自民党の新しい憲法案にはいくつかの特徴がある。その中の一つが基本的人権の制限だ。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」(改正案十二条)として、公益及び公の秩序による制限をかけている。
西洋の民主主義国家は、人間は生まれながらに神(天)から与えられた人権を持つと考えてきた。これは誰も侵す事ができない権利である。これを天賦人権論と呼ぶ。この考え方は今でも多くの民主主義国家で支持されてており、日本の現行憲法も天賦人権論に依拠している。
片山さつき議員は、天賦人権論があると日本国民は「権利ばかりを主張し義務を省みない」から自民党はこれを否定したと主張して、ネット上で非難を浴びた。つまり日本国民はわがままだというのである。
一方、西田昌司議員の説明はもう少し「理論的」だ。
西田議員は、日本の独自性を説明するのに「国体」という概念を用いる。日本の歴史的継続性を概念化し、これが「私」や「国民」に優先すると考えている。このようにしないと日本に住んでいる外国人やその子孫に対しても人権が認められてしまうので、日本人が日本を支配する正統性が得られないと信じているようだ。
国体論は科学的に見れば「ユニークな」考え方だろう。日本人の祖先は複数のルートで日本列島以外からやってきた。つまり、我々は全て移民の子孫だ。突き詰めると、多くの国民には「人権」がないことになる。天皇家は高天原から光臨した神の子孫であり、もともと土着ではない。だから、天皇家には「日本人の権利がない」という結論を導くこともできるだろう。
自民党の憲法案の主権者は天皇ではないことを考えると、自民党は国体の主体を天皇だと考えているわけではないらしい。国体に主体がないので、権力に一番近い人が「国体の守護者」を僭称して、他人の権利を制限する口実が生まれることになる。国体は自明だと考えられるので、権力者は自らの権威を正当化する必要がない。その一方で日本国民の人権はその「国体」の下に置かれてしまうのである。
皮肉なことに、外国人の排除を例に挙げて国体人権論を導入しても、実際に制限されるのは日本国民の人権だ。
なお、自民党改憲案には「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」(第十一条)という天賦人権論に沿った記述もあり「国体人権説」を取っているのか定かではない部分もある。
いずれにせよ、自民党議員の手にかかると、これがさらに単純化され、自分たち意思決定の正当化理論に使われてしまう。一つの典型は武藤貴也議員の「戦争に行きたくないと主張する人は利己的」論である。「日本の国体」が危ういにも関わらず「戦争に行きたくない」と考える人は利己的であると武藤議員は「信じている」。国体論に沿って考えると、個人の人権は国体の維持より優先順位が低いので、戦争忌避者を戦場に放り込むには、ただ「そう信じる」だけでいい。決めるのは権力を持った国会議員だ。
面白いことに自民党の議員たちは「国体が自明」だと考えている割には、それがいつも脅かされているという危機感を持っているようだ。そして、一般の国民が同じ危機感を共有しないことにいらだちを抱えている。
この裏には何か精神的なトラウマが関係していそうだが、それが何に由来するのかはよく分からない。自民党の改憲案が発表されたのは自民党が野党だった時代なのだが、自民党を追い落とした国民や民主主義に憎悪の気持ちがあるのかもしれない。