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無意味化する千葉県知事選挙とその危険性について考える

千葉県知事選挙の政見放送を見た。事前に評判は聞いていたのだがなかなか凄まじいものがあった。色々と考え込んだのだが、どこに問題点を感じているのかがよくわからないので書きながら整理したいと思った。

一旦書いてみて、我々庶民レベルでの政治が無意味化しているという点に漠然とした問題意識を感じているようだということがわかった。

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千葉県知事選挙は大方結果が決まっている。おそらく与野党が相乗りしやすい候補が勝って終わりになるだろう。東京、千葉、神奈川の候補はいずれもテレビ上がりだったわけだが、そこから卒業できるとすればそれはひとまずいいことのように思える。

自民党も独自候補を出しているのだが存在感はない。中央政党の影はほとんど見えない。おそらく「負けたくない」とビビっているのだろうと思う。政策が作れなくなった政党の末路という気がする。自民党は官邸主導という密室政治に陥った結果、地方を切り捨てて縮小してしまった。地方は抵抗しない。静かに離反するだけである。

政策が聞こえてくるわけではない。代わりに「あの陣営はこの人に付いたらしい」と匂わせるポスターだけが目立つ。たまにチラシやハガキが家に送られてくることはあるが実質的には何も書いていない。おそらく労働組合あたりでは「うちの陣営はこの人を応援しました」というようなお知らせが流れてくるのだろうし各陣営では手弁当を持ち寄り楽しくハガキ発送大作戦などを繰り広げているのだろう。

だが、一般人にはまるで関係がない。浮動票とみなされるその他大勢の人からすると「本当に選挙をしているの?」という感じなのではないかと思われる。

このサイドBとして、おそらく勝つつもりはない泡沫候補がいるのだろう。政見放送の前評判があまりにもひどいので後半戦を見てみた。一人は千葉県の教育行政がなっていないということを切々と訴えていた。これはかろうじて政治的メッセージといえそうである。

だがもう一人は「ワクチンは効果がない」とか「マスクは子供をダメにする」というようなことを訴えている。酸素が供給されず引きこもり体質になるそうである。さらにもう一人は政見放送ではなく「彼女ができた」と公開プロポーズをしていた。見るに耐えない。

さらに選挙公報を見ると藩札ならぬ県札を発行すると言っている人がいた。県で借金をして独自の商品券を配るというアイディアである。思いつきレベルでとても政策とは言えない。

日本人は政治的には政策を立案できる能力を完全に失っているということがわかる。その意味では民主主義はかなり昔にお亡くなりになっているのだろうということがわかる。自由主義先進国で自ら政策立案の意思を手放したという意味では稀有な存在だ。それだけ普段の生活がなんとかなっているということなのかもしれない。

この政見放送はいくらで買ったのだろう?という視点で見るとその費用は300万円なのだそうだ。これは没収されるであろう供託金の金額である。NHK総合の二回の選挙公報代金としては格安だろうなと思う。

千葉に住んでいない人たちからは「千葉県知事選挙には変な人がたくさん出ている」ように思えるのかもしれない。だが、実際には誰が勝つかはほぼ決まってしまっているので、泡沫候補がいくらでてもあまり関係はないと言える。つまり、めちゃくちゃではあるが実害はない。

だが、選挙が政治の意思決定に関係がないという状態になっているのは確かである。千葉市の選挙管理委員会は「誰かを選ぶんじゃない自分の未来を選ぶんだ。」と言っているがそれは嘘である。青少年に嘘をついてはいけない。

弊害は二つある。

菅政権の支持率は新型コロナの感染数という指標によってある程度自動的に上下しているようだ。国民が不安を感じると支持率が下がりそれになれると支持率が上がる。政党や政権はこれをコントロールできない。

安倍政権下でどんなにデタラメが行なわれようが支持率が下がらなかったところを見ると、国民は政策にはそれほど興味を持っていない。さらに「立憲主義(それがどんなものなのかはよくわからないが)」がデタラメに運営されていたとしても誰も気にしなかった。つまり、政権というのは都合がいい時には持ち上げて都合が悪くなればサンドバッグのように叩くものである。

こんな状態では政治を通した社会問題の解決は行なわれない。そもそも問題解決をするつもりが誰にもないからである。

もう一つの弊害はおそらくサイコパスのような人が勝ちやすくなることなんだろうなと思った。小池百合子東京都知事が神奈川県知事・千葉県知事・埼玉県知事にそれぞれ別の情報を吹き込み菅総理に勝とうとしたという「事件」があった。彼女はそもそも信頼関係などに重きを置いていないのだがこれが許されてしまっている。これは東京都が気分によって都知事を選んだからである。今回も信義則という難しい言葉を使ったので、世間の議論はすっかり信義則の意味を類推する方向に誘導されてしまった。かつてアウフヘーベンという言葉で有権者を困惑させたのと同じ手法が何度でも使えてしまうのは東京都が政治的に砂漠化しておりマスコミの頭がスポンジ化しているからだろう。

政治の空洞化によって、我々の社会は自らが問題解決ができなくなっているばかりか嘘つきの方が生き残りやすいという危険な政治風土を作っているといえそうだ。

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「選挙に行こう」だけではこの危険な状態を改善することはできないのではないかと思った。


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