玉木雄一郎氏のSNSアカウントで不思議な現象が起きている。ネトウヨの攻撃に合っているのだ。これはなぜなのだろうか?と考えたのだが、ようやく答えが見つかった。
「成長なき政治議論」の影響を受けていて、限られたセグメントの人たちを各政党が取り合っているのではないかと思う。
ピラミッドの最下層はネトウヨ対労働組合による保守層の取り合い
玉木雄一郎氏を攻撃しているのはネトウヨである。SNSのXアカウントを見るとその様子が観察でき興味深い。
彼らは安倍総理不在の自民党に魅力を感じなくなっており、新しい政党を立ち上げようとしている。ところが、そのショバを国民民主党が狙っているのが面白くないのだろう。
ネトウヨは東京15区に立候補している車椅子のある候補者が「多様性」を代表しているとして攻撃材料にしている。多様性はリベラルであり弱者の象徴である。これが強者属性が好きな彼らには許せないのだ。
また弱者属性はそのまま攻撃材料として使えると彼らは考えている。現在玉木雄一郎氏のSNSのXアカウントは盛んにネトウヨから攻撃を受けているが議論の内容はスカスカである。政策にまるで興味がなく、物事を「強い」と「弱い」で見ていることがわかる。アジェンダを自ら作り出す能力は彼らにはないのだろう。
だがそもそも政策に興味がないため、玉木氏の攻撃は全て無効化されている。合理的に説明しても全く効果が出ないのだ。
ピラミッドの二番目の層は政権批判層の取り合い
次の層(上なのか下なのかはわからないが)では維新と立憲民主党が不毛な相互攻撃を行っている。
市民派と労働組合派で事実上の分裂状態になる立憲民主党は政策立案をしなくなった。おそらく泉体制では政策の一本化を諦めたのだろう。連合も立憲民主党支持と国民民主党支持をまとめられていない。だが「共産党嫌い」だけは明白だ。
また、安倍政権打倒というスローガンが支持の広がりに繋がらなかったこともトラウマになっているのかもしれない。単純に「政治と金」の問題で政治家を罵倒していれば支持が集まると彼らは学習してしまった。
維新は大阪・関西万博で無駄遣いを嫌う無党派層の支持を失いつつあり代わりに立憲民主党の支持が伸びている。これは各種世論調査を見れば明らかであり、彼らは競合関係にあるといえるだろう。
だから維新は盛んに立憲民主党を攻撃しサボタージュ政党だというレッテル貼りをしている。そしてこのレッテル貼りに対して「学校に行けない子どもたちを愚弄している」という謎のカウンターが繰り出される。外から見ている分にはコメディーのようでおもしろい。
全く笑えないのだが。
なぜこんなことになったのか?
なぜこんなことになっているのか。
ReHacQが東京15区の討論会を開催していた。ところがこの討論会は全く面白くなかった。
どの候補者も無党派層や現役世代に対しする手厚い対応の必要性を語っており。争点が全くない。唯一の争点を作り出そうとしていたのは保守系の女性候補だった。アファーマティブアクションの一環として女性が優遇されるべきではなく労働流動化にも反対なのだそうだ。この人は既存のネット保守層を意識している。
しかしこれも決定的な対立点とはならず、従ってたいした言い合いも起こっていなかった。単に客層が違うというだけの話で議論になっていない。中には政治家になることに興味はなく単に立候補しただけと告白する人までいた。
彼らに対立点がない理由は明白だ。日本の経済全体を伸ばしてゆかなければ分配はできない。だが、そもそも高度経済成長期を知らないため、分配の具体的なイメージがわかない。
また自民党が候補者を立てず立憲民主党の候補者が参加を見送ったため政権批判も展開できなかった。
今回不在の自民党のライバルは支持政党なし
立憲民主党はこの討論会への参加を見合わせている。立憲民主党から政権批判票を奪取したい維新のある有力幹部は「議論から逃げた」などと盛んに立憲民主党を煽っていた。おそらく立憲民主党としては「その他大勢」として埋没したくなかったのだろう。つまり、彼らは自民党こそが自分達のライバルだと考えておりそのイメージを定着させたい。
だが世論調査を見ると自民党の支持率が落ちると「支持政党なし」が増える様子が確認できる。つまりトップレイヤーの争いは「自民党」と「支持政党なし」であることがわかる。
有権者は政治そのものに期待しなくなりつつあり政治から離反している。言い方は悪いがチョコレートを配らなくなったGHQには魅力がない。
それでも何らかの理由で政治に興味を持っている人はいる。残った人たちをそれぞれのポジションを取り合っているというのが今の政治状況だ。だが、経済全体が大きくなったところを誰も見たことがないため、どうすれば分配の原資が捻出できるのかが誰にもわからなくなっているのである。つまり彼らには配るチョコレートがないのだ。
東京15区の現状は自民党が壊れた後の世界が「こうなるかもしれない」という絵を見せてくれる極めて興味深い社会実験になっている。本来ならばメディアが意見集約をして有権者を無党派ではなく何らかの塊にすべきなのだろうが、今の日本のメディアにはそのような機能がない。東京にはキー局が集まっているのだがローカル局がほとんどないためこの傾向に拍車がかかる。