の無責任化と政治の不確実性という形で結実することになり、しばらくその混乱は続くものと考えられる。