立花孝志氏が「県民局長の公用パソコンの中身」と称するスクリーンショットをXに掲載し300万以上のインプレッションを稼いでいる。第一印象としては「スクショ」くらい誰でも作れるよなと感じた。ただしこれを嘘だと断定するためには「本物」がなければならない。騒ぎからは距離を置きたいのでリンクは貼らないが疑念を払拭するためには百条委員会側が本物を提示する必要があるということになり「厄介なことになったな」という印象だ。
そもそもなぜこんなことになったのか。本来は公平に公益を判断すべき百条委員会を議会主流派がおもちゃにしたからである。立花氏の行動は称賛されるべきではないが議会の失策のツケは大きかった。故人の人格が弄ばれている。
「情報漏洩」は実は立花氏の手の上で踊らされている
まず、立花孝志氏がインプレッション稼ぎのためにこれをでっち上げたという方向から検討する。
可能性は2つある。1つはファイルが存在し誰かが持ち出したという説、もう一つは勝手にファイルを作ったという説だ。どちらが簡単なのかと言われれば実は空白のファイルをたくさん作ったほうが簡単だ。つまりでっちあげのほうが楽だ。
だが実際には「情報漏洩」という言葉が出てきた。違法に文書を持ち出させてリークしたうえで故人の尊厳を著しく毀損したことになるが、これだと誰か協力者が必要だ。さらに暗黙のうちに渡瀬康英西播磨県民局長は不倫していたと認めその風評を拡散していることになる。実は「情報漏洩」は反斎藤・反立花のようにみえて立花氏の手のひらで踊っているも同然だ。
日付が同じという点が注目されているが一括コピーしたりシステムを復元すればそうなると思う。つまりオリジナル・ファイルではない可能性が高いものの誰かが中身を一括コピーした可能性は否定できない。だが同じような要領で空ファイルを作ることもできる。
「信頼されなくなったマスコミ」と言う大問題
次にマスコミが信頼されなくなったという事情について考えたい。マスコミが信頼されなくなったからこそ立花氏が活躍する隙が作られた。だが実は立花氏はマスコミを破壊しているのではない。ルールを改竄して利用している。実に巧妙なやり方なのだ。
スクリーンショット自体は誰でも作れてしまうので、本来立花氏はこれが本物であると証明しなければならない。この「メディアのお約束」が信じられなくなっている点に問題がある。
政治は日本が抱える諸問題を解決できておらず自分たちの都合を「丁寧な説明」と誤魔化してきた。マスコミは一種の共犯関係にあると同時に地上波は許認可を政府に握られていて忖度を余儀なくされる。またスポンサーに不利な情報は流せないとい独自の事情もある。依然はマスゴミ等と言われていたが今では「オールドメディア」と呼称することが増えているようだ。
テレビが信頼を失うなか「テレビが伝えない真実がある」と考える人が増えている。この新ルールのもとでは「疑わしきは盛大に罰せよ」ということになり大変危険な状態だ。
立花孝志氏がジャーナリストであるならば「どのように手に入れたのか」が争点になるだろう。だがジャーナリズムにも「ソースの秘匿」という約束事がある。ジャーナリズムは権力と戦うことになっているので「権力に潰されかねない弱者」を守るという意図がある。
立花氏はこれをよく理解しており「ソースをどこから手に入れたか」は明らかにしていない。YouTubeの動画によると「立花は嘘をついている」と言われかねないので「信頼性を確保するためにはパソコンの画面を公開するしかなかった」と説明している。そればかりか「インプレッション稼ぎの嘘」という疑いをうまく利用し「自分は真実追求のために戦っており疑念を払拭するためにはこうするしかなかった」と説明している。
立花氏のYouTube動画の説明パートを見ると「お金儲け」に関する記述が多い。これが既存のジャーナリズムとの最も大きな違いだ。だが人々は「お金目当て」であることをさほど気にしていない。ただこれもワイドショーのルール「CM枠を売るためい社会正義を利用する」のパロディーであり立花氏の発明ではない。
実はジャーナリズムのルールを熟知しておりそれをうまく利用している。意外と優秀な二次創作なのだ。
百条委員会を政治利用した議会の罪
情報漏洩が問題になっている。本来公務員や特別公務員の情報漏洩は犯罪になるが「公益」に当たると判断されれば免責される場合がある。ただしこの場合には「民主主義的なプロセス」に従って公益認定をする主体が必要だ。今回の事案ではこれが揺れている。
なぜ揺れているのか。
それは百条委員会が「吊し上げショー」の一面を持っていたからに他ならない。すでに党派性を帯びた政治ショーと理解されている。結果的に「公益」がどこにあるのかを判断する人がいなくなった。あとは故人の尊厳が汚され放題になる。第三者委員会をスキップし百条委員会を主導した議会の大失点であろう。
何を今更と言われるのを覚悟で指摘すると百条委員会が始まる前に不信任案提出に流れたのも良くなかった。
なぜかベルリンの壁崩壊に似た高揚感がある
今回の一件を見ていて不思議に思うことがある。なぜかベルリンの壁崩壊に似ているのだ。
もともと新聞記者はブンヤなどと言われて軽蔑されていた。ここに学生運動に敗れた人たちが大量に入ってくる。当初は既得権益に対するルサンチマンもあったのだろうが、大統領が罷免直前にまで追い込んだウォール・ストリート・ジャーナルのウォーターゲート事件のようなロールモデルがありやがて社会正義へと昇華されてゆく。
実際に日本のメディアはロッキード事件・リクルート事件など「政治とカネ」の問題を掘り出して時代時代の政治情勢に大きな影響を与えている。
TBSのワイドショーがオウム真理教関連で問題を起こしたとき新聞と週刊誌上がりの筑紫哲也氏は「TBSは死んだに等しいと思う」と嘆いた。社会の傍流という意識を持っていたが、それなりの矜持(プライド)もあった。
このメディアの独特の立ち位置が現代では受け入れられなくなっておりむしろマスコミこそが権力だとさえ認識されている。かつて一種の社会正義を実現したメディアがなぜ支持を失っていったのか。実直な分析はまだあまり多くないが筑紫哲也氏は泣いているかも知れない。
渡瀬康英西播磨県民局長というお名前はすでに一部で報道されている。そもそも公務員なので調べようと思えば誰でも調べることができる。仮にこれが虚偽であれば渡瀬さんの名誉が死後に傷つけられたことになる。また、事実を含んでいたとしてもご遺族の心中は察するに余りある。
仮にこれが虚偽であった場合どのように証明すればいいのか。おそらく本物のPCのスクリーンショットを公開するしかない。故人遺族が職場のパソコンにアクセスできるとは思えないので百条委員会の方に渡瀬さんの名誉を守る道義的責任があることになる。そもそも原因を作ったのは百条委員会を党派的に利用した議会主流派だ。
最近ではマスゴミと言わずにオールドメディアという言い方をする事が増えているようだ。「ニューメディア」側にいる人達が「オールドメディア批判」で何を証明したいのかはわからない。
あえて例えるとするならば共産主義体制が崩れた1989年の「ベルリンの壁」崩壊のような高揚感がある。今にして思えばベルリンの壁崩壊が西側社会を豊かにしたとも思えないが、少なくとも当時は「何かが大きく変わる」予感に大きな高揚感があった。
だがオールドメディアを倒したあとそこに何が広がっているのか。答えを持っている人はだれもいないのではないか。
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