民主党は「TVポリティクス」で政権を取った政党だった。テレビでは自民党首班が次々と行き詰まる姿が3年に渡って映し出され、ニュースはそれを逐一報道した。国民はなぜか自民党政治にうんざりしており、麻生内閣では「いつ解散するのか」ということばかりが問題になったのだが、それはとりもなおさず、国民が自民党が地に落ちるところを見たかったということを意味する。少なくともその空気は数年は持続した。
今度の都知事選はいささか様相が異なっていた。週刊誌報道に端を発した舛添下ろしはネットで「炎上」状態になった。些細なことだったが、結局は「受け答えが気に入らない」ということだった。いったん炎上状態になると対象物がなくなるまで炎は収まらなかった。ここで分かったのは、舛添都知事を下ろそうとした人たちには中期的な戦略が全くないということだった。つまり「下ろす」ことには熱心だが、その後のことは全く考えていなかったのである。
舛添都知事が辞めることが分かると、その火の粉は都議会の実力者たちに及んだ。いじめで都議が自殺に追い込まれたことなどが掘り起こされ、利権をむさぼっているという図式が作られた。そこで出てきたのが小池新都知事だ。
よく考えてみれば、都知事の税金の使い方をチェックするのが都議会の役割なのだが、なぜか都知事が「都議会のお金の使い方をチェックしたい」などと言っている。これは民主主義の仕組みとしては全くおかしいことなのだが、誰も指摘する人はいない。それくらい理性は吹き飛んでいる。
都民有権者は小池新都知事の人となりや政策にはあまり関心を払わなかった。もともと小泉政権下で東京から出た人なのだが、その前は小沢一郎の主導する政党にいた。自民党では清和会に入ったために、右翼的な言動が多いのだが、森元会長とはあまりそりが合わないようだ。自民党都連でも浮いた存在だったようで意思決定からは外されていたようだ。
いずれにせよ分かるのは、テレビポリティクスよりもさらに「その場の雰囲気に弱く、後先を考えない」のだ。一方で、情報だけはたくさん流れてくる。単にそれに流されて漂流して行くのが「スマホ型政治」の特徴だろう。日本の政治はどこに向かって行くのだろうかという問いがあるが、これは無効であって、どこにも向かっていないのではないだろうか。
スマホ型政治の特徴は何だろうか。いくつか思いつくままに挙げてみたい。
- 多くの刺激を短い時間で処理する。
- 長期的な視野がなく、終わりもない。技能の蓄積や学習はない。
- 経験を共有する一体感はある。
- 「敵を倒す」という快感がある。
護憲左翼の人たちはあまりにも長い時間一つのアジェンダにこだわり続けている。これが理解されないのは、そもそも時間軸が全く異なるからだろう。護憲左翼が一つの話題にかかり切りになり情報を集めているよこで、スマホ系の人たちは新しい刺激を求めていることになる。彼らには「一貫性がない」という一貫性があり、もう終わってしまった「ゲーム」には関心を示さないのだ。
このように考えないと、猪瀬さんや舛添さんがこれだけ多くの票を得たのに、後に苛烈なバッシングに晒された理由が分からない。小池バッシングが起るかどうかは分からないのだが、もし起きたとしても、その時には過去の投票行為はきれいさっぱりと忘れ去られていることだろう。