TBSの報道特集が「立花孝志陣営が斎藤元彦氏を実質的に選挙支援していたのではないか」とする番組を放送した。報道特集としては立花孝志氏と斎藤元彦陣営の間には「不適切な関係」があると示唆したかったのだろう。が「そもそもこれは告発になっているのか?」と感じた。
番組の記事を読む限り、告発としての体裁は整っていない。伝わってくるのはTBSの焦りだけである。
報道特集のタイトルは「「YouTubeの拡散指示が…」“支持者LINEグループ”の登録者に聞く 斎藤元彦氏再選の舞台裏【報道特集】」という内容。斎藤陣営の背景にいるネット応援団を「告発」する内容だ。告発するからにはそれが不適切な存在でなければならない。
記事は次のような構成になっている。
まず百条委員会の奥谷謙一委員長への恫喝を通じてネットは危険であるという印象操作をしている。次に稲村和美陣営に対して誹謗中傷や風評被害の拡散が行われていたと重ねる。稲村氏は既得権を代表する極左という矛盾する風評を流され「どっちやねん」と感じていたそうだ。更に誹謗中傷を苦にして辞任する議員も出てきた。
ここまででネットは危険な存在であるとしたあとに登場するのが立花孝志氏だ。情報を隠ぺいした百条委員会とオールドメディア”対“真実を伝えるネットという対立構造を巧みに演出し、斎藤陣営を盛り上げていったとされる。ただし確証はない。
そもそも現在の公職選挙法では他人を応援するために立候補してはいけないという規則はない。このため、当局の「想定されていないので戸惑っている」というコメントで終わっている。
無理な構図づくりに見える「TBS報道特集」の焦り
この番組は安倍総理と統一教会という構図をトレースして作られていると感じる。統一教会は「保守」と「対共産主義」と掲げて自民党に接近していた実際には信者から財産を寄付させて韓国に送るという「信者収奪ビジネス」を展開してきたと考えられている。この過程で崩壊する家族もあり社会問題化していた。
この番組は立花孝志氏とその背後にいるかも知れないネットの支援者たちを「反社会的なもの」と印象付ける狙いがあるものと考えられる。この反社会的な存在に支援された斎藤元彦氏の選挙には正当性がないと訴えたいということだ。
しかし今回の報道と一連のアベ報道には大きな違いがある。
安倍総理と統一教会の問題ではTBSはあくまでも善意の第三者だった。しかしこの問題では彼らは「オールドメディア」と呼ばれる当事者である。つまり結果的に「自己弁護」になっている。おそらく報道特集はこれに気がついているが「気が付かないふり」をしている。これが結果的に番組の正当性を貶めている。
では、なぜ報道特集は焦っているのか。
なぜテレビの「報道番組」は信頼されなくなったのか?
ここで改めてなぜテレビの「報道番組」が信頼されなくなったのかを考えてみたい。もともとワイドショーは芸能人の私生活を赤裸々に暴くような番組を扱っていた。生活をテレビに依存する芸能人ならばプライバシーを暴いても構わないという気持ちがあった。しかしジャニーズ事務所のように強いタレントを抱える芸能事務所はその例外で性加害があっても「なかったこと」もされてしまう。
そのうちに「社会正義」も商品価値を持つことに気がついてゆく。結果的にTBSのワイドショーはオウム真理教問題で一線を踏み越えてしまい筑紫哲也氏に「TBSは死んだに等しい」と死刑宣告されてしまった。
筑紫哲也氏はもともと朝日新聞社の出身で朝日ジャーナルの編集長などを務めている。朝日ジャーナルは極めて特殊な週刊誌だそうだ。もともと学生運動参加者の必読書とみなされていた。しかし日本が豊かになると学生運動は終息した。筑紫哲也氏は当時流行っていた「ニューアカ」を取り上げる。ニュー・アカデミズムは当時の学会では傍流とされていたが大学生の間には根強い人気があった。当時の秩序を「構造」と位置づけ「それはもう過去のものになった」という脱構造主義だったからだ。現在でいう「既得権打倒運動」だった。
しかしながらこの「ニューアカブーム」も終焉する。バブル景気に乗った改革運動という一面があった。就職氷河期となり「ニューアカどころではない」ということになる。学生たちは厳しい就職戦線を勝ち残るためにスキル志向になってゆく。
