ざっくり解説 時々深掘り

おそらくここまで大変なことになるとは思っていなかった – ウクライナの大統領制の経緯と問題点

ウクライナが戦争に巻き込まれたのはウクライナのせいという言論に対して「これは日本人の間に染み付いた敗北主義の投影に過ぎない」という議論をしてきた。ではウクライナに問題がなかったのかといえばそうとも言い切れない。ウクライナの30年の経緯をまとめた。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






おそらくここまで大変なことになるとは思っていなかった

ウクライナは民主主義の伝統を持たないままで自由主義経済に「孤児」として放り込まれた。

政治家は高い政治倫理を持たず国民もどのように政権選択をしていいのかがわからない。このため多くの資金を持っている人が政治に影響力を持ちやすいという傾向にある。さらに援助資金を求めてヨーロッパに接近し汚職などで疑惑が持たれるとロシアに接近するというようなことを繰り返している。

さらに国民資本を蓄積しインフラ整備や産業振興をしようという気概や発想もなかった。つまり国民資本の形成にも失敗している。

農業や地下資源のポテンシャルは高い。このためアメリカの政治家に狙われてウクライナの利権化が試みられてきた。その代表的な政治家がバイデン氏だった。このバイデン氏が大統領になったという偶然もウクライナにとっては不幸なものだっただろう。

最終的にゼレンスキー大統領が職業政治家たちのツケをまとめて支払わされている。

クラフチェク大統領

ウクライナはもともと東スラブ3国家としてソ連では特別な地位にあった。そしてこのソ連から離脱する形で独立した。つまり、ウクライナには民主主義の伝統はなかった。ロシアがルーブルを旧ロシア圏内に行き届かせることができなかったためウクライナはルーブル圏の離脱を余儀なくされた。これが苦難の始まりになる。

ルーブルの不足を補うために通貨カルボーヴァネツィ(クポーン)が発行された。だがクポーンが乱発されたためロシアよりひどいインフレが起きる。資本主義の仕組みを理解していないのだからこれは当然のことと言える。

クラフチェクはルーブル圏離脱を諦めエネルギーをロシアに依存するようになった。結局、クラフチェク大統領は経済危機を解決できずに再選されず一期で退任した。これが始まりだった。

クチマ大統領

クラフチェクは経済危機を打開できなかった。このため、クラフチェク政権下で首相だったクチマ大統領は西側に接近する。EU/NATOに接近しIMFの援助を受けることでロシア依存だったエネルギー問題を解決した。さらに1996年には10万クポーンを1フリヴニャにするデノミが実行された。こうして危機を打開したウクライナだったのだが、おそらくはこの成功体験が国民資本の形成を阻害する要因になっているのではないかと思う。

1999年にはデフォルト対応のために銀行家のユシチェンコを首相に起用した。さらに反体制派暗殺疑惑が持ち上がり西側との関係が冷え込むとロシアへの接近を始める。AFPによると殺されたジャーナリストはゲオルギー・ゴンガゼ(Georgy Gongadze)氏だ。キエフ郊外で頭のない遺体で発見された。2009年に元内務省高官の男が殺害を認める供述をしている。ただこの時点でもクチマ大統領の関与は不明のままだった。ユシチェンコ首相はクチマ大統領を批判しなかったために人気を落とす。

2002年には東部で高い支持を得ていたヤヌコビッチを取り込むために首相に起用した。のちに説明するが強盗の前科があるいわくつきの人物だった。

クチマ時代は長かったのでウクライナ政界の基本的な形はこの時に出来上がっている。後にこの首相経験者二人がオレンジ革命で争うことになる。ユシチェンコは二番目の妻を通じておそらくアメリカと関わりがある。ならず者のヤヌコビッチはプーチンに取り込まれた。

2004年のオレンジ革命

2004年にクチマ大統領の後継を決める大統領選挙が行われた。当初ヤヌコビッチ氏が優勢とされていたがユシチェンコ氏側が不正があったとして抗議する。これがデモとなって広がりオレンジ革命と呼ばれるようになる。ユシチェンコ氏は敵対陣営の置毒によるものと思われるダイオキシン中毒になり顔が醜く変形した。

