先ほどの、自民党の密告フォームの件、考えれば考えるほどだんだん腹が立ってきた。ロイターにも掲載されたので海外にも紹介されるはずだ。そこで思ったのだが、有志でサイトを立ち上げて匿名で(自民党の場合は実名で報告することになっている)特定の思想に偏った教師の名前を募集して、サイトに公表するというのはどうだろうか。
教師が政治的に中立でないのがいけないなら、例えば次のような教師もいけないはずだ。民主主義の敵だ。
- 教育勅語を生徒に強制する。
- 国歌や国旗への敬礼を強制する。
- 家族の価値観をやたらに誇張し、女性は男性にだまってついてくるようにという自説を滔々と述べる。
告発が真実であろうがなかろうが構ったことではない。そういう先生には校長なども多いだろうから、国民が一丸となって反対運動を展開するべきだ。民主主義はみんなで守らなければならない。これは正義を巡る戦いだ。もちろん、善意の市民として教育委員会にも圧力をかけるべきだろう。
さて、実際にこんな動きが起きたらどうなるだろうか。気に入らない教師を貶めようとする人たちが殺到するだろう。それは同僚かもしれないし、我が子が「不平等な扱いをされた」と考える親たちかもしれない。
一度、反人権教師のレッテルを貼られたらそれを挽回するチャンスはない。これは自民党のシステムでも同じことだ。一度「アカ」のレッテルが貼られたらその教師には出世の見込みがなくなってしまう。つまり、かつてあったレットパージと同じことなのだ。前者はネットで悪評が出回ることになるのだが、後者の場合は人事評価で一生消えない烙印が押されることになる。
さて、ここで提示されているのは、実は深刻な問題ではないだろうか。つまり「誰が誰をどのように裁くのか」ということである。ここで取り扱っているのは、思想・信条という人間が生きて行くために欠かせないものだ。もちろん何の思想がなくても人は生きて行ける。しかし「自分の人生は何のために使うのか」という意識なしで、本当の人生を生きていると言えるだろうか。誰かに強制された思想の枠組みから外れてはいけない人生というのは、本当にその人のものなのだろうか。
もちろん、誰かに自分の思想を押し付けて強制することはいけない。それは他人の人生を奪うのに等しい行為である。だが、そうでない限り、誰かが表現の自由を奪ってはいけない。それを奪われた人生は(少なくとも自由主義の国では)本物の人生とは言えない。
どの教師がどんな政治的思想を持っているのかということを密告しあうするような社会が作られれば、教育現場は確実に萎縮するだろう。自分の子供たちが「周囲の目を気にしながら、自分の信じる道を歩けない社会」が作りたいのなら、このフォームを掲げた政党をどうどうと支持するべきだろう。
自民党が教育現場の萎縮を狙ってこのフォームを掲げたとは思えない。ロイターの記事には木原稔文部科学部会長の名前が載っているのだが、支持者を喜ばせたり、党内で誰かにほめられたくてやったのではないかと思う。自分たちが何をやっているのか、何を扱っているのか、どんな帰結を導くのかこの人たちは分かっていないのだ。