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日経新聞の「雨宮総裁報道」敗戦総括を読む

新聞の世界で誰もとっていないネタをとってくることを特ダネと呼び自分達だけネタが取れなかったことを特オチと呼ぶ。そして特ダネのつもりのものを外すと「トバし」と呼ばれる。最近日経新聞が「雨宮総裁誕生へ」としたニュースは当初は特ダネとみなされてていたが実際には雨宮総裁は誕生しなかった。これについて総括している記事があったので読んでみた。なおタイトルは「敗戦の弁」としたが実際には雨宮総裁待望論になっている。分析というよりは文学だ。

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コラムは雨宮氏が最有力だったという文脈は残しつつ実際に雨宮氏が総裁にならなかったと言う事実と合致させなければならない。このため分析というよりは心情文学のようになっている。日経新聞が何を守りたいのかということがよくわかる。それは「男のプライド」である。


まず日経新聞は雨宮氏が最有力候補であったと持ち上げる。しかし雨宮氏は人格的に立派な方すぎた。日本の経済全体のことを考えて「ここは植田氏だろう」と判断したことになっている。

  • 雨宮氏は黒田日銀の政策を長年支えてきたインサイダーの立場にある。
  • 世界の潮流は中銀マンの内部昇格や官界からの登用ではない

だが、さすがにこれは無理があると感じたのだろう。「世間からは穿った見方という意見も出るだろう」と揺れ動く心情を覗かせる。

ここで物語は大きく転換する。

実は日銀のデフレとの戦いはアメリカの主流になっている経済学者(バーナンキやクルーグマン)との戦いであったと指摘している。黒田総裁の政策はこうした主流の経済者のおすすめを取り入れたものだったというのだ。

彼らは日銀の政策を批判し続けていたが力を落としてきている。今では法律専門家に入れ替わっている。この先、世界標準がまた違ったものになれば5年後の総裁は「雨宮氏」であろうと希望を残して記事は終わっている。


伝統的な私小説によくある形式だ。さまざまな心の揺れがあったがふと窓の外を見ると虹が出ていましたというような感じだ。「明日はきっと雨宮総裁」と希望を残す。

おそらく実際に何が起きたのかはロイターやBloombergなどが書いてくれるだろうからこの説明にあまり意味はない。だがナイーブな心情を余すところなく伝えたという意味では文学的価値が有り余る逸品になっている。

これが日本の経済専門紙の現状なのだなと思った。

論理は破綻している。植田氏が日銀総裁になるのがトレンドならほかの中央銀行の総裁も経済学者でなければならない。逆に世界のトレンドに合わせるならば新しい総裁は金融機関関係の法律に詳しい専門家だっただろう。

さらに最終的には心情に合わせて「将来雨宮氏がトレンドになる未来」の根拠を持ってこなければならない。そんなものはない。

だが論理が破綻すればそれだけ文学的価値は増す。

自分達は長期的に間違っていないが現実が追いついていないだけというスタンスのほかに滲むのが外国の主流の経済学者に対する敵意である。具体的にはバーナンキとクルーグマンが標的になっていて黒田総裁が間違えたのは悪い外国の鬼にたぶらかされたからだと読める。だが彼らは力を落としているとして「わたくしたち」の心情を慰めてもいる。

結果的に彼らの予想は当たらなかった。しかし長期的に見れば間違っていなかったと言いたい。そこでさまざまに心情を屈折させて独自の文学的世界観を作り出している。金融部長の河浪武史さんは文学者としての才能が非常にある方のようだ。素晴らしい才能だ。

日経新聞は最も影響力の大きな経済専門紙なのだが、総括に滲むのは「自分達は間違っていなかった」「悪いのは全て外の人たちだ」という独特のナイーブさである。

だがこれは「金融部長さんに極めて優秀な文学者としての資質」があるということを意味しているだけである。日経新聞社全体を代表するものとは言えない。

そんな日経新聞だが最近もう一つ面白い話題を提供している。Webで100万にの登録者がいるテレ東日経大学が打ち切りになる可能性があるそうだ。文春オンラインが伝えている。1月にはプロデューサーの高橋弘樹氏が意気込みを語っていたところから何か急展開があったことは間違いがなさそうだ。文春オンラインは2月15日に内情をお話しします!などと面白おかしく読者の期待を煽っている。

日経テレ東大学のコンテンツを見る限り特に本質的に日経新聞の価値を毀損するような問題があったとは思えない。そこで「何があったのか」と思ってしまう。もちろん確かなことは言えない。

おそらくそれは嫉妬なのではないかと感じた。

プロデューサの高橋弘樹さんはサラリーマンの世界の最大の禁忌を犯した。それは上層部よりも大きな成果を出してしまうというものである。実力主義の世の中では高橋さんが日経の取締役にならなければならない。成果を上げたのだから当然だ。

日経新聞はもともと10本まで無料で記事が読めていたのだがこれが2本にまで減っている。最近では「会議に参加して発言したければ日経新聞を読まなければダメだ」や「Webの偏った情報だけでは成長は望めない」というような趣旨のキャンペーンもやっている。ウェブでは無料のコンテンツが溢れているがどうにかしてサブスクライブ(購読)モデルを維持したい。それが本来あるべき姿だと日経は言いたいのだろう。そしてそのトップに君臨するのは子会社の社員ではなく「本紙」でなければならない。

だが日経テレ東大学は「なんかよくわからないくだらないコンテンツ」であれよあれよという間に100万人の登録者を達成してしまう。これは間違いなく叛逆行為だ。

子会社の社員が「あんなくだらない」コンテンツで親会社を脅かすことなどあってはならないと考えるのはサラリーマンの世界では「正常」な価値観だ。であればなかったことにしてしまえばいい。将来の収益の芽を積んででも自分達を正当化したいというのはよくある日本の優しく美しい情景の一つである。

今回の事例も共産党とリベラル系メディアの関係に似た「森の消失」騒ぎのひとつだ。だが、それほどの悲壮感はない。Web上には日経テレ東大学と同じようなコンテンツを流すメディアができている。出演者の傾向もなぜか似ている。

我々の視界から紙媒体が徐々に消えてゆくだけの話であって「新しい森」は既に育ち始めているといえるのかもしれない。「メシの種」を探している人は多い。経済政策や成長戦略に関する情報には需要がある。

ただそのビジネスモデル自体は大きく変わろうとしているのだろう。

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