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デザイナーなんかいらない – オリンピック・エンブレム騒動

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佐野研二郎氏のデザインした五輪エンブレムが使用中止なった。ネット上にはこのオリンピックは呪われているのだから、開催を辞退したほうがいいのではないかという意見があふれた。
1964年の東京オリンピックは高度経済成長のきっかけになった出来事だった。オリンピックを応援する人たちは、過去のオリンピックを再現して、勢いのあった高度経済成長時代を再現したいと願っている。その証拠に、「オリンピックのエンブレムには1964年のものを使うべきだ」と主張する人もいる。
次にどのようなエンブレムができたとしても、それは「あの」オリンピックロゴと違っている。それが人々を不機嫌にさせるだろう。このままでは2020年のオリンピックは1964年の壮大なパロディーになってしまうだろうが、多くの国民はそれを望んでいるのかもしれない。
オリンピック・エンブレムの選定は大手広告代理店が仕切ったようだ。そこで、広告代理店は自分たちに使い勝手がよいデザイナーを選んだのだろう。彼らが重用したのは、修正に対応できる「小回りのきく」アートディレクターだった。その小回りとは、多くの無個性なデザイナーを使って、世界各地から集めてきたデザインをコピー・アンド・ペーストすることだったのだ。日々消えて行く広告デザインを量産するにはこれが最適な方法なのだろう。
では「コピペ」は悪いことなのだろうか。必ずしもそうはいいきれない。
広告代理店のデザインについての考え方は、ユニクロに似ている。ユニクロは会社のロゴマークや過去のアート作品などをTシャツにコピペして、それを「デザイン」と呼んでいる。だが、それを問題だと考える人は誰もいない。
ユニクロのデザイナーが「クリエイティビティ」を発揮したらどうなるだろうか。たちまち仕事を失うに違いない。ユニクロは、流行っているデザインを取り寄せ、それを単純化することで、大量生産を成り立たせているコピペビジネスだ。洋服は単なる部品なのだから、それでも問題にはならない。
五輪エンブレムも各種広告やグッズなどの「横展開」が重要視されていたようだ。エンブレムも単なる部品なのだろう。
では、いったい何が問題だったのだろうか。それは佐野氏の名前が「クリエーター」として前面に出てしまったことだ。
もし、ユニクロのデザイナーが「自分がクリエーターだ」と主張したら、どのような騒ぎが起こるかは目に見えている。さらに「このTシャツはオリジナルなのだから10万円払え」と言えば、単に嘲笑されるだろう。仮にオリジナルデザインのTシャツを作っても「見た事がない」「違和感がある」「気持ちが悪い」と敬遠されるのではないかと思う。
ユニクロのデザイナーがバッシングを受けないのは、彼らが無名で、デザインに付加価値があると訴えないからだ。だから、オリンピックのデザイナーも無名でなければならない。その証拠に、五輪招致ロゴは何のバッシングも受けていない。
そもそも、このオリンピックは1964年の模倣なのだ。つまり、2020年のオリンピックは壮大なコピペなのだから、このオリンピックにはクリエーターなど存在してはいけないのだ。
さて、本文は以上なのだが「それでもデザイナーは必要とされているのではないか」と考える人もいるのではないかと思う。むしろ、プロのデザイナーや「日本を発展させたい」と考えている人はこの問題を真剣に捉えるべきだろうし、現在の状況に反発心を持たなければいけない。デザインが重要視されない世の中で、デザイナーの存在儀を考えるのはなかなか難しいのだが、いくつかヒントになることはある。
デザイナーがどうやって誕生したかについては、多くの記録が残っている。例えば、過去に書いた記事が参考にして欲しい。グラフィックデザイナーは、アートを工芸品に取り入れることによって生まれた職業だ。また、ファッションデザイナーの誕生について書いた記事も参考になるかもしれない。
デザイナーはいろいろな要素があって成立する職業だ。まず装飾を許容する豊かな「場所と人」がまとまって存在する。そして、テクノロジーが発達して装飾がこれまでよりも安く供給できるようになる。そして、それをメディア(新聞、雑誌、映画、万博、デパートなどなど)が中間層に伝える。最後に中間層がそれを模倣するのである。
つまり、余剰(豊かさ)こそが、デザインを支えている。だから、人々が藁のようにすがりついているオリンピックでデザイナーが必要とされないのは、むしろ必然だと言えるし、デザイナー叩きがネットの安価な娯楽になっている状況は憂慮されるべきなのだ。