ラスベガスでテスラ車を爆発させたグリーンベレー所属のリベルスバーガー氏の人となりがわかってきた。優秀なグリーンベレーだったそうだが、クリスマス頃に奥さんがでていったという報道がある。ニュー・オーリンズで14名を轢き殺したシャムスド・ディン・ジャパー氏も経済的に行き詰まり奥さんと離婚していたという。
常識的な日本人から見ると「なぜ家庭生活の行き詰まりが社会の破壊につながるのか?」と言う気がする。このため「なにか壮大な陰謀があったのでは?」と考えを巡らせたくなるのだが、事件の真相は意外と単純なものなのかもしれない。
日本では「わたくしごと」と「おおやけ」は別物として捉えたがる。だがアメリカ人はどうもそうではないようだ。この連続性は積極的な政治参加の動機にもなっているが社会を破壊する原動力にもなるということがわかる。
リベルスバーガー氏とシャムスド・ディン・ジャパー氏の経歴を調べるためにABCの関連記事を読んだ。
- Las Vegas Cybertruck explosion investigators piece together suspect’s final hours
- What we know about Cybertruck explosion suspect Matthew Livelsberger
- An Army veteran’s path to radicalization followed divorces, struggling businesses in Texas
シャムスド・ディン・ジャパー氏は退役後に不動産業を始めるがうまく行かなかった。家のローンが支払えなくなり奥さんと離婚した。もともと静かな男だったようだが次第にイスラム教に傾倒してゆく。本来のイスラム教は平和的な宗教だがオンラインではISISの過激な主張も飛び交っている。伝統から切り離されていたであろうシャムスド・ディン・ジャパー氏はISISの教えに傾倒していったとされている。
オンラインに残したメッセージからは直前まで家族の破壊を目的に行動していたことがわかっている。ところが途中でなぜか気が変わりもっと大きなことをやろうと考える。そして有名観光地であるニュー・オーリンズのフレンチ・クオーターで事件を起こした。ただし完全に突発的な行動でもなく周辺に爆発物を仕掛けるなどの計画性もあったようだ。
リベルスバーガー氏の行動は少しわかりにくい。第一期にはトランプ大統領を支持していた。また軍歴を見ると立派な「愛国者」だったことがわかっている。グリーンベレーに所属していたということなので優秀な軍人だった。私生活に問題も見られずSNSでも上機嫌な様子でレビューなどを書いていたそうだ。
ところがABCはクリスマス頃に出産したばかりの奥さんが出ていったと伝えている。彼に「何らかの行き詰まり」があるとすれば、これが唯一の行き詰まりである。
これを除くと極端な行動に出る理由は考えにくい。そこで「何者かに強要されたのでは」と思いたくなるが、自分で自分の頭を打ち抜いているそうである。
両者の行動を合理的に説明しようとすると3つの仮説が思い浮かぶ。
- 最近のアメリカ人は混乱しており合理的な思考ができなくなっている。
- この2人のアメリカ人は何者かに操られており内部からシステムを破壊しようとした。
- アメリカ人の思考の中では私生活と政治・社会は直結している。
第一仮説は「バカだから合理的な行動はできない」となり、第二仮説は陰謀論だ。これらを棄却すると第三仮説が残る。
自分の生活が破綻した。何もかもが終わりである。だったら世界を巻き添えにしてすべてを終わらせてやる!
日本人に理解できない点が2つある。
もう1つはメッセージングだ。
日本人は積極的に自分の考えや境遇を世界に打ち出すことはない。徹底的に他人の意見を否定して周囲に合わせさせるのが日本人だからである。つまり積極的に主張すればかならず叩かれるということをよく知っている。そのためそもそも気持ちを言語化することはしない。一方でこの2名のアメリカ人は「自分の考え方を打ち出すためにはできるだけ派手で大きなことをやったほうが良い」と考えている。
日本人は「わたくしごと」と「おおやけ」を明確に区別する傾向がある。しかし、2人のアメリカ人の中では「わたくしの行き詰まり」と「社会」はつながっている。自分の苦しかったことを社会に訴えるためには大きなメッセージングが必要だと思っている。
日本人は「わたくしごと」が動機であるに過ぎないのであるならば「おおやけ」の問題ではないと考えるだろう。しかし、アメリカではこの2つは接続しているので「わたくしごとをきっかけにして社会の矛盾に目が向いたと考える可能性は棄却できない。この2つの事件が関連する可能性は完全には棄却されておらず、今後新事実が出てくる余地は残っている。
日本人は自分が苦しくても「自分が苦しい」とは言わない。代わりに「世の中が大変なことになってきているからこれから同じようなことが日本でも増えるであろう」と考えるようだ。日本語は主語を明示しない言語なので「わたくし」と「よのなか」が入れ替わってしまう。
徹底的に「わたくし」という主語を隠蔽するということは、自分にも他人にもそれを禁止しているということだ。
行き詰まりつつある世の中を変えてゆくためには「一人ひとり」の「わたくし」が今ある制度を破壊するか小さな石を一つひとつ積み上げるようにコミュニティを再構築してゆくしかない。
だが、日本人は「よのなか」について語るときには「わたくし」を主語には置きたがらない。
養老孟司氏は田原総一朗氏との対談の中で社会変革について語りたがる田原総一朗氏に不機嫌そうな顔で「日本人は嫌なことを考えるのを避けている」と主張した。日本人は社会が行き詰まったとしても「それを見て見ぬふりをする」と言っている。だから養老孟司氏は社会制度や人について語るのは時間の無駄であると考えているようだ。結論として「日本人が変わるとしたら大きな地震などの天災しかない」と言っている。天災が来るまで自分では何も動かず、来たら来たで「ああ仕方ない」と考えるのが日本人なのだ。