日経新聞に「「パートナー」ならいじめないか 下請法に名称変更論」という記事が出ている。無料では冒頭部分しか読めないが下請法という言葉そのものがいじめの温床になりかねないので名前を変えればいいのではないかという議論だろう。甘すぎると感じる。
しかし、この問題を深掘りしてゆくと結局は根本解決のためには生産性を向上させる必要があるという結論になってしまう。
日本は経済も政治もそれを実現できていない。これが「部屋の中の大きな像」になっている。誰も解決策を見出せないため見なかったことにしているのだ。
日経新聞の記事がきっかけとして挙げているのが日産自動車の下請けいじめだ。
コストカットを掲げる日産側が下請けに組織的に値引きを迫っていた。契約後の値引きは法律違反である可能性が高い。
ロイター通信によると2年間で36社に対して30億円超の減額を要求していたという。
さらにテレビ東京の取材によれば下請け側は「減額を断れば切られる可能性がある」と認識していた。つまり地位を利用した不当な商取引である可能性も浮上する。
日産自動車の言い訳が自民党の言い訳に似ているという点も気になる。世代的に何か共通するメンタリティがあるのかもしれない。
組織的な問題であったにもかかわらず「社員教育が行き届いていなかった」と釈明している。また、カルロス・ゴーン氏が社長になる前から行われており「誰が始めたかわからない」とも説明する。
少なくとも今の社長や経営者が指示をしたのではないと主張しているのであろう。自分達は受け継いだだけであり責任はないと言っている。つまり変えなかったことは問題がないという認識なのである。
残念ながら企業側は問題を総括するつもりなどないわけで、今後も同じような系列関係が続くのであれば下請けを「パートナー」に変えたとしても価格転嫁が進むはずなどないと予想できる。
ゆえに政府の提案は甘すぎるというのが結論となる。
ではそもそもなぜ今になってこのような下請けいじめが問題視されることになったのか。おそらく政府の「デフレ脱却宣言」が影響している。
公正取引委員会は下請けの価格転嫁要請を断った10社の名前を挙げた。長年、下請け会社が「コストを飲む」という手法は政府が介入しなければならないほど悪化している。
しかし取引の自由を阻害するわけにもいかないため、政府は村中に名前を晒して企業に恥をかかせることしかできない。仮に政府の規制が強くなればこれを巧妙に隠す手法が蔓延するのかもしれない。
経済の好循環を作るために政府が介入するのはいいことなのではないかとも思えるがまた別の問題が出てくる。それがスタグフレーション問題だ。
一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏が「今はスタグフレーションであり春闘がこれを悪化させる可能性がある」と言っている。
野口名誉教授は長年アベノミクスはスタグフレーションを起こすだろうと予想してきた。だが、スタグフレーションは起きなかった。今回も単に自説に固執しているだけではないか?と疑って考察を進める。
そもそもスタグフレーションとは何か。それはインフレ下での不況のことだ。つまりインフレが起きないとスタグフレーションは起きない。
1970年代のアメリカの実例を調べると金融緩和政策と供給の問題ということがわかっている。ここでは供給問題を生産性に置き換えて議論する。
例えば戦争で弾薬がたくさん必要になるなど「急に増えた需要」に応えても供給問題は解決する可能性がある。だが、成熟した工業国では付加価値が高いものを作って市場に売り込まないと供給網の効率を改善することができない。少子高齢化が進んでいるため市場は海外になる可能性が高いだろう。
日銀はマイナス金利政策を転換するが利上げ幅はそれほど大きくないだろう。市場はそう予測する。実質的に今後も金融緩和策が続く可能性が高いので残りの要素は企業の生産性向上になる。
野口名誉教授は「企業の生産性=付加価値創出能力」が上がらないのに官製賃上げを行うと単に賃金インフレが加速するだけだろうと言っている。つまり、下請けいじめをやめさせて価格転嫁をしても国内企業が付加価値の高い製品を作れなければ「品質はそこそこでコストだけが高い」というよくない産業構造が生まれてしまうのだ。
さらにスタグフレーションが起きなかった理由も説明できる。これまでは賃金抑制と下請けに対する圧力がありインフレそのものが起きていなかった。つまり岸田総理は今回「官製スタグフレーション」を引き起こしたといえるだろう。
この問題はやはり「誰もが存在に気がついているものの誰も言い出さない巨大な像」のところに帰着した。生産性を上げない限りは価格転嫁問題は解決しないだろう。
一歩進んで何が生産性の向上を妨げているのかも考えてみたい。
大きな企業には歩きながらも眠っているような50才代、60才代の人たちが大勢いるはずだ。彼らに対して「生産性を上げるためにリスクを取るべきだ」と提案してもそもそもリスクを取る職業人生を歩んできていないのだから何をやっていいかわからない。
加えて生き残った人たちにはそれほどの危機感はないだろう。結果的に「彼らがいなくならないと問題は解決しないだろうなあ」という点に行き着いてしまう。
成田悠輔氏は「老害は集団自決すべき」と発言し大炎上した。もちろんこんな乱暴なことは言ってはいけないわけだが、やはりもはや意識が変わる望みがなくなった人たちをどうするのか、あるいはその人たちと運命を共にする道を甘んじて受ける選択をするのかという問題はどうしても避けて通れない。
人を抹殺しろという発言は道義的に問題が大きい。だが古くなった企業を計画的に破綻させるのは特に犯罪ではない。むしろその国の経済が活気を維持するためには必要なことと思われる。
その意味ではアベノミクスなど安倍政権の経済運営は企業に甘すぎたと言えるのかもしれない。
ただし自民党は大きな会社に支えられた政党であり彼らの利益を代表するのは当然のことである。結局、この状況を変えて企業に危機感を持たせるためには政治的な大きな変化が必要なのだろうというのが今回の結論になる。
なお1970年代に悪性のインフレに苦しんだアメリカは10年の間この問題を克服できなかった。結果的にかなり乱暴な金融引き締めを行い2回の景気後退局面を経験したあとで1980年ごろに状況を画安定した。
この出来事を当時のFRB議長の名前をとってボルカーショックと言っている。だがボルカーショックが肯定されたのは10年にも続く悪性インフレに人々がうんざりしていたからである。日本人はうんざりするのに失われた30年に加えてあとどれくらいの時間が必要なのか。答えはないが興味深い課題だと感じる。
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