前回のエントリーで、新しい自民党の憲法案のもとでは「戦争に行きたくない」という思想が犯罪になってしまうかもしれない可能性について考えた。自民党の憲法案では表現の自由が制限される上に内乱鎮圧の規定まであるのだ。
政府が言論弾圧の可能性を残すのであれば、対抗策として国民にも「イヤなことには従わない」権利があってもよいのではないかと考えた。単なるわがままなのかなと思ったのだが、実際に「抵抗権」という権利があるそうだ。ジョン・ロックが唱えた人民の権利なのだという。改憲案で内乱を想定するのであれば、対抗策として抵抗権も明記すべきだろう。
今、ツイッター上でこの「抵抗権」が密かに流行している。「安倍政権に反対するのは人民の権利である。今こそ、抵抗権を行使する時だ」というような具合だ。
なんとなく正しいようにも思えるが、いろいろと考えるところもある。ドイツの基本法には抵抗権の記述があるが「他に手段がない場合」に発動する権利だと考えられている。アメリカにも抵抗権の記述があるが、それは「武器を持って政府と戦う権利」のことだ。
今回、人々が訴えているのは「戦争に行きたくない」ということだ。国民が抵抗を強めて行くと、それは自ずからが武力を持って政府を転覆させるというところに行き着く。「戦わないために戦う」のは大いに矛盾している。
個別の問題でいちいち革命を起こしていては、命がいくつあっても足りない。その為に選挙や政権交代がある。少なくとも現行憲法下では言論の自由が保障されているのだから「他に手段がない」とは言えない。
にも関わらず、デモの参加者は「政党と手を組んで自分たちの代表者を国会に送り込もう」とは考えないようだ。共産党は別に犯罪組織ではないが、関係を指摘されると否定していた。民主党は「政権維持に失敗した」という印象が拭えないのか、期待感はない。安倍政権を打倒するのは構わないのだが、そのあとどうするのだろう。
どうやら、デモの裏にある深刻な問題は「安倍政権が戦争をしたがっている」ことではないようだ。国民が議会制民主主義に期待をしていないのが問題なのだ。2014年の投票率は約50%だった。棄権した有権者数は4900万人に昇る。
こんな中、自民党が「民主主義を擁護する」政党であれば、こうしたデモを「単に過剰反応だ」と笑い飛ばしてしまうことも可能だっただろう。しかし、憲法改正案を見ると、民主主義に疲れ果ててしまった姿が浮かぶ。自民党は、民意というものが信用できず、基本的人権に制限を加え、ついには内乱の規定まで盛り込んでしまったのだ。
戦後70年、確かにいろいろなことがあった。しかし、冷静に考えてみると民主主義に根本的な疑問を生じさせるような大きな出来事は何も起きていない。失われた20年というような経済的な不振はあったにせよ、国民の多くが飢えるような事態にも陥ってはいない。
いったい、どうして政党も国民もこんなに民主主義に疲れてしまったのか、その理由がさっぱり分からない。
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