ざっくり解説 時々深掘り

自殺する子供と親の責任

いじめの問題について考えているうちに「子供はなぜ残忍なのだろうか」ということを考えはじめてしまったのだが、その結論は受け入れがたいものだった。子供が自殺に至るほど追いつめられるのは親がそう刷り込んだからだなのではないかと思ったのだ。多分、公共の場でこの様な主張をすればかなりのバッシングを受けるのではないかと思うが、一応書いてみる。

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順を追って説明したい。子供は残忍だ。クラス全体で一人の子供を追い詰めることも珍しくない。孤立させた方は大した責任を感じないが、受けた方はストレスを一点で支えるわけで、その苛烈さは想像に難くない。学校に行きたくなくなり、新学期が始まる日を選んで自死を選択する人もいる。新学期が楽しみだという子供も大勢いるのだが、9月1日は子供が一番多く自殺する日なのだそうだ。

使いっ走りとして便利に使っていた仲間が逃げ出したからといって、河原に呼び出して沈めるという事件もあった。沈めれば窒息して死んでしまう可能性があるのだが、そこまで考えなかったのだろう。それくらい虐待に慣れていることになるのだが、心理状態としては戦場にいる兵士と同じようなものなのではないかと思う。

いじめは集団の暴走だという見方もできるわけだが、意外とリスクとリターンが冷静に計算されているのかもしれない。つまり、集団を団結させて自分の集団内の地位を保つために、他人を利用している。この時に「最もコストが低く、影響が少ない」人がターゲットになるのだ。

いじめるコストが少ないとみなされるといじめられる。

すると、コストを高めればいじめが防止できることになる。先生が監視していじめに厳罰を与える(つまり行為に対してのコストを外から高める)か、いじめられる本人が強く出ることで内側から行為のコストを上げると良さそうだ。前者はなかなか難しい。いじめは監視網をかいくぐって行われるし、仲間はずれのように何もしないことでもいじめられるからだ。さらに、先生そのものがいじめの構造を作っていることもある。

すると内側からコストを高める方法を検討すべきだということになるわけだが、このあたりから「なぜ、当事者は抵抗しなかったのか」という問題が出てくる。これがこの考察の最も辛い部分だあった。いじめのターゲットは、生きるためにあえて「搾取されること」を選んでいるのではないかという仮説が排除できなかったのだ。自己肯定感が高い場合は、内側からコストを高めることは不可能だ。これまで「いじめられたいとは思っていない」という仮説で話を展開していた。だからコストを高めることが選択肢になった。しかし、自発的にいじめられているとしたらこの戦略は成り立たない。

その刷り込みが行われる場所は1つしかない。それは家庭だ。普通の家庭では序列化は起こらないはずだが、親が外からなんらかのストレスを受けているか、内在的なストレス(極度に潔癖だったり、潜在的な怒りを抱えているとか)を抱えている場合、その圧力は一番弱いものに向かうだろう。その一点が子供なのだ。子供はその環境を受け入れるしかないわけで「生きるためにストレスを受け入れる」選択をするにちがいない。これがマーカーになり、学校でも「ストレスを引き受ける」ことを選択してしまうのではないかということになる。

このあたりのことは証明しようがないが、デズモンド・モリスの説明を紹介したい。群れの下位にいるメスはコルチゾールの値が高くなる。その子供も影響を受けてコルチゾールの値が高くなる。すると群れの地位が下がってしまうのだそうだ。人間の社会で、子供のコルチゾールの量が高くなるのがどんなときかはわからない。猿の社会的な地位が問題なのかもしれないし、親の接し方が問題なのかもしれない。

この説をとると、子供が追いつめられたのは親のせいだということになる。親がいじめられる行動様式をかなり深刻なレベルで子供に刷り込んでいるということだ。

もっとも、それがわかったところで何の解決にもならない。家庭内の搾取は無意識のレベルに隠蔽されているはずだし、弱いものを抑圧する行動様式を当たり前だと考えているかもしれない。訓練を積んだ第三者がしばらく観察してようやく気がつくレベルなのだろうが、家庭は密室化していて、第三者が入り込む余地はない。

さらに、子供をなくして悲しんでいる親に対して「子供が死んだのはあなたのせいですよ」といったところで子供が返ってくるわけではないし、追い打ちをかけるのは道義的に正しいとも思えない。

あえてできるのは、追いつめられている子供に対して2つの選択肢を与えることだろう。1つは逃げることだ。「図書館にいらっしゃい」などが有名だ。もう1つは「他人に搾取される必要はない」ということを第三者が教えてやることだ。かつては学校の教師がその役割を果たしていたわけだが、最近の学校は階層化が進んでいる。つまり、教師も競争とストレスを受ける側にいるのだろう。実際にはいじめに加担する教師も少なくはない。

いじめは組体操の人間ピラミッドのようなもなのかもしれない。自分が抜け出せばピラミッドがガラガラと崩れてしまうから抜けることはできない。が、その重みは底辺の人間が支えている。だから、もう耐えきれなくなったら力を抜いて圧死するしかなくなってしまうのである。

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