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政治と金の問題が解決せず派閥政治からも脱却できない理由を政権批判抜きで考えてみる

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TBSに松原耕二氏司会の報道1930という一時間の番組がある。非常に長いプログラムなのであまりみる気になれないのだが森元総理の力の源泉というプログラムをやっていたので「一体何が力の源泉なのか」と興味を持ちさわりだけ見てみることにした。答えは極めて単純で「面倒見がいいから」だった。「なんだ」とがっかりした。

ただプログラム全体を通しで見ると、日本がなぜ派閥政治から脱却できないのかがよくわかる。日本の政治には政策が入り込む余地がない。このため党の中の人間関係が重要な「村の政治」ばかりが発達した。それを支えているハブが森喜朗氏なのだ。田崎史郎氏は「永田村の村長」と表現している。

つまり日本が再び成長トラックに乗るためには、まずこの村の政治を打破し政策中心の政党政治に転換する必要があるということになる。だからこそ森喜朗氏に対する聴取は極めて重要なのだ。

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プログラムは田崎史郎氏の分析から始まる。田崎氏は周辺に取材し「森元総理に対する聴取はないだろう」と言っていた。つまり日本テレビの報道を否定したことになる。結果的に共同通信から森喜朗氏への聴取はすでに終わっているという報道が出たため田崎さんの読みは正しかったことがわかる。

錯綜する報道についてはざっくりと別のエントリーにまとめた。

その後、森元総理への力の源泉についての分析が始まる。答えはすぐに出てきた。田原総一郎氏へのインタビューを交えつつ「面倒見の良さ」が力の源泉なのであろうと分析していた。田原総一郎氏曰く「面倒見の良さ」とは金払いの良さであり、誰にいくら渡したのか決して言わないからこそ力を保っていられるのであろうと分析していた。

なんだ人間関係か……と脱力した。

田中角栄元総理大臣という補助線をひくと議論がわかりやすくなる。田中角栄総理大臣は池田総理が作った所得倍増計画の流れを地方に引き込んだ。当然そこに土建利権(国土開発利権)が生まれる。それを政治に引き込むために田中角栄氏は派閥を整備した。石破茂氏が「総合病院のようだ」と言っていたシステムである。森元総理はシステム化されていたものを再びブラックボックスに戻してしまったことになる。このため多くの人が森喜朗氏を頼るようになったのだ。

ただしプログラムでこうした構造論が語られることはなく「非公式の人脈」だけが延々と語られていた。森元総理は面倒見がいい。その面倒見の良さは子分たちに対するお金配りによって具現化されている。そんな具合の話が延々と続く。

誰にいくら配ったのかを言わないことで子分たちは恩を感じ続けるわけなのだから森元総理がそれを岸田総理に内容を開陳することなどあり得ないということになる。つまりかつて田中角栄氏がシステム化・組織化したものを個人が飲み込むことで力を維持しており岸田総理もそれを打倒できなかったということになる。

二階元幹事長については語られていなかったが二階氏も自分には政治責任があるとしながら「誰にいくら配ったのか」については頑なに口を閉ざし続けていた。二階氏も田中角栄元総理大臣を尊敬していると公言しており、岸田総理は二階氏にも勝てなかった。また派閥を解消すると決意した時には麻生太郎副総裁に反発されてすぐに萎れてしまっている。

岸田総理には何回もチャンスがあった。だが彼は気が弱すぎる。いわば臆病なライオンなのだ。

田中角栄時代には派閥本部がお金の流れをコントロールしていた。つまり田中角栄氏は組織的にやっていたがマネジメントは自分でやろうとした。だが森元総理は関係は自分で握り続けお金の流れだけを自動化しようとしたことになる。つまり森元総理を含め誰にもどこにどれだけお金が流れているのかがわからなくなってしまった。

