ざっくり解説 時々深掘り

東大前刺傷事件を起こした生徒が通う名門高校が生徒の切り捨てを図る

東大前で受験生らが刺された事件で「殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う高校」がコメントを出した。週刊誌報道から愛知県の東海高等学校のことであると思われる。あまりにも明後日の方向を向いているので暗澹とさせられた。中でもいたたまれないと思ったのが状況をコロナと生徒の受け止め方のせいにして事件と向き合わなかったことである。

ただ、考えを進めるとこの高校もまたゲームの中にいることがわかる。彼らもまた抜けられないのだろう。

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ジャーナリズムの扱いもひどい。読売新聞は「言葉を失う」といって思考停止し「本や日記を読めば気持ちも変わるはずだ」と言っている。背景分析をして問題を理解しようという試みを完全に放棄しているばかりか「自分たちは本をたくさん読んだから情緒豊かな大人になれた」とマウンティングまでしている。

読売新聞と並ぶ「エスタブリッシュメント」の朝日新聞は「ジャーナリズム倫理を守ります」とばかりに学校の名前を隠している。さらに切り取り報道だと批判されることも恐れているようで謝罪文の全文を掲載した。

全文を切り取らずに要旨をまとめると次のようになる。高校側も慌てて作ったのだろう。責任回避の言い訳のような文章になっている。これは叩かれるだろうなと思った。

  • 社会にご迷惑をおかけして申し訳ない。
  • 私たちは受験が全てではないという教育をして来たがこの生徒には響かなかったようだ。
  • そんなことになったのはコロナで生徒への指導が行き届かなかったからだろう。
  • 生徒の起こしたことは身勝手だ。
  • きっと寂しくてやったのだろう。
  • 我々はそのような生徒に手を差し伸べる教育をしてゆく。それが我々の今後の課題だ。

こう読み解ける。

どうも我々の教育理念を理解しない生徒がとんでもないことをしでかしたらしい。生徒のやったことは身勝手であり容認できない。詳しい話は聞いたわけではないがきっと寂しくてやったのだろうがもう我々には関係ない。生徒は司法が処理するだろうが我々の関知するところではない。どうしてこうなったのかを考えたのだがどう考えてもコロナが悪い。同じような生徒が出ないように教育に専念する。

不都合を切り離して世間の批判を避けようとしているしそれを隠そうとも考えていないようだ。思考停止ぶりは読売新聞と似たようなものだが「我々のせいではない関係ない」という気持ちが全面に押し出されている。

高校生のやったことはよくわからないが我々には関係ないという姿勢は新聞も学校関係者も共通して持っている。社会はこの不都合な問題を切り捨ててとにかく先に進もうとしている。

自分たちは正しい教育をやっていたが生徒は理解しなかったようだし、そもそもコロナという特殊な事情で生じただけである。私たちの正しさは変わらないので引き続き我が校を受験して欲しい。これが高校側の言い分だ。

読売新聞は「きっと勉強ばかりして小説や日記などを読んでいないのだろう」私の若い頃は勉強だけでなく教養も磨いたものだ。君達も我々に学びたまえと言っている。これは問題分析ではなく単なる自慢とマウンティングである。

一方、週刊誌は購読数稼ぎのために学校名を挙げている。それが愛知県の東海高等学校だった。FRIDAYは「愛知名門校」といっている。購読者稼ぎのために学校名を出した文春は「ジャーナリズムのクズ」のように思えるのだが実際にはいい仕事している。

この学生は中学校から上がって来た学生ではなく高校編入組の「外来」だったそうだ。内来の文化に馴染めず「真面目すぎた」と書かれている。なんとなく学校が切り離しを図った理由が見えてくる。

さらにコロナで学校行事がなく一体感が醸成できなかったということも書いている。おそらく学校から出てくるステートメントを読んで内情を分析したうえで取材とぶつけたのだろう。学校のステートメントを右から左に流した朝日新聞と比べるとおそらくジャーナリズムとしては文春の方が数段誠意がある。

東海高校は自由な校風を重んじる中高一貫の学校だが「刺激」を与えるために1割ほどの外来を入れている。だが高校から見ると「ちょっと真面目すぎて我が校に馴染めなかった」ということになる。おそらく高校側の対策は「真面目すぎる子は我が校には向かない」ということになるのだろうが、これは教育機関ではなく大学進学者養成工場であり「不良品は取り除くべき」という品質管理者の視点である。

もちろん「殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う某高校」側の切迫した気持ちはわかる。なにせ高校受験の日が近づいて来ている。おそらく2月に入ってすぐに受験が始まるのだろう。私学にとって「成果を上げ続ける」ことはとても大切で、そのためには優秀な学生をたくさん集めてこなければならない。だからこの事件をきっかけに優秀な受験生が外に流れることはあってはならないのだ。

つまりこの「殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う某高校」も実はゲームの中にあることになる。高校自体がゲームの中にあるのだからその中にいる生徒がゲームから抜けられないのも無理はないことだ。

おそらく今回の事件分析において「人生をゲームに例えるとはなんと不謹慎なのか」と憤る人も多いのではないだろうか。だが、実際にこの「殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う高校」は教育機関ではなく受験者養成ゲームを行っているだけの存在だ。

教育機関であれば責任のある人が出て来てこういったことだろう。

私たちの生徒の一人がとんでもないことをやった。社会倫理的には許されるものではないだろう。だが、それでもこの生徒も我が校を選んで来れた大切な生徒であり、我が校の学生たちにとってはかけがえのない同級生である。もちろん捜査と司法が最優先ではあろうが、是非一度会ってこの生徒が何を考えていたのかを聞きたい。その上で我々の教育の何が間違っていたのか、何ができるか、今後どうあるべきかを考えたい。そのために我々はできることをやるが社会にも協力を求めたい。

だがこの高校にはそれができない。そもそも社会を信頼できない上に受験者養成ゲームからも降りられないからである。成果を上げ続けなければ社会は我々を見捨てて叩くだろうという了解がある。おそらく彼らは他人にもそうしているのだろう。だから自分たちもそうされるということがわかっている。

だから成果が上がらないものは切り捨てて逃げ出したいという気持ちが生まれる。切り捨てられた方は矛盾した気持ちを整理できないまま混乱した告白を続けている。またそれを右から左に流す報道機関がある。受け取った方は「この人は相当混乱しているようだから精神鑑定などを行い慎重に調べたほうがいいのではないか」などと感じてしまうのだ。

だがおそらく混乱しているのは社会の方である。なぜ東大受験者を増やさなければならないのかとか、それは我々の社会にどんな益をもたらすのかという目的意識は失われている。

単に成果を上げるためのゲームになっているのだ。たくさん得点が稼げれば勝ちであり得点が稼げなくなったら「退場」である。

ではこれを叩く人は高校名が分かっている中で高校叩きを止めるであろうか。おそらくそうではないだろう。資本主義は「成果を上げたい」という人々の気持ちを成長に導くという社会なのだが、日本には成長余地がない。叩く人たちが代わりに選んだのは「弱いものを叩いて自分たちの強さを証明する」という新しいゲームだ。実名を探し出して新しい獲物を選びピコピコハンマーで高校を叩くたびに「ピコーン」という音がして得点が加算されるというのが他人を叩くゲームである。面白いように点数が稼げることだろう。

高校はゲームで勝ち続けたい。だが勝ち続けるためには不都合なものを切り捨てなければならない。だが高校がゲームそのものから離れない限りこの高校は人々の格好の得点源として叩かれ続けることになるのだろう。

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