本日は細野豪志衆議院議員がなぜ愚かなのかについて書く。細野さんは二年間「民進党をやめる」と言いつつ誰も顧みなかったという人である。離党に当たって「とっとといなくなれ」と言われており、同情する声はあまり聞かれない。
細野さんは「本物の政治家」になりたかったのだろう。日本には正統とか正解という考え方がある。日本の政治家の正解は自民党であり、大まかには「保守」という言葉でくくられている。反対に邪道と考えられているのが共産党だ。
つまり、日本の政治家や有権者がどのような文脈で「保守」を使っているのかと考えると、何が正解であるかということがわかるように思える。しかし実際には保守について考えれば考えるほど実態がよくわからなくなってしまう。逆に日本には保守思想などないと考えた方が状況をよく説明できることが多い。
多分、有権者が求めているのは決して間違えない正解なのだが、このところ自民党は間違えてばかりだ。かといってそれに代わる正解もない。これが「受け皿がない」という状態なのだろう。
このため俺が考えた正解こそが正解であるべきなのだ誤解が生まれる。細野さんは「国の根本(つまり国家観)について議論すること」が本物の政治家であると誤認してしまった。それを体現したのが憲法なので、憲法について議論したかったのだろう。
同じような人がもう一人いる。それは長島昭久衆議院議員だ。一足先に離党してしまったが、アジアの安全保障圏を提唱するなどとつぶやいていた。だが実際には自分の選挙区もまとめられなかったし、政党内で長島氏に賛同する政治家もいないかった。なんとなくかっこいいからそう言っているだけなのではないだろうか。
つまり、実力もないのに国について語りたがるという悪癖を持った人が、民進党の右派には多い。加えて憲法議論というものにも曖昧さが内蔵されている。日本で憲法のような体系が国を規定したことなど一度もなかった。なかなか信じがたいのだが、いくつかの傍証がある。
第一に、日本の憲法議論には二つの潮流がある。一つは民主主義国であることをやめて、自民党指導の開発独裁を正当化することである。もう一つは戦争で負けたという事実をなかったことにして軍隊を復活させるというものだ。開発独裁は日本が民主主義的なやり方では解決策を提示できないという諦念の裏返しになっているのだが、これが長年政権を担ってきた自民党の人たちの偽らざる感想なのだろう。ここにA級戦犯として断罪された人の子孫が入ることで話が複雑化している。これは家族の恨みであって、国民には関係のない話だ。
次に「日本人は何なのか」とか「日本とは何なのか」という議論が実は存在しないという事情がある。もともと民族性というのは他者との恒常的な接触によって作られる。フランスのフランス人がフランス人なのはスペイン人でもドイツ人でもベルギー人でもスイス人でもないからである。だが、日本は他国と接していないためにこれがうまく規定できない。そのために神話に依存してみたり自然を称揚したりすることになる。自民党の現在の憲法草案は、複雑性を排除してみんなが当然協力すべきだということになってしまっている。つまり、もともと規定できないものを規定しようとしているので、まとまる動機がない。古くから日本列島に住んでいた人はなんとなくみんな日本人なのだから、憲法議論が国民から起こることはないのである。
だから、日本人は自らの動機で憲法を作ったことはない。日本人はもともと決まりごとや書かれたものを信頼しない。日本人が憲法のような体系を作る裏には必ず体裁の問題がある。中国に認めてもらいたいために中国に習って最初の法律体系と都を整え、ヨーロッパ列強に顔向けできるようにプロシアの憲法をコピペした。最新の憲法はアメリカの顔色を伺いつつなんとなく国際社会に受け入れてもらえるように民主的な憲法を作った。つまり、外的な動機がないとそもそも憲法を作ろうということにならない。だから、すべてコピペなのである。
憲法第9条も第一次世界大戦の反省を踏まえたパリ不戦条約のコピペなのだそうだ。GHQが日本を非武装化したいと考えていることはよく理解されていたので、日本の側から忖度したというのがその成り立ちのようである。だからある人からみれば押し付けだし、別の人からみると日本の提案ということになってしまうのである。
