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なぜ菅政権は左派ポピュリズムに走るのか?

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ある国に立派な国立の美術館がある。そこには立派な絵がたくさん飾られている。ある日独裁者が「ここに飾ってある絵は我々を賛美していないから気に入らない」といって一部の画家を排除する。ところが国民はそれを非難することなく「前からこんな絵はラクガキだと思っていた」と言い出し画家を攻撃する。文化が衰退するというのはこういうことである。

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外から見ている人は「かつては芸術を理解する国だったがついにその力がなくなってしまったのか」と思うだろう。おそらくそんな話が出た時点で芸術を持つ余裕がなくなっているということなのだから画家は海外に逃げ出す。「ああこの国も落ち目だな」というような印象だけが残るのだが、あるいは当事者たちはそれに気がつかないかもしれない。

こうしたことが起こるのは実は社会主義国では珍しくない。その意味では日本も左傾化が始まっているのかもしれない。庶民が恨みの感情をその国を引っ張っているエリートに振り向ける過程で起こるのが左傾化だが背景にあるのは単なる権力闘争である。

1966年から1976年までの文化大革命は市場経済の導入を画策した劉少奇や鄧小平を打倒するために毛沢東が起こした官制暴動だった。ところが次第に制御不能になり「民衆が理解できないものを全て放逐する」という運動に発展した。背景に権力闘争がありそれが平均的知性を持った庶民たちに受け入れられ、理解できないものが破壊されるという流れである。

1975年に成立した民主カンプチアも食料困窮などを背景に都市にいた住民、資本家、技術者、知識人などから一切の財産・身分を剥奪して農業生産に従事させた。クメールルージュの支持層は農民だった。彼らが理解できない文化を否定し農民を持ち上げて見せることで権力維持を図ったのである。2019年はポルポト政権崩壊から40年の節目の年だったそうだが朝日新聞では170万人が虐殺されたと書いている。この結果としてカンボジアの成長はかなり遅滞することになった。

外に敵を設定して権力維持を図るやり方を右派ポピュリズムとすると住民の多数派を占める一般庶民に理解できないものを特権階級と名指しして権力維持を図る方法は左派ポピュリズムだ。菅政権は女性が特に「割高感」を感じている携帯電話料金の値下げを目標にあげたり、印鑑を古い文化の象徴であるとして攻撃して見せたり、安全保障関連で反対派だった学者をリストから外して見せたりと「庶民感覚に基づいた」「改革」を断行するという意味で左派色が強い。文化大革命でも古いものは全て悪とされて放逐されたそうである。庶民は単に何かを打ちこわしたかっただけなのだろうが多くの伝統が破壊されることになった。

一方で、左傾化しているのは菅内閣だけなのかもしれないと思うこともある。権力誇示が意外とうまく行っていないのである。長く自民党貴族に仕えるうちに自分たちは庶民派であるという自意識が生まれたのだろうが実はそれほど庶民派でもなかったということになる。単に権力闘争を繰り返す「中の人」である。

日本学術会議をめぐっては実は2017年にも同じようなことがあったようだが、その時は日本学術会議側が忖度して終わっている。だが、おそらく度重なる介入に腹を立てた日本学術会議は「今回は要望に答えずに」「拒否できるもんならやってみろ」と言って調整をしないリストを提出したのかもしれない。おそらくこれを挑発と捉えた菅政権がまんまと乗ってしまったのだろう。現在炎上中だ。

この問題が黒川検事長の定年延長問題と重ね合わせて語られるのは火を見るよりも明らかである。政府は臨時国会で定年延長問題を通すのを諦めたようだ。改革の旗手を気取ってはいるが実は既得権を持った専門家には切り込めていない。

政権と学者の間には高い緊張関係がある。これは政権と検察との緊張関係に似ている。つまりどれもこれも権力争いなのである。

だが議論自体には多くの人が関心を持っているようである。右派を称する人たちは学者へのルサンチマンを書き散らしている。彼らは政権のお墨付きを得ていると思い込んでしまった。

右派の言動は「十分に苦労している俺たちから言わせれば学者というものは何の苦労もなく好きなことをやっているいい加減な連中である」というような感情に彩られている。これは文化大革命に踊らされた若年層や都市住民を羨む農村の人たちの感情に似ている。彼らは敵が設定できれば良いので右派的なポピュリズムであろうが左派的なポピュリズムであろうがとにかく何でも構わないのだと考えることができる。実際に起きていることは社会主義政権のそれに近い。同じ人たちが中国を叩く時それは民族主義に彩られた右派的運動になる。

こうした人たちが大勢出てくるのは当然だ。日本が成長していたのはバブル崩壊までである。1992年だからもう30年近くも成長しておらず「成長を見たことがない人たち」が現役世代になっている。いいしれない不満が蓄積しているのであろう。

学術が「学問の自由」を叫ぶのは実は菅総理の人事きっかけではないと思う。おそらくすでに経済的に困窮していた。つまり「美術館はすでに荒れ放題になっている」のである。だが学者たちもこの闘争を通じて世間の支持を集めることはできない。故にこの闘争に勝者はいない。

これはもはや美術館を維持できなくなった国に似ている。目の前で起きているのは逆ギレした学者の反乱と一般庶民の専門家叩きだが実は目に見えないものの方が重要なのではないかと思う。海外に出て行ける専門家たちは日本に魅力を感じなくなるだろう。精神的に貧しい国でやってゆくよりも外に出て言った方が幸せになれる。

没落は目に見えないところで起こる。本当に怖いのは見えない方の没落なのだ。

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