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なぜウヨクとサヨクはTwitterで激突するのか

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9月ごろから意識し始めていたファッションがちょっとつまらなくなってきた。基本のスタイル(いわばユニクロのカタログに出てくるようなもの)があるのだが、これはなんとか分かったと思う。ただこれだけでは「WEAR」ではいいねがもらえない。いいねとはいわゆる「トレンドに乗った格好」だと思うのだが、標準からの逸脱をトレンドとみなしているようだ。標準をはずすと少しだけ評価がよくなる。
しかし単にはずせばいいというのものではないようだ。ファッションにはコミュニティがあり、そこに認められた逸脱でなければならないのだ。現在は通常より太いパンツやちょっとだらしない格好が流行中だ。誰か手っ取り早く正解を教えてくれなどと思ったりするのだが「トレンド局」などというものはなく自分で探さなければならない。ファッション雑誌はコミュニティを作っているがファッション雑誌が正解だということもないらしい。
これを一人でやっていてもつまらない。
ファッションは逸脱を通じてコミュニケーションを図る行為といえるのだが、コミュニティはいくつかあるので流行は一つではない。太目の格好をしている人たちもいるのだが、アメカジ風のワークスタイルが流行なのだといっている人たちもいる。
さて、これについて考えていてファッションコミュニティと政治的コミュニティの違いは何だろうかと考えた。共通点と相違点がある。共通点は「正解はあるのだが誰に確認していいのかが分からない」という点だ。これを集団主義という人もいるだろうが、社会集団は構造を持っているので、どちらかというと群れに近い。
ファッションの場合、リーダーが「今年はワイドパンツが流行りますよ」といってもコミュニティは動かない。着ている人たちの承認が必要なのだが、誰に承認を取ってよいのかが分からない。かといってトレンドがないわけではなく「ああ、今年はワイドパンツが流行っているなあ」という実感はある。こういうどこにあるのか分からないが確かに存在するという意味ではトレンドは空気と同じだ。多分政治的意見にも空気があり、政党支持率はそれを計測しようという目論見なのだろう。
一方違いもある。ファッションは複数のトレンドが同居できるし、同じような格好をしていないからといって排除されることはない。しかし政治の場合にはなぜか激しいいさかいが起こる。
ではなぜいさかいが起こるのか。ファッションはワードローブさえ変えれば一人でいくつものスタイルを試すことができるが、政治的な態度はいくつの複雑な価値観が絡み合って作られる。容易に変更できないからこそポジションが固まってしまい、相互にいさかいを起こすのではと考えた。
もしそうであれば政治的なポジションの二極化が説明できない。日本では「右と左」という、よく考えるとなんだか分からないが、確かに「ああ、あれね」というものが存在する。アメリカにもリベラルとコンサバティブという二つの流れがある。
右と左の根本的違いは何だろうかと考えたがこれは簡単に見つかった。左の人たちは内面の価値観を大切にする。一方、右側の人たちの規範は外からやってくる。右側の人たちが「誰を従わせ、誰に従うか」ということをやたらに気にするのはそのためなのだろう。一方左側の人たちの世界は一見ファクトを見ているようでありながら主観に彩られていることがある。
左の人たちにとって災厄は外からやってくる。彼らの恐れは「原子力発電所から出る放射能」とか「人権侵害をいとわず日本を戦争に導く安倍首相」などのリスクだ。一方で右の人たちは自分たちと違う価値観が誰かの内面からやってくることをとても恐れている。例えば、韓国と中国のような同じような顔かたちをしたよそ者とそれに「洗脳されている」人たちが脅威になる。いわゆる「普通」を標榜する右側の人たちは、実は普通が容易にバラバラになってしまうことを恐れている。
左側の人たちは多様性が「普通の価値観を壊す」などとは思っていない。考え方の違いを扱うのにそれほど苦労しないのだろう。一方で右側の人たちは普通である自分たちの価値観が外から抑圧されるとは考えていない。こういうものとは折り合えるし、自分たちは多数派として容認されるだろうという自信があるのだろう。だからお互いの恐れが理解できないばかりか、お互いが脅威に見えるのかもしれない。
ファッションでこのような対立が起こらないのはワイドパンツのモード系の人たちがユニクロ系の人たちの価値観を根本から破壊してしまうなどということが起こらないからだろう。
そう考えると、右か左かというのは実は政治的態度の表明ではなく、自己の同一性がどのように維持されており何によって破壊されうるかという認識の違いに過ぎないのではないかと思った。だからこそ「相手が脅威」に見えるわけで、Twitterなどで対峙すると敵対せざるを得ないのだろう。