左翼勢力によると次回の参議院選挙は立憲対非立憲の対立なのだという。しかし、よく考えてみるとそもそも日本人は立憲主義を支持しないのではないだろうか。
そもそも、立憲政治とは「国民が政治の流れを決める」という制度だ。それは、君主や宗主国に頼らずに自活するということを意味している。日本の場合「アメリカ軍に頼らずに自衛する」ということでもある。しかし、どれくらい多くの日本人が自分たちで話し合って自分の国を守りたいと考えているだろうか。できれば「アメリカ軍か職業(非)軍人から成り立つ自衛隊に国を守ってもらいたい」と考えている人が大多数だろう。
日本が立憲主義を取り入れたのは「それがかっこ良かった」からだ。日本は明治維新以降「近代国家っぽく見える」制度をいくつも取り入れた。立憲政治は、背広を着たり、髪の毛を短く刈ったり、夜に社交ダンスを踊るのと同じレベルにある。
立憲主義を取り入れたものの、国民は主権を持たなかった。成立期には議会もなく「国民を政治に参加させるべきだ」という意志もなかった。議会ができたあとも、2つある議会の半分は貴族が占めていた。議会は軍隊をコントロールできず、「軍隊が膠着した状況を打開してくれる」と淡い希望を抱いて議論そのものをやめた。
戦後、形の上では立憲主義が貫かれたが、自民党政権は70年かけてもその意味を理解できなかったようだ。新しく作られた憲法草案には国民を縛る項目がいくつも作られた。現行でも国民説得は単なる儀式に過ぎないが、それですら面倒だと考えているようだ。だから「何かあったときには、手続きが面倒なので議会を無効化させてくれ」と提案している。
災害時の非常事大権は危険だ。たまたま「民主党のような」政治のアマチュアが政府を構成していたらどうするつもりなのだろうか。その政権が永続して、国が大混乱することは目に見えている。試しに菅直人政権が5年続いたらどうなっていたのかを考えてみればいい。
自民党政権の憲法案には矛盾がある。彼らは自分たちの権威が「天賦のもの」と考えており、国民を支配できる正当な権利があると考えている。その意識が表れた憲法案は、憲法というよりも幕府が発布した「御法度」に近い。
ところがその権威は国民に由来する。もし自民党が軍事的な政権(もしくは軍事的に日本を占領したアメリカからのアポイントメント)だったのであれば、彼らはためらいなく「自分主権」を唱え「御法度」を導入することができる。自民党の憲法改正案が成就すると、自民党はこの矛盾と対峙することになるだろう。
自民党政権はいくつかの自己矛盾を抱えている。アメリカが成立させた政権であるにも関わらず、脱アメリカで自主憲法を作るべきだと主張している。しかしながらアメリカ軍の庇護の元から離れるつもりはなさそうだ。そして、その権威は少なくとも形式的には国民から与えられているにも関わらず、国民の権威を否定しようとしている。
この矛盾を隠蔽するために、自民党政権は「自分たちの権威は天皇から与えられている」と偽装している。しかし、天皇に発言力を与えることにもためらいがあるようだ。そこで一部には「日本の歴史そのものに主権がある」という「論理」を作り出してしまうのだ。確かに「歴史」は自民党政権に口出しすることはないだろう。
さらに、国民が自分たちの与えられた権利を手放すはずはない。民主主義は既得権だからだ。そこで「災害時のように国民が感情的になれば、権利を委譲してくれるはずだ」などと言い出すのである。貧しい老人に3万円払えば既得権を譲ってもらえるかもしれない、とまで考えている。
さて、では自民党に代わって現在の野党連合が政権を取るべきなのだろうか。彼らは「立憲主義」を徹底させるべきだと訴えている。これは「国民主権」を徹底させるべきなのだと考えているようだ。これはこれで立派な態度だと言えるだろう。しかし、問題もある。
この問題を突き詰めて行くと「自分たちの財産や国を自分たちで守る」という結論に達する。それは最終的にアメリカの軍隊と決別するということだ。野党連合は(それが政治家であったとしても、市民であったとしても)この大きな変化を国民に説得しなければならない。が、多分彼らはそこまで考えていないし、隣人を説得するつもりもないだろう。
唯一「自主独立」を唱えているのは共産党だ。それはそれで立派なことだが、彼らのもともとの目的はソ連の庇護の元に入る(あるいは台頭な立場で同盟を結ぶ)ことだったのだろう。だが、ソ連はいまや存在しない。
そもそも立憲主義が根付いているとは言いがたい上に、「自分たちのことは自分たちで決める」という民主主義の原則すら守られていない状態にある。政府をことさらに攻撃する前に、隣にいる政治に興味のなさそうな人たちと対話することから始めたほうが良いのではないだろうか。