博多大吉さんが「このような声が国会に届くといいんですけどね」と閉めていた。もはやNHKでさえも「国会は国民の声を聞いてくれていない」というのが通り相場になっているようだ。
NHKのあさイチが共同親権についての視聴者の声を紹介していた。ゲストパネラーは盛んに「こういう現状を放置してなぜ共同親権の議論を急ぐんですかね」といっていたが、誰もそれに応える人はいなかった。おそらくプレゼンターは知っていただろうが「これからも取材を続けてゆきます」としか言わない。
今の岸田政権はアメリカなど先進国に対する領主のような感覚を持っており国民生活には関心がない。だから共同親権の議論だけが進むのだ。このプレゼンを見て「今回の識者の人はどこまで話してよくてどこから話してはいけないのか」を事前にどう話し合っていたのだろうか?と感じた。
このブログでは度々共同親権について扱ってきた。このような政治不信を増幅させる放送で議論が終わるのは本当に残念だ。
まず「こういう現状を放置してなぜ共同親権の議論を急ぐんですかね」の答えは簡単だ。
共同親権は外圧により議論が始まっている。日本はアメリカ国務省からハーグ条約における子供の連れ去り国に認定されている。ここで使われている用語は「拉致」である。オーストラリアからも同様のリクエストが入っている。つまりこれは外交マターなのだ。
この状況を改善しようと3年もの間協議が続けられたが推進派と反対派の意見が折り合わなかった。日本の離婚女性の置かれている状況があまりにも過酷だったからである。このため法制審議会の部会では全員一致を見ることができなかった。多数決による採決は異例ということだ。
しかしながらこの法律は「答え」が決まっている。このため法制審議会の部会で結論が出てからは異例のスピードで自民党の手続きを通過した。この間には超党派の議連が立ち上がり野田聖子氏は異例の造反している。どのような議論が行われていたのかはわからないが野田氏は「まるで政党のケンカのようだった」と語っている。野田氏はのちに厳重注意処分となっているそうだ。中には「総裁選を意識して目立ちたかったのでしょう」というようなことをいう人もいたそうである。ゲスの勘ぐりとはこのことだ。
このことから3つのことがわかる。第一に自民党は「アメリカに対する領主」のように振る舞っており「民の生活」にほとんど関心がない。DVで苦しむ母や子供のことなどどうでもいいのだろう。世襲とエリートばかりのエスタブリッシュメント政党化しており自分達は国民とは違うのだと考えるようになっている。今回の件では家庭裁判所の在り方も問題になっている。
「岸田政権が国民生活に関心を持っていない」という主張に反論したい人は多いだろう。「では」と問いたい。この政権が国民の目線に立って何かしたことがあったか。また今回の件で岸田総理は戸惑う国民に共感し不安を払拭する説明をしたことがあったか。もういい加減見て見ぬ振りをするのはやめようではないか。行動するか諦めるかは別にしてこの現実から目を逸らしても何もいいことはない。
次に野田氏が「政党同士の喧嘩」といっているように、野党も反対派を取り込んで議席をどう増やすのかということしか考えていないようだ。これもこころない対応だが憲法審査会も同じような状況であり、政治資金規正法の議論でも自民党側が「自民党の力を削ごうとしている」というように国民そっちのけの政争が繰り広げられている。
ここまではだいたい「政治不信」お決まりの2点セットなのだが、NHKのあさイチでわかったことがある。法務省はこの問題を「外圧を受けたから」改正しますと説明していない。
あくまでも「共同親権」という優れた制度があり先進国もこぞって導入しているのに、遅れた日本だけは導入していないという言い方になっている。これは「説明」ではなく「歴史」である。つまり、統治者が語る歴史だけが正しい歴史でありそこを踏み越えてはいけないということになっているのだろう。
NHKが説明する共同親権の導入過程もこれを大きく踏み越えないものになっている。事実を事実として伝え判断は視聴者に任せるBBCとは大きく異なっている。NHKは「言わないことや書かないこと」が情報として重要な報道機関になった。日本の報道の自由度は先進国としては極めて低いランキングにとどまっている。記者クラブについて言及する人は多いが、この自発的な萎縮について語る人はいない。
実は今回の放送はこの件について扱う初めての回ではなかった。もともとNHKは政府の方針に沿って国民に「説明」をしようとしていた。最も厳しい言葉で説明するならば「政府のプロパガンダ」だったが、NHKではよくあることである。
ところが現在はSNS時代である。SNSでは例えば木村草太氏などが厳しい批判を展開していた。まだ家庭裁判所の運用が決まる前から「なぜ断言できるのだろう」という。
そもそも法律を作る動機が国民のためではないのでどうしてもさまざまな無理が生じる。
おそらく、NHKに苦情が寄せられるというよりはSNSでの騒動を無視できなくなったのだろう。お便りに応えるという形でフォローアップの放送が行われたわけだ。
このため「推進派ではない人」の意見も聞くべきだということになったようだ。あくまでも「環境整備をしていただきたい」という「お上にお願いします」というようなトーンになっていた。
彼らの目的はあくまでも被害者を減らす点にあり政府と喧嘩しても仕方がないということなのではないかと思うのだが、ここでNHK側がどのようなラインを設定して「これ以上は踏み越えないでください」という事前の話し合いがもたれたのかは知りたいところだ。かなり綿密に「いってはいけないこと」が取り決められたのではないかと思う。おそらく視聴者はかなり漠然としたモヤモヤしたものを感じたことだろうが、お便りから見えてくる当事者たちの声はどれも切実なものだった。
日本の政治批判を見ていると非常に興味深いと思えることがある。一歩踏み越えた人は単純な物語に惹きつけられてゆく。たとえば「憲法第9条を改正するのは日本を戦争できる国にするための野望である」というような具合だ。だがその裏には「所詮国民は統治される側なのだからお上にあれこれ言っても仕方がない」という諦めを持っている人たちが大勢いる。国民主権が理解されていないため、実際に調べて納得した上で自分達の権利を主張するという行動に結びついてゆかない。
自民党政権がこの先続くか、別の政権に変わるかというのは割とどうでもいいことだ。
結果的に国民は政治に期待や関心を持たなくなった。少子高齢化問題は解決せず、地方は衰退の一歩だ。政府も国民も「どっちみち政治は何も決められない」という点だけは両者の見解は一致している。どちらも「もうなるようにしかならない」という諦めを持っている。