ジャーナリストの江川紹子さんが「カルトは社会問題につけこんでいるだけ」と呟いている。発言の前後関係は不明だ。これを読んで社会問題とカルトは関係がないのではないかと思った。そもそも問題が心のどこにあるのかを考える必要がある。
カルトと言わないまでも新興宗教にのめり込む人は一定数存在する。そうした人たちが社会から手を差し伸べられたからといって寂しさから脱却できるかと言えば、問題はそれほど単純ではないのではないか。
「寂しい」人のなかには自分で問題を作り出している人がいる。気分と<事実>を整合させるのだ。
極端な話をすれば「明日は寒くて天気が荒れる」というニュースを聞いただけでも引きつけられる。そこで「寒いのは嫌だ」というのである。逆に「うららかな陽気です」というニュースには興味がない。もちろん、世の中にある悲惨なニュースも大好きだ。テレビのニュースばかりでなく誰かの「ちょっとくしゃみをした」にも興味を抱く。風邪ではないのかと心配になるのだ。
いつも暗い顔をしているので、回りの人たちは距離を置く。そこで疎外されていると感じることになるのだが、これは被害妄想というわけではない。実際に回りは「あの人と一緒にいると気持ちが落ち込む」と感じるのだ。
いっけん親身になってくれそうなので相談を持ちかける人もいる。ところが、なぜか問題にはあまり興味がない。それどころか、なぜ問題の背景にも興味がないし、理解もできない。そこで相談を持ちかけた人は「あ、この人は何かおかしい」と思い始める。その結果、回りからは人が減って行く。
そうした人たちがお互いに引きつけられる現場はいくつかある。例えば社会問題を研究する集まりに行くとこうした「疎外された人」を見つけることができる。また、新興宗教もこうした人たちを引きつける。世の中は問題で満ちあふれていて、救済が必要だからである。
新興宗教の側もよく分かっている。カルト宗教の悪いところは持続可能性がないところだ。財産をすべて奪ってしまうとそれ以上収奪できなくなる。だから、新興宗教は生活が破綻しない程度にこうした人たちの不安につけ込み、少しづつお金を取る。「不安がなくならないのは修行が足りないからだ」と言われると、寂しい人たちは落ち着く。言いようのない感情に理由が見つかるからだ。しかし、修行を積んでも不安が消え去ることはない。不安はその人の根源からわき出しているのだから。
不安は人を蝕み、その人を孤立させる。だからといってその人に手を差し伸べたとしても不安は解決しない。明日のお天気からでも、人は不安を見つけ出すことができる。人は意外な程、無意識に支配されている。
なぜ、人が不安を感じるのかはよく分からないが「共感力」が鍵を握っているのではないかと思う。私達はちょっとした言葉のやり取りからも「つながっている」という感情を得る事ができる。これは相手が持っている感情を自分のものとして感じるという、かなり高度な能力だ。
ところが「寂しい」人はこうした共感が得にくいのではないかと思う。相手のちょっとした仕草や言葉からシグナルを受け取ることができないのだ。そこで社会から孤立しているという感情を持つ。そうした人にとって感情を大きく揺らす悲しい出来事は相手と共有ができる数少ない機会なのだろう。
冗談めかして「コミュ障」という言葉が使われる。これは言葉足らずの人を揶揄する言葉だ。しかし「本当のコミュ障」とはそんな生易しいものではないし、本人が自覚できるものではない。日本は表情を読み合う文化なので「空気を読めない」ことが生み出す疎外感は想像が難しいのではないだろうか。
コミュニケーションに難しさがあるからといって「精神病」という程の問題が出る訳ではない。特に日本人には精神科にかかる事に抵抗があるので、本物の「コミュ障」は表に出にくいかもしれない。精神科の医師は5分程診療して適当な投薬をするだけだ。薬で直せそうにないちょっとした問題に時間をかけても儲からない。だから「単に寂しいだけの人々」が救われる道はなさそうだ。
こうした分析を読んでも「じゃあ、どうすればいいのだ」といらだちを募らせる人がほとんどなのではないかと思う。「単純な解決策はない」ということだけは確かだ。現実的な解決策は、破綻が目に見えているカルトではなく「破綻の少ない解決策」に移ってもらうことくらいかもしれない。
「寂しい人たち」を見分けるのは簡単だ。その人が抱える問題について話をしてみると「問題そのものには興味がないのではないか」と思える時がある。であれば、その問題の解決策を提示しても無駄だ。問題を作り出しているのは本人だからだ。
心持ちが問題を作り出す。故に問題を克服しようと思えばその人の内面を見つめるしかない。つまり、問題を解決してくれるのも宗教なのである。ところが皮肉な事に、この宗教がなかなか頼りにはならない。仏教は「葬式仏教化」しているうえに、生き残りに必死だ。神道はといえば、心の救済よりも憲法の改正に夢中のようである。