ざっくり解説 時々深掘り

東大農正門前無差別刺傷事件・へずまりゅう・ゲームリセット社会

この文章を読む前に考えて欲しい。あなたが「クソゲー」と言われるゲームをプレイしているとする。なかなか勝てない。その場合「どうするのが正解」だろうか?

大学共通テストが行われる東京大学農学部の前の路上で受験に来た高校生二人と高齢男性の一人が刺された。刺したのも受験生なのではと言われていたが高校二年生だったそうだ。自分は東大を受験するんだと言いながらも受験生を刺していて頭の中が整理できていない様子がわかる。ただ彼のやろうとしたことは明白だ。このゲームをチャラにしてやると意気込んでいるのである。彼はその目標は達成した。

社会はそれがうまく理解できない。新聞では容疑者の名前と学校名は伏せられているが世間の関心は「どこの学校の学生がやったんだ」ということになっているようだ。週刊文春は愛知県の名門で偏差値75の東海高等学校の高校二年生だったと報じている。一方で受験生の親は「警備をしっかりして欲しい」と戸惑っている。

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週刊文春の取材によると「自分は東大を受験するんだ!」と叫んでいたという。別の取材によると「高校二年生といえばクラス分けが行われる時期であり受験校の選別が最終決定される時期である」というようなことも書かれている。さらに去年から反抗を計画していたと供述しているようである。

混乱して突発的にやったのだろうとも思えるが「計画していた」というようなことも言っている。つまり何かの枠組みから抜け出そうとしてやったことのようだ。おそらくこの「枠組み」がゲームなのだろうと思う。親の期待や受験というゲームから抜け出そうとしていたのである。

この事件を年末に起きた北新地のメンタルクリニックの事件と重ね合わせた人も多いはずだ。拡大自殺と呼ばれる現象である。北新地の事件では仕事はできるが家族とのコミュニケーションに問題があった男性が「もう自分の人生は終わりだ」と考えたものの「死ぬ時くらいは有名になりたい」とか「自分だけが不幸なまま終わるのは間違っている」と考えて周囲を巻き込んだ。

これもゲームを終わらせようとしている人の犯行だと考えると整理ができる。ただ単純に終わるのはもったいないと考えて「最も派手なエンディング」を演出した。自殺ではなくリセットだ。

北新地の事件を見た時「日本人は自分の感情を十分に言語化ができないために起きた事件だろう」と感じた。さらにまともな高等教育を受けていれば言語化教育も受けられただろうになどと思った。つまり、処方箋は「まともな言語化教育をすること」ということになる。

だが今回のケースは違う。この人は偏差値75の高校に受かっている学生だったのである。

そう考えると高い水準の高等教育を受けていても自分の気持ちを言語化できない人がいるということがわかる。学歴があろうがなかろうが「自分がプレイしているゲームを終わらせたい」という人がリセットボタンを押したという話になる。

背景にあるゲーム型成果主義社会とはどんな社会なのか。

  • 社会には達成すべきゴールがある。
  • 人間の価値はゴールを達成できたかどうかで決まる。ゴールを達成できない人生には意味がない。
  • 当然ゴールを達成できない人間は無価値であるがそれは誰のせいでもなく自己責任だ。
  • とはいえ自分だけが消えてしまうのは納得ができないし自分が達成できなかったゲームで得点を挙げる人間は誰であろうが許せない。
  • どうせ生きていても仕方がないのだが、せめて最後に高得点を挙げて死のう。
  • 得点を挙げる対象物はモブキャラである。

途中の様々な思考に整合性はない。共通するのは「リセット」である。リセットの後は考えない。そしてリセットも実はゲームの延長になっていて「攻略」がある。つまりリセットを意図しながらもゲーム世界から全く抜けられていないというところに悲劇性がある。

この高校二年生は可燃性の液体を3リットルも持っていたと伝えられている。手口を詳細に書いてしまうと真似する人が出かねないということになっているからなのかもしれないがどんな液体だったのかは書かれていない。マスコミがゲーム攻略本になっている。だから攻略法を隠した。

この「可燃性の液体で全てを燃やしてしまいたい」という気持ちは2021年の小田急線の事件以来一定の支持を得ていると言って良い。小田急線の液体はサラダ油だったがSNSで伝播しているうちにどんどん可燃性が上がっていった。北新地の事件では虚偽の理由を説明しガソリンが購入されていたことがわかっている。

