内閣改造の報道に違和感を感じた。新聞社やテレビ局は誰が内定したかということを一生懸命に報道している。違和感を感じたのはこのことに対しで誰も気持ち悪さを持っていないということだった。「どれだけ政権に近い情報網を持っているか」ということを競っているから内部情報が出てくるのだろうが、これは言い換えればどれくらい心理的に癒着しているのかということを表している。
その代表になっているのは田崎史郎さんだ。安倍首相を応援したい気持ちはわかるのだが、あまりにも近すぎて冷静な判断ができなくなっている。にもかかわらず、インサイダーとして情報を持っているので、テレビに出て政権の意図などを代弁していた。が、こと内閣改造となるとこうした人がありがたがられてしまう。「仕事師内閣」という言葉は安倍首相もそのまま使っており、もはや心理的に一体化してしまっているのだろうということをうかがわせた。こういうおじいさんたちが安倍首相を甘やかしたのは国民にとっては不幸なことだった。
だが、マスコミはこのような報道しかできない。内閣が改造されたからといってそれが政策的な変更を意味しないので中身の分析のしようがない。例えば、河野太郎氏は移民政策に賛成で、脱原発派でもある。しかし、河野氏が外務大臣になったところで、安倍政権が脱原発に舵を切るとは思えないし、移民を前提にした海外労働者の導入に傾くとは思えない。日本では個人の考えは集団では無視されるので、あとは人柄や血すじなどの属性を報道するしかないのだ。
さらに視聴者も政策にはそれほど興味を持たない。ここで思い起こしたのは「渡る世間は鬼ばかり」である。渡る世間は鬼ばかりには筋はなく、テーマにそってキャラが違う登場人物たちが思い思いに動くだけというドラマだった。だが、いったんキャラを覚えてしまうと意外と面白く見られる。結局21年に渡って全10シリーズが放送されたが、まとまったあらすじを言える人は一人もいないはずだ。
集団では個人の意見は無視されるので、議員といえども自分の考えを主張したりはしない。そこで起こったのが内閣のβテスト化であった。βテストとは商品が出る前に消費者にテストしてもらうことを意味する。つまり、内閣が政治家が個人として発信する最初のトレーニング場所になってしまうのだ。
例えば稲田朋美元大臣は大臣として不適格であるということで散々叩かれた。表情やリアクションを見ると彼女の心が壊れていることは確かであり、もしかしたら政治家になる前から壊れていたのかもしれない。この人が大臣になったのは将来の指導候補として実績をつけさせたかったからだとされている。だが、統合参謀本部と陸上自衛隊の間に深刻な亀裂をうむという<実績>を残しただけだった。もし、稲田さんがなんらかの政治的リーダーシップを求められる場面があれば、もっと早くにこのことがわかっていただろう。だが、そんな機会はなかった。
また、山本幸三内閣府特命担当大臣は「稼がない地域は応援しない」とか「学芸員はガンだ」などと発言し散々叩かれた。多分普段からそのような発言をしていたのだろうが、誰も気づかなかった。周りにいるのは「先生のためなら死んでも良い」などと考える秘書ばかりなのかもしれない。さらに、この人にとって大臣というのは思い出作りであり、いわば修学旅行のようなものだ。今後「元大臣」と紹介してもらえ、それなりに厚遇されることになるだろう。だから、放言に対して反省することはなかった。
本来なら政党が様々な活動を通じて政治家をフィルタリングすべきなのだろうが、政党に代わって国民がやらされているのが現在の内閣なのである。なので、内閣が改造されても「今度はまともに動くのかなあ」と思うばかりだ。三度の改造を通じて「ああ、また不良品のテストをさせられるのかな」としか思わないわけである。
このことから間接的に自民党が政治的リーダーを育てられなくなっていることがわかる。まともに動作するということがわかっている人は何人かしかいない。今回「仕事師」と言われた面々である。それ以外の人たちはどこか行状に問題があったり、とんでもない失言をくりかえしたりする。今度の新しい大臣の一人が過去に「女体盛り」で盛り上がっていたなどと早速話題になっていた。
この後どうなるかを予想して書こうと思ったのだが、あまりこれといったことは書けそうにない。岸田元外務大臣が閣外に去り、野田聖子新総務大臣も次の総裁選挙に出ると言っているので、今後1年は大きな変化のないまま次の政権を睨む牽制的な動きが続くのではないだろうか。結局、安倍政権はβテスティング政権でこれといったことを何もしないままで終わってゆくのかもしれない。