ここに比較できる3つの憲法草案がある。第一の憲法草案は自民党のものだが、これは「民主主義に疲れたから、公共のためだといえば、国会議員が勝手になんでも決められるようにしよう」という設計思想が隠れている。これは安倍首相の提出した一連の法律に通底するものがある。安倍首相は自民党が日本をまとめらなくなったことの象徴なのだろう。次の憲法草案は幸福実現党のものだ。こちらは大統領制を志向しているのだが「ここに書かれていないことは法律にするか大統領令で決める」というような条文があり、この条文を含めて16条しかない。第三の案が細野案だが、体系的な国家観はなく、教育の無償化、地方自治の強化、緊急事態条項の3つの条文が示されているだけのようだ
このことから日本人はあるものを骨抜きにすることはできても、新しい思想体系は作れないということがわかる。国家についても同じだ。列島という所与の環境があるからまとまっているだけで、なんらかの思想があってつながっているわけではない。そもそも国家を統合するものが何もないので、議論のしようがないわけである。
このように日本人は自分たちを律する法体系を自分たちで作れない。だがやたらと国家観について語り「俺様憲法」を他人に押し付けたがる。ある種の仮想的な万能感があるのだろうが、どうしたらそのような自信を持つことができるのかさっぱりわからない。
小説をかけない人が小説論を語りたがるのに似ているように思える。政治とは足元をまとめて問題を解決することだが、まとめられないからこそ憲法を語りたがるのだろうとしか思えない。
その意味では、自民党の憲法草案は草案としては成立している。国の優れた人たちに任せておけば全てが自動的に解決されるという提案だ。この設計思想は第二次安倍政権で貫かれている。だが、この提案のよさは証明できず、却って混乱が広がるばかりだった。理由も明確になっている。
第一に日本人は集団で動くため「俺たち」でない文部科学省や陸上自衛隊のような反乱勢力が生まれて行政が混乱した。第二に「俺たち」が想定しなかった情報はなかったことにされた。第三に利益は安倍首相の「俺たちのお友達」渡っただけで、国全体の利益が拡大するということにはならなかった。
もし安倍政権の政策が良いものであり、うまく説明できていれば「提案を聞いてみよう」という気持ちになっていたかもしれない。が、結果は出たように思える。だから「まだお続けになるのですか」と支持率が下がっているのである。
自民党型の政治は好調な経済に寄生してその上前を跳ねることでうまく回っていた。これができなくなったので新しい寄生先を求めて戦略特区を作ったり、オリンピックを誘致しようとしたり、カジノを作りたいのだろう。しかし、実際にはこうしたプロジェクトは必ずしもうまくいっていない。そこで頼ったのが公明党やいわゆる原理主義化した神道などの新興宗教勢力だ。彼らは宗教に頼るしかなくなっている。
一方、細野さんは本物の政治を目指しつつも二年間出てゆくことができなかった。これは民進党が左派政治家を「偽物」と嫌いつつも、支持母体である連合などの労働運動からの支援を諦めきれなかったからだ。最近では反原発・反戦争などの左翼運動も支持の源泉になっている。つまり、民進党にいる保守は左翼のヒモになってしまっているのである。
つまり、日本の保守は権力に寄宿するか左翼運動に寄生するかの選択肢しかないのだ。
細野さんが今出て行こうとしているのは、小池百合子さんという新しい可能性を見つけたからだろう。確かに小池知事はニーズに対してのソリューションを提案した。「自分たちだけで儲けようとした都議会自民党をやっつけたい」というのがその提案である。しかし、小池さんはなんら解決策を提示しておらず、議論を密室化したままで豊洲への移転を今まで通りに進めようとしている。かといって「やっぱり自民党都議団は正しかった」とも言わない。つまり、これも保守ではなく単なる劇場の提供に過ぎないのだ。
細野さんは優秀で人望のある政治家なのかもしれないのだが、そもそも存在しないものを存在するかのように誤認してしまった点に問題があるのだろう。