小田急線の事件では「女性が勝ち組に見えている」という理由で女性を狙った刺傷事件を起こした。この時はこの事件の特性が主に語られ「フェミサイド」だと考えられたようだ。だがおそらくそれには意味がない。北新地の事件では自分と同じクリニックの患者と医師が殺された。東大の事件では自分がそうなるはずだった受験生が狙われた。

人を巻き込むという共通点はあるものの対象はバラバラである。リセット・ゲームの攻略上誰を狙うのが効率的かとだけで対象にそれほど意味はない。つまりゲームでいうところのモブキャラである。これが通常の人には理解できない。例えばフェミニストたちは当然「何か意味があるのだろう」と考えてしまう。だがゲームにおいてモブキャラに意味はない。

既存のルールで「勝てない」とわかった対馬悠介容疑者が一生懸命「ではどうしたら勝てるのか」と考えた結果逃げ場のない電車を選んだ。だが、この時の油はサラダ油だった。そこで同じようなことを考えている人は「だったらもっと効率のいい油はないだろうか」とか「逃げられないようにするためにドアを目張りしよう」などと考え始める。

これら一連の行為を自殺ではなくリセットだと考えると社会の掲げるルールと目標は達成できなかったが自分の設計したゲームであれば勝てるかもしれないと考えている人が出始めていることがわかる。これがおそらく自己責任・成果主義型の社会の行き着いた先だろう。

そんな社会を見ているとついつい「勝ち負けにこだわらず自分なりの幸せを探せばいいのではないか?」という提案をしたくなる。

だが、実は社会はそれとは別の方向に転がり始めている。それがへずまりゅう的生き方である。リセットゲームのプレイヤーは大抵警察に逮捕されるか自分も死ぬかしている。では犯罪を犯した上で「それで稼げるようになった人」が出てきた場合にどうなるのだろうか?と思う。それが「へずまりゅう」だ。破綻とリセットというゲームが継続してしまう事例と言って良い。

迷惑系YouTuberと言われたへずまりゅう(本名原田将大)はスーパーで盗み食いをする動画を撮影し懲役1年6月、保護観察付き執行猶予4年(求刑懲役1年6月)の判決を受けた。記事を読む限り今でも保護司に連絡をしなければならない立場である。

だがその後もコロナウイルスに感染したままで各県を渡り歩き警官にコロナウイルスを感染させたり、N国党から山口県知事選挙に立候補したり、転がり込んだ青汁王子の六本木の豪華マンションに女性を連れ込み部屋を退去させられたりしている。さらにホームレスとなったあとで格闘技イベントに出て顎を粉砕されている。

保護観察がついているのに何をやっているのだろうかと思うのだが渋谷の路上から「情報発信」をして食料品や飲料などの提供を受けているほか8万5千円を渡す人もいたそうだ。AERA.dotがへずまりゅう「渋谷でホームレス生活」に苦情の通報殺到 8万5000円渡す人の姿もいう記事で伝えている。ホームレスを発信するとお金が稼げてしまうのである。

ゲームから抜け出した人を応援する人がたくさんいるのだ。

中高年から見ると異常な光景だ。彼は犯罪を犯している。犯罪を犯した人はその後まともな仕事に就けず日陰の生活を送らなければならない。だからこそ刑罰には抑止効果がある。だが、実際にはそうなっていない。

彼はおそらくUber Eatsでコツコツ日銭を稼ぐ人たちよりもお金を稼ぐことができている。ルール破りをしても成果さえ上げられれば、彼の人生には「価値がある」ことになる。へずまりゅうにとってその成果とはお金とページビューだ。

つまり「何をやってでもお金さえ稼げればそれが勝ちなのだ」という成果主義・自己責任社会の価値観ではおそらくこれも「アリ」ということになり、へずまりゅう的生き方を阻止できない。論破されるのは我々の側である。

だが、普通に考えると真面目にコツコツ稼ぐ人よりもルール破りをした人の方が報われる社会が持続するはずはない。第一に秩序が維持できなくなる。さらに真面目に働いて社会を支える意図がいなくなる。成果主義・自己責任・ゲーム社会は「ルール破りをしてでも勝った人の方が真面目に働くより価値があるんですよ」というメッセージがYouTubeを通じて流されている。そしてYouTuberは子供達の憧れの職業だ。

真面目に働く人に当然の賃金を払わず「ルーチンワークをする安い労働力は海外から持って来ればいいのだ」と考える我が国の資本主義はそんないびつな社会になろうとしている。さらにゲームで勝てるかは親ガチャで決まると考える人もいる。

つまり我々の社会はすでに引き返せないところまで来ているのかもしれない。

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