ざっくり解説 時々深掘り

岸田総理の日米グローバル・パートナーシップはやはりハッタリだった

アメリカから帰国した岸田総理大臣に対して各党が質問を行った。岸田総理大臣の掲げるグローバル・パートナーシップが実はハッタリであるということがわかった。「相手が喜ぶからそういう意気込みを見せただけ」と説明していた。

だが、岸田総理の気概のなさはもはやニュースとはいえない。今回特に目立ったのがマスコミやネット世論を含めた日本全体を覆う無気力症候群だ。

本来なら無気力な社会を嘆きたいところだが逆にこれを受け入れてしまうと楽になるということもわかった。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






アメリカから帰国した岸田総理に対する質問会が国会で行われた。事前報道では盛んに「日米が緊密に連携する」と説明されたが、これが虚偽報告であるとわかった。

どんな約束をしてきたのか、何が変わるのかと問われた岸田総理はさかんに「憲法を改正してまで新しい責任に対応する考えはなく今までとは何も変わらない」と言い続けていた。岸田総理の「看板だけはやたらに大きいが結局中身は何もない」は既にニュースではない。

おそらく岸田総理には悪意はない。相手が喜ぶようなその場限りのことを言うのが外交だと本気で信じているのだろう。質疑は2時間以上に及んでいるが興味のある人は見てみるといいだろう。本当に「意気込みを見せただけで何も変えるつもりはない」と言い続けている。

逆に今回はマスコミの無気力ぶりが顕著だった。この件に対する報道は驚くほど少なかった。例えば時事通信は「米軍の指揮下には入りません」「憲法の制約かでしか動きません」という答弁だけを拾っている。そもそも関心がなく「ああ今までと何も変わらないんだ」で終わっているのである。

例えばこんな議論があった。日本が本気でアメリカとのパートナーシップを目指すべきであれば当然現在進行中の憲法議論と統合させることが必要だ。そこで国民民主党は憲法とグローバル・パートナーとの関係を質問していた。自衛隊は軍隊のような軍隊でないような組織であるため、当然その統合も曖昧で限定的なものになる。

逆に立憲民主党の立場から見れば「時の政権が暴走しないような歯止めをかける」必要が出てくる。だが、そのような議論も全く見られない。

歩く魂の抜け殻である岸田総理がこの問題に回答しないのはまだわかる。おそらく岸田総理は既に諦めている。

だが、マスメディアも全く反応しなかった。メディアには「社会にある論をまとめ」「それを集約し」「政治の反応を報道する」という世論集約機能があるのだが、記者クラブ報道に堕落した今の新聞社はこの役割を放棄している。

今のジャーナリズムは「トーン供給業」になっている。

紅麹問題では読売新聞のある支局が「期待してたトーンと違った」という理由で取材先の発言内容を改竄していた。SNSのXではこれに反対したり驚いたりする声は聞かれなかった。「こういうこと(カギカッコの中をいじると表現するのだそうだ)」が日本中で蔓延しているのだろう。

そう考えると読売新聞は「日本は今まで通りアメリカの下でやってゆけば何も考える必要がない」という安心感を有権者に与えようとしたにすぎない。それが彼らが考えるジャーナリズムであり国民が求めているトーンなのだ。

世間の無関心を背景にして憲法審査会では不毛なやりとりが続いている。とにかく早く条文を上げたいと考える自民党などの各政党に対して立憲民主党だけがとにかく数年時間をかけるべきと引き伸ばしを図っているようだ。だが、憲法審査会でどのような議論が行われているかという報道を見たことがない。このため国民の意見は憲法審査会には反映せず従って議論は平行線を辿ったままだ。

同じような議論は共同親権でも見られた。結局法務省が少数派を振り切って議会に法案を上程した結果デマや誤解を含んだ認識がSNSで一人歩きしている。マスコミというリンクを失った有権者と政治は今や全く「ベツモノ」として切り離されている。

とにかく勇ましい議論にこだわるネトウヨと呼ばれる人たちは野党をいじめていればそれなりに支持者が集まると認識しているようだ。彼らも立論・意見集約能力を失っている。

現在は国民民主党と保守系新興政党の間で支持者の奪い合いが起きている。あるネトウヨ系識者は多様性を攻撃すればネトウヨ票を国民民主党から奪取できると考えているようで、憲法9条の現在の改憲案に反対する東京15区の候補を攻撃していた。大勢のフォロワーたちがその識者の後ろで国民民主党を攻撃しているが。彼らが日本の国際的役割を拡張したいと考えるならば相手の意見を聞いてみるべきなのだろうが、おそらく彼らにはその意欲も能力もないだろう。

だが彼らは自らが無気力症候群であることを直視できない。我々の社会が意見集約と政策の具現化という民主主義社会に不可欠な推進装置を喪失しつつあるという現実を受け入れられないのだ。今回の憲法と安全保障の議論にある空虚さを突きつけたとて、それを見て見ぬふりをしてこれからも「勇ましくて強い日本」という幻想に耽溺し続けるだろう。

だがその議論には全く中身がない「がらんどう」である。虚しさを埋めるためにはもっと強い安酒を煽り続けるしかない。そんな状況だ。頭がぼーっとしたところで他人を攻撃する。それを彼らは政治参加と言っている。

ただ、これまでは「我々の社会は民主主主義に不可欠な重要な機能を失いつつあるのではないか」としてそれを証明するために多くの時間を浪費してきたように思う。いよいよこれが現実のものとなったのだからこれまでの無益な証明の時間は別の何かに使えるようになるだろう。

ある意味では我々は解放されつつあるのかもしれない。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です