日本の社会保障に関する議論が崩壊した。おそらく、今回の総選挙は国民にとってかなり厳しいものになるだろう。本来的にはパイを増やすことによってしか解決できないが与野党共にこの議論を避け続けている。縮小均衡では負担の増加が不可避だ。この負担を誰に押し付けるのかというのが現在の国内政治の議論の実態である。だから支持政党なしが増えるのである。
日本経済は好調な一部経済と不調な二部経済に分化している。だが、これに気が付かついていない人も多いようだ。ある人に「今の日本は植民地のようだ」と書いたところ話がうまく通じなかった。経済に詳しい人でも意外と気がついていないということがわかり興味深かった。
建築エコノミストの森山高至さんが観光地での二重価格について触れ「まるで発展途上国のようだ」と書いていた。これは当然の話である。日本経済は好調な一部経済(メジャーリーグ)とそれに乗り遅れた二部経済(マイナーリーグ)に分化している。森山さんが今回たまたま挙げたのは「二部経済」に関する議論だ。
この分極化は好調な企業が海外に逃避したのが原因と考えられている。だが森山さんは「国全体」の経済統計を出したうえで「そんなことはない」という含みを持たせていた。おそらく「日本という国の経済は一つしかない」という考え方が国民に広く浸透しているのであろうと感じた。
普段ブログを書いていても「ここがわからない」というコメントをもらうことはない。人はこういうところで詰まるのかということが理解できたのは非常にありがたかった。確かに二部経済だけを抜き出した統計などない。あるのは株価が上がっているのに生活実感が向上しないという「実感」だけである。
確かに日本は国全体で言えば成熟債権国であり20兆円もの黒字を出している。しかしながらキャッシュフローで見るとむしろ資産が流出しているのではないかと疑う人もいる。これまでの蓄積が実り働かなくても暮らして行ける国のはずだが資金は海外からの収入で成り立っており海外に投資されるだけで日本国内には環流しない。国内にはここから切り離された経済が成立している。これが「賃金が上がらず物価高に苦しむだけの二部経済」である。二部経済では収奪合戦が起きるため労働者の働きが生産成功向上につながることはない。だから人々は働いても働いても充足感が得られない。日本はかろうじてテクニカルリセッションを回避したが豊富な経営資源を持ちながら成長できない。本来のポテンシャルよりも均衡点がずっと低く「ケインズ経済的には失敗した状態」といえる。
戦後復興期を終えて高度経済成長期に向かう時には政治が「アメリカ経済と国内経済を結びつける流れ」を作った。つまり今回も成熟債権国の恩恵を国内経済に結びつけることができれば良いということになるだろう。だが政治はそれをやっていない。
そればかりか縮小しつつある経済状況を前提にした負担の押し付け合いが始まろうとしている。これについては玉木雄一郎国民民主党代表の説明がこなれてきた。政府は実質負担を増やさないと言っている。だがこれは「嘘」である。
現在の負担1,000円が何もしなければ高齢化に伴う自然増で1,300円になるものを、「原則3割負担」等で1,200円に抑制できるイメージ。だから「改革すると言ったのに200円も負担増えた!嘘つき!」と批判されがち。
しかしながら玉木雄一郎氏は政府を批判しているのではない。岸田自民党と玉木国民民主党はどちらも大企業を背景にしている。岸田総理は「負担に対する説明を誤魔化して突破しようとしている」が玉木代表はこれを堂々と説明すべきだと言っている。
日本の経済界は「負担議論から逃げるな(ただし自分達企業は負担しない)」という方針で、これが日経新聞の社説に反映している。日経新聞は企業経営者や大企業の管理職の人たちが読んでいる新聞である。
まず最初の記事は3月6日に書かれたものだ。これは玉木雄一郎解説と合致する。つまり国民負担は増えると断定している。日経新聞も「岸田総理は嘘つきだ」などと政権批判はしない。むしろ、本来の趣旨に従って淡々と負担増の議論をせよと言っている。こんな一節がある。玉木雄一郎代表の説明と整合する。
