バイデン大統領が日本製鉄のUSスチール買収を阻止する決定を下した。決定内容は極めて感情的なもので、今のアメリカ合衆国の内向きさがよくわかる。ただおそらくこうした内向きさ(反グローバリズム)は今後先進国のトレンドとなるだろう。
バイデン大統領が日本製鉄のUSスチール買収を拒否した。「完全かつ永久に計画を阻止せよ」と迫っている。日本政府は理解しがたいとの声明を出しているがおそらく対抗措置は取らないだろう。日本製鉄とUSスチールはあらゆる手段を取って対抗するとしており法廷闘争に発展しそうだが「誰を訴えていいかわからない」という状態になりつつあるそうだ。
バイデン大統領の説明する理由は極めて内向きで客観的な根拠に乏しいものだった。確かに理由は書かれているが単なる感情論に過ぎない。
バイデン大統領は声明で「国内で所有、運営される強力な鉄鋼産業は国家安全保障の優先事項であり、強じんな供給網にとって欠かすことができない」と説明。「国内に鉄鋼の生産能力を保有し、そこで働く労働者がいなければ、米国は弱く不安定化する」とした。
バイデン米大統領、日鉄のUSスチール買収阻止を発表(REUTERS)
労働組合側は「製鉄所が日本人に支配されると製鉄所が地域からなくなってしまうだろう」と決めつけていて「永久に製鉄所がアメリカに置かれること」を希望していたようだ。バイデン大統領の声明はこの根拠なき不安に応えるものになっている。
もちろんこれを合理的に否定することはできる。
ソ連は国家が企業の永続性を保証する体制だった。これをソフトな予算制約という。そしてこのソフトな予算制約はソ連が崩壊する要因になっている。
またそもそもUSスチール側が日本製鉄に買収されないとアメリカの工場を維持できないと言っており日本側も最大限譲歩してアメリカからは撤退しないと約束をしていた。結局のところ「日本人のような理由のわからない人たちに支配されたくない」「日本人の約束など信用できるはずがない」という差別感情による拒否ということになる。
さらに、次期トランプ政権は「関税」を利用して製造業をアメリカに取り戻すとしている。同時に移民も排除すると言っている。結果的に「高技能労働者」と「安い賃金で働く人」がアメリカからいなくなる。これを合成するとアメリカ合衆国の製造業はコストが割高になり維持が難しくなるだろう。アメリカ国内の需要を満たすことはできるかもしれないが、世界の工場として稼働するのは不可能な情勢だ。つまり、外資(これは日本に限らないが)の買収を排除したうえに関税で世界経済と切り離されてしまうことは世界とつながるアメリカの製造業にとっては自殺行為と言えるだろう。
このうち「高技能労働者」についてはトランプ支持者とマスク・ラマスワミ両氏の間に争いが起きている。おそらくアメリカ合衆国の労働者政策はしばらく大混乱するだろう。アメリカは内部からの制度破壊が起きやすい実験的・革命国家なので「あとはご自由に」と言ったところだ。Resilience(回復力)に期待するしかない。
ただし、製造業の消失は必ずしもアメリカ合衆国固有の問題とも言い切れない。
フォルクスワーゲン社がドイツを撤退するという話が出ている。自動車産業は非常に裾野の広い産業なのでフォルクスワーゲン社が撤退してしまうとそのまま衰退してしまう地域がある。このためドイツの地方政府はフォルクスワーゲン社に労働者の強い意向を背景にした地方政府代表を送り込んでいる。
しかしながら強すぎる政治関与はフォルクスワーゲン社の競争力を阻害する。つまり工場を守ることは出来たが企業を守ることは出来なかったということになりかねない。
例えば日本にもトヨタ自動車・スズキ自動車・マツダ自動車などの企業城下町がある。それぞれ愛知県・浜松市一帯・広島県府中町など企業城下町を抱えており企業撤退や合併によって地域経済が一夜にして崩壊する可能性がある。
ほんの10年ほど前までは「脱製造業こそが成長の近道」などと言われていた。確かにアメリカの西海岸と東海岸は金融やITなどの産業による成長を遂げたのだが、高い教育を持つ人達以外はその恩恵に預かることが出来なかった。これが製造業地域の不満の要因となり極めて内向きな反グローバリズムの政治状況を作り出している。
バイデン大統領の決定は極めて感情的なものだ。だが、アメリカ合衆国が中間層を満足させる代替ソリューションを有権者に提示できないのも事実である。そしておそらく同じことがドイツや日本などの製造業に依存している国にも起こり得る。
過剰につながった世界は今その揺り戻し期にある。ただしその対処方法は国によって大きく異なっている。積極的な制度破壊が進むアメリカのような国もあれば、眼の前の現実から目を逸らし「天災」のように捉えたがる日本のような国もある。