もともと学生運動出身者が多く社会に対するルサンチマンを抱えていた当時のジャーナリストたちは、WSJがウォーターゲート事件でときの大統領を追い詰めた先行事例などをモデルにしリクルート事件などでは一定の社会的存在感を示していた。もともとがルサンチマンであったとしてもそれなりに「社会的昇華」を果たしたと言えるだろう。
しかしながら「テレビに作られた社会正義の別館」も商業主義に追い詰められてゆく。ワイドショーは気軽に視聴率が取れる「ネタ」として社会正義を扱い、したがってTBSはワイドショーから一時撤退している。
追い詰める側のはずがいつの間にか追い詰められる側に……
この社会派週刊誌からテレビへの流れは、かつて社会にルサンチマンを感じていた人たちが、社会正義に目覚め社会的役割を果たすようになっていったという意味では成功物語といえる。
しかしながら視聴者は「TBSの報道特集」を1つの塊としては見ない。放送局全体で見ればスポンサーへの適切な配慮(忖度とも)、記者クラブの既得権益、総務省から許認可を受けているという事情、安易な視聴率志向など様々な矛盾を抱えている。結果的に報道特集も「既得権の一部だろう」ということになってしまう。
更に顕著なのは「かつての若者」の高齢化である。意識は次第にズレて行き結果的に今の有権者たちが何を求めているのかが見えなくなっている可能性が高い。
本当の暴くべきものは何なのか?
この話題について取り扱うと「中高年・高齢者」と「現役世代」の間に認識の差があることに気がつく。中高年・高齢者は「若者がSNSに騙されて過激な思考を広げている」と考える傾向にあるようだ。TBSの報道特集もおそらく立花孝志氏らの情報に「扇動」されているのは若者だと考えているのではないかと思う。
ところがQuoraで話を聞くと「テレビが伝えない真実がある」と熱に浮かされているのは「歳のいった人たちである」と考える人が少なくない。ネットネイティブでない人たちには「情報リテラシーがない」と考えられているようだ。
テレビが信頼されなくなりネットの情報に流される人が増えたというところまではわかっているのだが実はその人達の中にも「いろいろな動機」が存在する可能性がある。単に「SNSは危険だ」という印象で番組を構成しても、実際に彼らが何に魅力を感じたのかはまるでわからない。
ただ熱に浮かされたような感覚はある。Quoraのコメント欄で「テレビでは決して伝えられない真実」を語る人たちの中に長々とした文章を書き連ねて来る人達がいる。
文章はまるでまとまっておらずそもそも結論がないという人も多いのだが、それでもまるでベルリンの壁崩壊を目の当たりにしているような熱心さがある。彼らが実際になにかの崩壊を予感しているのか、あるいはありもしない壁を見ているのかはよくわからない。
Comments
“立花孝志氏と斎藤元彦陣営の「不適切な関係」をTBSが示唆” への2件のフィードバック
「オールドメディア」のジャーナリズムが、商業主義で歪められた結果、SNSなどのニューメディアが台頭してきたとは思いますが、果たしてニューメディアに関わっている人たちはどれぐらい「社会正義」を考えているのでしょうか。ニューメディアは、オールドメディア以上に稼ぐ手段が豊富で企業の圧力に対抗できる可能性を秘めていますが、実際にはスポンサーが変わっただけで商業主義に歪めらているところは、オールドメディアと大差ないように感じます。
社会正義は考えていないでしょうね。
実際に都市や近郊で生活しているとコミュニティを感じる機会ってほとんどないですよね。また会社への帰属意識も薄まっています。安倍政権時代にこれを代替していたのが「日本人」という民族性でしたがどこか曖昧模糊としておりしたがって「反日」を置かないと意識が維持できませんでした。安倍さんが亡くなるとこれすらまとまりを欠くようになってきています。つまりそもそももはや「社会」がなくしたがって社会正義も成立しないです。しかし「社会がない」と言えるのは何らかの社会を経験している人だけですから、おそらく社会正義が欠落しているという意識もないと思います。
つまりそもそも社会がない人が報道特集のような番組を見ると「誰かが何かを発言するということは当然損得を考えてのことだろう」と類推してしまうわけで、話はかみ合わないでしょう。