ひまわりの種 – 憲法第9条は国を守れるかもしれない

先日、国連中心主義が崩れた今となっては憲法第9条の前提は大きく崩れたという話を書いた。その気持ちは変わっていない。だが、ひょっとして憲法第9条は国を救えるかもしれないとも思い始めている。ウクライナのひまわりの種のエピソードを見たからだ。これは人の心を動かしている。






高齢の女性がロシアの兵士に向かってひまわりの種をポケットに入れろと言っている。彼らはこの国で死ぬ。死んだらポケットの中にあるひまわりの種が花を咲かせるというのである。

論理的には無茶苦茶だ。だが、なぜそれが人々の心を打つのか。それはおばあさんと屈強な兵士、武器とひまわりの種という比較が強烈だからだ。

ではこの劇的な対比を支えているものはなんだろうか。

おばあさんは愛国心を持っていて国を信じている。だから何も持たずに近づいていって唯一持っているひまわりの種を突きつけている。その信じる気持ちはゼレンスキー大統領をはじめとして多くのウクライナ人が国のために戦っていることに支えられている。つまりひまわりの種というのは単なる植物の種ではなく他国支配への抵抗と「ウクライナらしさ」の象徴になっているわけだ。

一方でロシア兵士は自分たちがやっていることが正しいことなのかよくわかっていない。士気は必ずしも高くないようだ。第一に彼らの多くは演習をやると言って連れてこられている。次に普通のおばあさんと会話が成立している。それくらい言葉が似ているということになる。おそらく普通のロシア市民だった兵士が「練習だ」と言われて連れてこられて言葉が通じる市民に向けて銃口を向けるという心理的プレッシャーはかなりのものだろう。

もちろんひまわりの種は単なる象徴に過ぎない。そこに込められているのは豊かな国を守りたいという普通の市民の気持ちである。だからこそこのビデオに強烈な意味を与えている。

その意味ではひまわりの種は憲法第9条に似ているなと思った。その条文は単なる言葉の羅列である。だがその言葉の羅列の中には戦後日本人が共通して感じた「あの戦争はもう嫌だ」という気持ちが込められている。最後に人々の心を動かすのは案外こうした「それ自体では何の意味もない」何かなのかもしれない。

もちろんひまわりの種が平和を願って咲くということはないのだが人々はひまわりの花にいろいろなものを見るだろう。仮にウクライナが蹂躙されてもひまわりは咲き続けるのだ。このビデオを見て心の底から「ウクライナが勝ってほしいな」とか「自由を維持してほしいな」という気持ちを持った。

単にひまわりの種を信じたいからだ。

だが我々は「我々のひまわりの種を信じているのだろうか?」という気もする。兵士に向かって「我々は憲法第9条をいただき平和な世界の種を蒔いてきた誇り高い国民だった」と言えるだろうか。仮に我々がそれを信じなければ他人に伝えることはできないし、他人も応援してくれないだろう。

そもそも我々はあのおばあさんのひまわりの種にあたるものを持っているのだろうか。これをいろんな人に聞いて回りたい衝動を抑えきれないが、そんな質問をしても誰にもわかってもらえないだろう。

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