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武藤貴也議員と考える自衛戦争の大義

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自民党の武藤貴也議員の「戦争に行きたくないという人は利己主義だ」という意味のつぶやきがツイッターで反発を呼んだ。議員は発言を撤回しなかった。


世間からは「この人はなにか勘違いをしているのではないか」と思われている。「暴論だ」という人もいる。しかし、どうもそうではないようだ。自民党の方針を正しく理解しているからこそ、こうした発想に至るのである。
自民党改憲案は基本的人権に「公益及び公の秩序」による制限をかけている。背景には、基本的人権はGHQによってアメリカから押しつけられた思想であり、日本にはなじまないという考えがあるようだ。武藤貴也議員は既に削除されてしまったブログ記事の中で、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義が日本精神を破壊すると主張しているので、主義としては一貫している。
自民党改憲案が制限する基本的人権の中には「表現や結社の自由」などが含まれる。SEALDsのようなデモも反政府的で公の秩序に反すると認定されれば制限されることになる。何を「公の秩序」と見なすかはその時の政府の恣意的な判断によるだろう。
武藤議員の発言を感情的に批判するのは簡単だが、少し考えてみると不思議な倒錯に気がつく。この人は自らが寄って立つ正統性を否定しているのだが、それに代わるものを提示していないのだ。
現行憲法は、日本国民が幸福を追求する権利を守るために、国民一人ひとりから民主的に選ばれた政府が、例外的に自衛的な武力行使を認めていると解釈されている。自衛戦争の大義は「民主的に選ばれた政府が国民の基本的人権を守る事」だと理解することができる。
武藤議員は、国民主権は日本精神を破壊すると言っているので、民主主義によって選ばれた政府に対する正統性を認めない。また、基本的人権も日本精神を破壊するので認められない。故に「何の為に自衛戦争をするのか」という大義がない。強いて言えば、何をさすのかよく分からない「日本精神」を守るのが大義が、その権威が何に由来するのかは特に説明されない。
だから武藤先生は「日本精神という何だか分からないもの」のために命を差し出せと学生たちに主張しているのだ。そしてそれに反抗するのは個人のわがままに過ぎないのである。
「日本精神」というのは便利な言葉だ。言葉が空虚であればあるほど、自分の価値観を乗せやすくなる。日本人であれば誰しも自身の価値観を推進するためには他人の権利は制限できると考える事ができるのだ。
衝突がなくお互いがなんとなく共存できる世界では、こうした空虚さを中心に置く事でうまく折り合いをつけることができるかもしれない。これが問題になるのは、周辺に強力な他者がいて競合関係にある時である。
民主主義国家ではない中国共産党でさえ「日本から中国人民を解放した」という理由で自分たちの支配を正当化している。ところが武藤議員の考えでは、自民党が存在するためには、国民の支持という大義は必要がない。支配の正統性という意味では明らかに劣っている。しかも、その支配の安定性さえアメリカに守ってもらうことで辛うじて保たれているに過ぎない脆弱なものだ。
武藤議員は「核武装をしても日本を守らなければならない」と考えているらしいのだが、この国が戦後70年間よって立つ基本的な価値観を否定してまで守らなければならないものとは一体何なのだろうか。