首相発言の趣旨は、歳出改革と賃上げで実質的な社会保険負担軽減の効果を生じさせ、その範囲内で支援金制度を構築するので国民負担はない、ということのようだ。
社説も読んでみた。こちらは全文が読める。日経新聞は聖域なき改革を行い負担増の議論をしろと言っているのだが海外で好調な収益を上げている法人が応分の負担をするべきだとは絶対に書かない。むしろ企業の賃上げに期待するとは何事かと言っている。つまり国民は企業に迷惑をかけずしっかり負担の議論をするべきで、それから逃げるのは亡国的であると断罪する。
また企業が負担をする健康保険を財源にすることにも反対のようだ。企業の福利厚生をできるだけ国の医療・福祉制度に移管したいというのが日本の経済界の基本的な考え方であり、玉木氏の発言もそれに則したものになっている。
同じ姿勢を共有しているとみられる岸田総理の作戦は「ごまかすこと」だ。
読売新聞が「子育て支援金「負担ゼロ」に理解広がらず、政府が腐心…野党「説明小出し」と反発」という記事を書いている。
支援金制度の創設を盛り込んだ「子ども・子育て支援法などの改正案」は月内に衆院で審議入りする見通しだ。岸田首相は国会の質疑で野党議員の要求を受け、審議入り前に具体的な制度設計を示す考えを示したが、全容は明らかになっていない。
現在国会では子供子育て支援制度について議論が進んでいる。だが岸田総理は当初の約束を果たさず制度設計の詳細を明らかにしていない。政府高官は4月28日投開票の衆院3補欠選挙が控えていることを踏まえ「国民は負担増の議論に敏感だ。今後も細心の注意を払って説明しなければならない」と警戒する。つまり選挙を前にして負担の議論はできないと言っている。
今回維新が出してきた医療制度改革も実はその延長にある。経済二部リーグを現役世代と高齢者に分けた上で「俺たちが生き延びるためには高齢者に犠牲になってもらわないと困る」というのが維新案である。玉木雄一郎氏は「おそらく負担は減らないであろう(なぜならば自然像があるから)」と言っている。このため音喜多駿氏は「これからみんなで考えましょう」として具体設計からは逃げている。
政府は負担増の議論に対して「架空財源」を持ち出すことで「負担は増えない」と虚偽の説明をしている。これまでならば朝日新聞・東京新聞・毎日新聞などが政府批判の文脈で反対していただろうが、今や読売新聞や日経新聞までもが「政府の説明は虚偽である」と言っている。リベラル系メディアは「国民を騙して負担を増やそうとしている」と反対しているのだが、エスタブリッシュメント系のメディアはこの国の社会システムを存続させるためには(企業ではなく)国民が負担をしなければならず、岸田総理は説明と説得を怠っていると主張する。そして新しく登場した維新は「高齢者が犠牲になればいいのだ」と言っている。
これが縮小均衡を前提にした議論である。縮小均衡とは経済のポテンシャルよりも非効率な均衡のことである。この非効率均衡状態が長く続けば日本経済は縮小する。少子高齢化は政治が経済均衡を効率化できなかった結果生まれた均衡と言えるだろう。
ではなぜ日本の政治は均衡の調整ができなくなってしまったのか。
高度経済成長の始まりとなった所得倍増計画は「大蔵省」という共通言語を持った人たちの間で着想された。対する岸信介・福田赳夫も官僚出身であり経済理論の違いこそあれ基礎言語は理解できていたものと思われる。彼らの議論の対象は戦後復興・朝鮮戦争の後の日本経済をどのように大きくしてゆくかというものだった。現在の自民党にはこうした基本的な言語が伝承できておらず従って政策論争ができない。
玉木雄一郎氏は大蔵省の出身なのでこうした言語で会話ができる。だが極めて残念なことに自民党に彼の言葉を理解できる人がいない。実際にはいるのだろうが意思決定のレイヤーには登ってくることができない。
公明党は「秋の総裁選を終えてから総選挙をやってほしい=つまり岸田総理でない人のもとで今年中に選挙をやりたい」と言っているが、基本的な構造が変わらない以上は、誰が総裁になっても遅かれ早かれこの問題に直面する。これは今年年末に財源議論をやり直す防衛財源についても同じことが言える。
日本の政治議論は財源議論においてすでに破綻したと言って良いが、それでも議論を止めることができる人は誰もいない。