「謂れのない圧力の中で」という文章を読んだ。灘中学校・高等学校の校長である和田孫博という人が書いた文章で、社会科の教科書選定を巡り右派勢力から圧力をかけられた経験について書いてある。和田さんはファシズムが正方形の中に国民を封じてしまおうとしているのではないかと考察しているのだが、ちょっと違った感想を持った。
和田さんたちは賢すぎるのでこれがファシズムに見えているようだが、実はルサンチマンなのではないかと思った。これが政治に結びつくことで日本全体が無能化したのが安倍政権なのかもしれない。つまり、バカが日本を支配してしまうのだが、これはインテリ階層を駆逐したポルポト政権に似ている。
文章の中で名指しされている「あの教科書」とは学び舎という会社の社会科の教科書らしいのだが、産経新聞で「どこの国の新聞なのか」と非難されている。これは中国の言い分が書かれているからなのだが「事実」として書かれているのではなく、対立する意見の一つとして書かれている。
産経新聞によると学校の先生たちが「自分たちにとって使いやすい教科書」がないことに気がついて作ったのが学び舎の教科書らしい。和田さんの文章の中には、トップ校で採用されており「アクティブラーニングに向いている」と書かれているので、議論ができるように多様な意見が入れ込んであるのだろう。
いわゆるトップ校に通うエリートの子供はそもそも教科に興味を持っていて、多様な情報の中から取捨選択ができる人たちなのだろう。こうした子供達は不整合な情報を与えられても自分たちで判断ができるだろうし、議論をしている相手の主張も理解ができる。政府がいうように南京大虐殺はなかったと結論づける子供もいるだろうし、異論の多さからなんらかの残虐行為があったと類推する子供もいるだろう。
「自分たちが使いやすい教科書を作る」とした人たちがどのような学校の先生なのかはわからないのだが、比較的偏差値の高い学校の先生なのではないだろうか。一方で、あまり偏差値が高くない学校の場合は最低限の情報を暗記すればよいように作られた教科書がよい教科書なのだろう。そもそも教科書は覚えるべきものであって、そこに書いてあるのが事実なのかを自分で検証してみようなどとは思わないはずだ。
実は日本人の学力にはかなり大きな格差ができているようだ。加計学園の件で別の読み物を読んでいた中で議論ができない学生について読んだことがある。例えば、里山から降りてきた野生動物について学生の意見をもとめると「豚」などという答えが大真面目で返ってくるそうである。つまり大学生でも野生動物と家畜の関係がわからない人がいるようだ。
こうした人たちが議論ができるようになるためには、かなり基礎的なところから知識を身につけなければならない。ボキャブラリがないと会話ができないのと同じようなものである。英語の授業が討論形式になったら、英語ができない人は全く興味を失ってしまうだろうが、英語が話せる学生にとってはこれほど面白い授業はないはずである。
そう考えると、圧力をかけたひとたちのことが少しだけ見えてくる。この人たちは自分で考えることができず、コピペされた同じ手紙を出すことしかできない。これはTwitterのネトウヨの人たちと同じである。有識者の発言をリツイートしては他人を罵倒するのが彼らの楽しみだ。
神戸新聞では盛山議員らが圧力をかけたということになっているのだが、盛山さん自身は灘の出身らしい。つまり、支援者たちから「お前のところの学校はけしからん」などという圧力があったのだろう。これに対立しているのも灘中高の出身者である。
灘中学校や高校に入れるような子供は、自分で判断したり議論したりすることにそれほど苦痛を感じないのだろうが、そうでない人もいる。判断ができない人は「教科書に書かれている」だけでそれが「事実として認定された」と考えてしまう。実際には「こういう意見もあるが、国は認めていない」と言っているだけなのだが、産経新聞の読者は教科書に書いてあることは全部覚えなければならないことなのだろう。だから、学び舎の教科書が許せないことになる。
がここで深刻なのは盛山議員が校長に圧力をかけなければならなかった事情だろう。多分、自民党の支持者にものが考えられない人たちが増えているのではないだろうか。議員自身は自分で考えることができたとしても、支持者たちには勝てない。このようにして、バカがある程度の知能を持った人を駆逐するというようなことが自民党で起きているということが予想される。その最高峰にいるのが安倍晋三首相なのである。
もともと、自民党は中小の産業集団が支持する政党だった。しかし、そうした産業集団は空洞化しつつあり、それに取って代わったのが宗教集団だった。だが、それとは別に自分でものを考えられず権威に頼りたい人たちが集まってきている可能性があるのではないだろうか。
だが、自分で考えることができる人を攻撃したところで「自分で何かを考えて決める」不安が解消されることはない。かつてあった終身雇用と結婚という「庶民の正解」はなくなりつつあり、これが不安を増幅させる。多分ここにネトウヨと劣化した自民党の不安の根元があるのだろう。だが、不安は解消されなければならない。そこで「議論による話し合い」ではなく国の権力によって問題を簡単に解決してしまおうという動きが出てくる。それが現在の劣化した憲法議論の根底にあるように思える。
この不安はどうやったら解消するのだろうか。もちろん自分で考えるのが一番なのだが、今まで考えてこなかった人たちがある日突然自分で考えられるようになるとは思えない。問題は「いつか悪いことが起こるかもしれない」という状態なのだから、高度経済成長が戻ればよいのだろうが、逆に生活が破綻して考えざるをえない状況に落ち着けば不安は解消するのかもしれない。結局、どっちつかずの状態が続くことが不安の原因なのだろう。