このオレンジ革命の時に資金を提供したとされるのが後に大統領になるポロシェンコ氏だったとされている。この時の対立が後々に大きな災厄を引き起こすことになる。プーチン大統領はヤヌコビッチ大統領の復権を狙っているからである。

ユシチェンコ大統領

民意に推される形で大統領になったユシチェンコ大統領だったが人物的には問題があったようだ。ティモシェンコ首相との関係が悪くなり政権は内部分裂してしまう。

ティモシェンコ首相はガスの女王という異名を持つ実業家だが汚職などの疑惑もあったようだ。最終的にガス資源に対する汚職で2011年に逮捕された。西側は国策捜査なのではないかと非難したが実際の汚職はあったようである。だが拷問を受けた可能性もある。ヤヌコビッチ大統領が国外追放になった後で釈放された。2019年にも大統領選挙に出馬したようだが最終候補者として残ることはなかった。

ユシチェンコ大統領の人気のピークはオレンジ革命だった。そのあとは政権内部をまとめきることができなかった。結果的にこれがヤヌコビッチ大統領が誕生するきっかけになる。

さらに二番目の妻カタリナはアメリカ系ウクライナ人でCIAとのつながりもあるのではないかと言われているそうだ。ジョージ・ソロスが作ったウクライナを民主化する基金「ウクライナ基金」を主催している。プーチン大統領はこのアメリカとのつながりを警戒しており、のちの混乱につながってゆく。伝統的にヨーロッパに接近していたウクライナだったが「アメリカ」という別の要素が出てきたことでウクライナ情勢はさらに混乱することになるのだが、おそらくこの時点では戦争状態になるとまでは誰も思っていなかったはずだ。

ヤヌコビッチ大統領

ユシチェンコ大統領に失望したウクライナは今度はライバルだったヤヌコビッチを大統領に選ぶ。この人はピフノフカと呼ばれる暴力団の出身で強盗の前科があるとWikipediaには記載されている。前述したようにクチマ大統領を支える実績が評価され首相に起用されたという前歴もある。

プーチン大統領とどのような関係にあったのかはわからないが、プーチン大統領が働きかけやすい人物であったことは間違いがないようだ。2013年にすでに決まっていたEUとの政治・貿易統合を取りやめたことをきっかけにユーロマイダンと呼ばれる騒ぎが起きる。プーチン大統領の圧力があったものと言われている。このユーロマイダン(マイダン革命とも言われる)が今回の軍事侵攻の原因になっている。

そのあとでヤヌコビッチ大統領に公金横領の疑惑が持ち上がった。ロシアに亡命した後で贅沢な暮らしが暴露されおそらく公金横領は本当だったのだろうとみなされているようだ。プーチン大統領はヤヌコビッチ大統領の復権を狙っているものとみられるがウクライナで彼が支持されることはないだろう。

ユーロマイダン・トゥルチノフ大統領代行・クリミア併合

EUとの政治・貿易統合をヤヌコビッチが取りやめたことをきっかけにユーロマイダンが起きた。ヤヌコビッチ大統領はデモを弾圧したために流血の事態となり暴徒も発生するほどの混乱となった。流血の騒ぎの中でサッカーのフーリガンの団体であるウルトラスが重要な動きを見せる。ウルトラスの中には右翼(ナチズム信奉者が含まれるそうだ)も左翼もいたそうだが打倒ヤヌコビッチで「団結した」のだという。

フットボールチャンネルがこのウルトラスについて前編後編に分けてまとめている。市民たちは警察権力と争ったことはなかったのだがウルトラスにはその経験があった。のちにネオナチの信奉者を含む彼らの一部はアゾフ連隊として東部に流れてゆく。2014年の混乱を経てウクライナ政府はネオナチにも依存するようになりそのネオナチを含む勢力にアメリカが支援するようになったという流れである。

EU加盟プロセスの中止だけでなくヤヌコビッチ大統領そのものに対する不信感も広がっていたこともわかる。結果、ヤヌコビッチ大統領は国外に逃亡する。その後を継いだのがトゥルチノフ氏だった。すぐさま親ヨーロッパ政策への転換を発表したとロイターが伝えている。トゥルチノフ氏はティモシェンコ元首相の側近だった。

