BBCが「ロシアで増える密告……同僚でも他人でも 国のためか怨恨か」という記事を書いている。ロシアでは密告者が増えているそうだがそのうちのひとりに取材をしている。
アンナ・コロブコワを名乗るこの女性は正体を明かすことを恐れている。だが他人の秘密を暴くことは大好きで、すでに1397通の通報文を書いたという。
密告はソ連や東ドイツではよくみられた習慣だ。このため記事を読むとまずロシアがソ連時代に逆戻りしているというような印象を持つ。だがよく読んでみるとSNSや週刊誌による「密告」が増えている日本にも参考になる何かが見つかるかもしれないと思う。状況が割と似ている。
松本人志氏の裁判が始まる。これまで権利意識を持たなかった女性がMeToo運動やジャニーズの性加害事件をきっかけにしてやっと訴えを起こせるようになったという人権の問題が注目されていた。だが、報道が進むにつれてこれとは独立した別の問題が出てきた。芸能人の間に危機感が募っていて「何を言ってもSNSで非難される」という訴えが多く聞かれる。人権の問題とは別の閉塞感がSNSに漂っていることがわかる。
人々の動機は「道徳心」なのだが、なぜかそれが一部の人々を怯えさせている。この問題は常に松本人志さん個人も問題と「芸人たちの問題」が癒着した状態で語られる。二つは分離できないため芸人たちはほとぼりが冷めるまでこの問題について触れてはならないということになってしまう。
アンナ・コロブコワさんはロシアのある大都市に住んでいる。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻してから新しい検閲制度が導入された。市民の通報を受け付けるようになったという。コロブコワさんはそれ以来隙を見つけてはオンラインで過ごしており通報活動に勤しんでいる。
コロブコワさんは他人を告発することに快感を覚えているが自分の顔は絶対に見せたくないという。このためBBCへの取材はメールで行われた。
BBCはコロブコワさんに「なぜ密告をするのか?」と聞いた。コロブコワさんは「ロシアがウクライナに勝つための助けになっている」と答えた。さらに「それは回り回って自分の経済的利益にもつながるだろう」という。ロシアが負ければロシアは多額の賠償金を請求されることになりそれを心配しているのだという。一見もっともらしい説明だ。
だが、おそらくこれは順番が逆なのではないかと思う。コロブコワさんは現在人文系の教授としてパートタイムで働いている。一人暮らしで貯金を切り崩しながらやりくりをしているそうだ。つまり経済的に困窮しているのだろう。さらにパートであることから「頑張って収入を増やす」という自由度もなさそうだ。つまり自分の将来に対する不安がある。
「特別軍事作戦に反対する全員が、私の安全と生活にとって、敵です」。こう言うコロブコワさんにとって、ウクライナの勝利は自分の敗北を意味する。「貯金がなくなって、フルタイムの仕事を見つけなくてはならなくなる」
順番は次のようになっている。
- 経済的な不安があるが、自分でそこから脱出できる自由度がない。
- 「変化」によって経済的な危機感を予想する。
- それを解消する手段として「密告」という制度が作られている。
- コロブコワさんはそれに参加するが、その動機を説明するために「道徳」が用いられる。
人々が行動を説明するために道徳を用いることはよくあることだ。道徳や正義とは合理的に説明できない行動を正当化するための道具である。つまり、正義や道徳があるから行動が起こるわけではなく行動を起こしたあとで正義や道徳が必要となるのだろう。
プーチン大統領はおそらく人々の危機感をうまく煽り統治に役立てている。
人々が危機感を感じなおかつその危機感から自分で脱出できないと感じると「正義や道徳」が語られることになるということがわかる。道徳や倫理がより多く語られる社会というのはそれだけ不安で不自由な社会と言えるのかもしれない。
我々は外からこの問題を観察しているためコロブコワさんの行動が「非合理的」であると感じる。コロブコワさんが密告に勤しめば勤しむほどロシアは戦争から抜けられなくなる。多くの兵士がプーチン大統領の統治を守るため犠牲になる。改革を求めていた人たちは職を失い中には海外に逃亡する人もいる。あえて内部に止まると最終的にはナワリヌイ氏のように殺される。
つまり密告者たちはどんどん自分自身を閉塞感の中に追い込んでゆくがなかなかそのことに気がつかない。
こんなことは持続可能なはずがないと思えるのだが、意外と最終的に破綻するまでうまく機能することがある。プーチン氏は東ドイツで生活していた時期があるのだがシュタージが発行した身分証を持っていたそうだ。プーチン大統領がロシアでこうした制度を復活させたとしても特に不思議ではない。プーチン大統領はどうすれば密告が機能するのかをよく知っているのだ。
シュタージは膨大な資料を残しており、今でも公文書館に資料として残っている。文書は誰でも読むことができ「私はこんなに監視されていたのか」と戦慄する人もいるという。
もちろん国家がそれを強制したという側面はあるものの、群れで生きるヒトという動物の本能の一つとして自分の危機を避けるために他人を監視し合うという機能があることがわかる。不自由度が増せば増すほどその機能は研ぎ澄まされ社会的に制度化され持続することがあるのだ。国家は強制しない。単に誘導し奨励するのである。すると人々は自発的にそれに従ってしまう。
日本においてTwitterは災害時の自助作用の一環として認知されたという経緯がある。それまでLINEのような親密な人同士のコミュニケーションツールはあったがその他大勢とうっすらと繋がりたいというニーズはなかった。危機を避けるために常にアンテナを張って情報を集めるというのもヒトが生きるために身につけた本能である。だが、閉塞感が高まると今度は本能が暴走しお互いがお互いを監視し合うようになる。これも半ば本能的な機能でありそれに抗うのはなかなか難しい。