派閥に所属する議員に「パーティー」という利権を与える。ここでお互いに競わせて「余った分は自分のお金にしていいよ」と言っている。

では、田中角栄と森喜朗の間には何があったのか。報道1930はこれも語ってはいなかったが、そこにあったのはリクルート事件だろう。

田中角栄時代の利権は土建利権だった。つまり目に見える「開発」が利権になっていた。ところがリクルート事件で使われたのは新規発行の株券である。つまり将来期待というバーチャルな通貨が使われた。自民党はこのバーチャル化しつつあった経済からの利益還流に対応できなかったことになる。訳がわからないから派閥に対する資金提供を禁止してそれを「パーティーによる支援」に置き換えていった。

出演者たちはこうした動きは1998年ごろに始まったとしているが森元総理がこれを発想したと決めつけるようなことはしていない。誰か別の人が考えたものを森氏がコピーした可能性があるとみているようだ。なぜそのような見立てになるのか。

出演者たちは森氏に対して「国家観はないが人間関係の把握には優れている」と評価している。つまり森氏をシステム的な人間とはみていない。田崎史郎氏は「まるで永田村の村長のような人」と言っている。だからこそ森氏が発想したシステムは誰も管理できないまま広がり自民党全体を蝕むことになった。

ここから導き出される結論は何かを考えたのだが、前提になる「そもそも政治はどうあるべきなのか」を導入しないと答えが出てこないのだろうと感じた。

番組の識者の感想をもとに仮組みでフレームを作ると政治には3つの軸がある。

  • 政策・概念・国家観・理念軸
  • それを動かす永田町人間関係軸
  • 企業や有権者といった支援者の軸

明らかに森氏は永田町の中の人間関係という軸に力点を置いた政治家である。国家観がないうえに度重なる失言で国民を怒らせている。また、支援者との間の関係構築にもあまり興味はない。

日本の政治がうまく運営されているのであれば特に「政策や理念」は必要がない。今のまま行けばいいからである。また国民に対して訴えかける必要もない。無党派層は寝ていてくれればいい。

だが仮に状況が行き詰まっている場合は国民に対して変革の必要性を訴えなければならない。そのためにはまとまった理念が必要となるだろう。

そのためにはまず現在のような人間関係に依存する「村長政治」から脱却しなければならない。今ある政治を脱却するためにはそもそもなぜこのような状態になったのかを探る必要があるわけでそのためには森元総理への聴取が必要と結論づけることができる。

結局のところ岸田総理の問題は「人間関係依存の政治」の次のビジョンがない点なのだろう。が国民が政策ベースの政治を要求するためにはそもそも有権者が「今までとは違うアプローチが政治には必要なのだ」と気がつく必要がある。

では実際に有権者は政策ベースの政治を志向するようになるだろうか、おそらくそうはならないと思う。むしろ第三の軸となる「有権者軸」に先に火がつくのではないか。アメリカがそうなっている。

アメリカの政治は現在ポピュリズムが主流化している。国民に分かりやすい語り口で政治を語るトランプ氏のような人が台頭し穏健な共和党も民主党もそれに引っ張られてポピュリズム化している。共和党の大口の支援者たちはヘイリー氏を支援していたが個人献金ではトランプ氏に凌駕されていた。つまりアメリカの大口献金者たちは一般市民に資金面で負けてしまったのだ。その結果、選挙結果を受け入れず、議会破壊を先導し、訴訟にまみれた人が次の大統領になるのではないかと言われている。

もう一つの可能性は膠着したまま破綻するというシナリオだ。

最後の元老と言われた西園寺公望が亡くなると政党政治が破綻し大政翼賛会に向けて突き進んでゆく。経済不調を政治的に解決できないまま劇場型政治が発展した時代だ。国民は軍隊に期待するようになり軍隊は実際に大陸進出という成果を出している。だがその成果は決して持続可能ではなかった。勝ち馬に乗りたい政治家たちは次々と軍隊を翼賛する側に周り結果的に誰も責任を取らない第二次世界大戦に巻き込まれてゆくことになる。

個人的な人間関係で政治を安定させているという意味では森、麻生、二階氏は「最後の元老」のようなものだ。岸田総理はこうした人たちが持っていた機能を失いつつあるが、ポスト長老のような体制の構築には失敗している。

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