この結果に怒ったプーチン大統領はクリミアへの介入を決める。すぐさま極秘の軍事行動が起こされ地元政府の首が挿げ替えられた。新しく代表となった親ロシア派がロシアへの帰属を求める声明を出すまで一週間という展開になった。3月16日に住民投票が行われるが国連総会ではこの住民投票を認めないとする決議が出された。

この時の失敗体験と成功体験が6年のちにウクライナ侵攻へとつながってゆく。東部の混乱は貧しいウクライナにとって重荷になってゆく。次第にロシアの脅威は現実のものとなり西側の支援のもとで軍事力の強化が図られることになった。

ポロシェンコ大統領

ユーロマイダンのあとで大統領になったのはポロシェンコという実業家だった。チョコレート王と呼ばれ後に一大ビジネス帝国を築き上げた。もともとクチマ大統領を支える地域党の立ち上げに関わったのだが自身は入党しなかった。後にユシチェンコ大統領を支える「我らがウクライナ」に合流する。

遠藤誉さんはエッセーの中で、バイデン副大統領がポロシェンコ大統領に近づきウクライナ憲法に「NATO加盟」を努力目標に入れさせたと指摘している。バイデン副大統領が息子を伴いウクライナを利権化しようとしていたことは明らかである。

だがクチマ大統領の事例を見ても明らかなようにウクライナはヨーロッパから資金を引き出そうとする傾向がある。だが、政治的に清廉であろうと意欲はない。このため政権が長期化するとヨーロッパとの関係が悪化し今度はロシアに寝返るという傾向がある。暴力団出身で素性のよくわからないヤヌコビッチ大統領のような人が出てくるのもそのためだと思われる。

ポロシェンコ大統領も「政治的に透明でない」という評判がある。JETROがポロシェンコ評を残している。全体の評点は30点だそうだ。またダイヤモンドオンラインもポロシェンコ大統領の敗因について書いている。

  • 税制、外貨規制、企業活動関連制度(法人登録など)などの諸改革を行なったが5年では完成できなかった。
  • 変化を嫌うウクライナ人気質もあり司法改革はできなかった。
  • 自身が企業のオーナーのため国民から疑いの目を向けられていた。
  • 国民が東部での戦闘に疲れ果てていた。また、東部の戦闘を維持するため国民生活に十分な予算が確保できなかった。

こうして俳優出身のゼレンスキーが大統領に就任した。

まとめ

この概略だけを見ていると一体何が問題でウクライナが今のような状態になったのかがわからない。日本の成功例を当てて考えると違いがよくわかる。

  • 日本は天皇主権のもとで限定的ではあったが議会制民主主義の伝統があった。ウクライナはソ連崩壊で自由化が始まったため議会制民主主義を育てる時間が持てなかった。
  • 日本はアメリカとの同盟が固定していたため民主主義から逃れられなかった。ところがウクライナは政治的に不透明な状態になるとロシアに接近する傾向がある。つまりロシアが逃げ道になっているのだ。さらに、エネルギーと東部の工業地帯もロシア依存の状態が続いた。
  • 日本は早くから国民資産を蓄積してインフラ整備や産業育成に当てるという政策をとった。戦前に自主的な経済運営の経験があった上に戦時経済で計画経済を導入していたからだと考えられる。だが自由主義経済に不慣れなウクライナはヨーロッパの投資を頼るようになる。ヨーロッパから投資を呼び込むことができれば自分たちで資金を蓄積しなくてもなんとかなるだろうと考えていた形跡がある。そのあとアメリカの接近を受け、これがロシアを刺激することになった。
  • 工業が盛んで比較的豊かだった東部はロシア依存の傾向が強くインフラや産業基盤が整備されていない西部はヨーロッパの投資と経済統合に期待する傾向が強い。国民資産形成ができなかったために国家が中心となって産業計画を立案するという日本型の経済振興策は取れないうえに、東西にも違いがあるため統一的な国家開発計画が作れない。日本の産業計画が元々はソ連からの輸入物であると考えるとこれは皮肉なことである。

このような理由がつみかさなり、ソ連崩壊から約30年でロシア侵攻を受けることになった。みブダペスト覚書で核を放棄したから侵攻されているなどという人もいるが、落ち着いた経済発展できていればロシアやアメリカとも距離が置けたはずだ。つまり、まさかここまでの事態になっていなかった可能性が高い。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です