菅総理大臣の英語が変であるという批判が自民党で噴出したらしい。外務省は「手伝えることがあったら手伝います」と言っているようだ。これだけ聞くと「叩き上げの菅総理大臣では仕方ないのだろう」とか「外交は安倍総理に手伝ってもらっては」などと思いたくなる。だが、これはちょっと考え直したほうがいいと思う。
だが、実際に問題になった英文を見て見ても特におかしいところは感じなかった。この記事を紹介したところネイティブスピーカーの人も「別にこれでいいのでは?」と言っていた。ネイティブスピーカーの人と日本人では「英語ができる人」の評価が違う。英語を使い慣れている人は実用的に通じるかを気にするのだが日本人は「雰囲気が外人っぽいか」を気にする。なぜそうなるかというと大方の日本人は英語が話せないからである。
アメリカ人は特に外国人のアクセントは気にしない。そもそも移民が多く親が移民と言う人も多い上にそもそも英語は特別な地位にはない。ヨーロッパのアクセントは逆に「かっこいい」と思う人までいる。さらに「とにかく通じればいい」のである。さらに記事で問題になっている時制も口語ではかなりいい加減である。
日本人は英語ができないので「囲気英語話者」がもてはやされる。特に麻生元総理と安倍元総理大臣は滑稽だった。麻生元総理大臣は祖父の英語が堪能すぎたためコチコチになってしまい変な癖がついていた。数少ない映像がYouTubeに上がっているが喉が緊張してぎこちない発音になっている。アメリカやイギリスに留学していたのだから、普通に話せば話せるはずである。ちょっとかわいそうな気もする。
最も恥ずかしいのは「ファーストネーム信仰」を持っていた安倍晋三元総理大臣である。おそらくテレビドラマなどを通じてアメリカ人は親しくなったらファーストネームで呼び合うという知識を持っているのだろう。そこで安倍総理大臣はやたらと大統領をファーストネームで呼びたがった。昭和的な価値観では、それがなんとなくかっこいいからだろう。
まあ、アメリカ人はそれでもよかったのだろうがプーチン大統領をウラジーミルと呼び「ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。」というポエムを披瀝して見せた時には「直視できないな」と思った。
日本人はこれを見て「いやーかっこいいなあ」と思ったのかもしれないが、これはとても恥ずかしい。そもそもプーチン大統領は領土問題が「日本との交渉に使える」とは思っていても領土を譲るつもりなどないことがわかっている。相手の国におもねってもいいことは一つもなかった。
おそらく、英語が分からない日本人は「場に慣れた人」の英語を良いと思いそうでない人の英語を下に見る傾向があるのだろう。卑近な例ではアジア系のアメリカ人が英語学校の講師になれないと聞くことがある。我々と似たジェスチャーをする人の英語が本物っぽく感じられないのである。
例えば河野太郎行革大臣はジョージタウン大学で学士を取っているそうで公式の英語は発音を丁寧で聞き取りやすい。発音の間違いもそれほどないそうだ。一方で小泉環境大臣の英語はやや日本語の訛りが残るものの堂々としている。Wikipediaによるとコロンビア大学で政治学の修士を取っているという。おそらくこうした人たちの英語はくだけていても批判されることはないのだろう。こなれて見えるからである。
この世代の人たちは格式張った英語よりも平易な英語の方が好ましいと言うことを知っている。吉田茂の時代の日本人はまだ緊張しながら洋行したのだろうがもはや日本人だからといって気後れする必要はない。堂々と振舞っていれば良いのだ。
一方、日本語は簡単な表現ではなく漢字語を混ぜた日本語が高級で立派であると言う認識がある。このためできるだけ難しい表現を混ぜた英語を高級だと思い込むことがある。また、ヨーロッパ系の仕草を交えた英語の方がアジア系の英語よりも立派なものに聞こえる。つまり、仕草や外見なども英語の評価に影響を与えている。
菅総理大臣の英語は「特にひどい英語」でもない。「これはひどい」と思われてしまうのは、おそらく自民党の議員さんたちが実際には英語を使えないからなのだろう。「いつかは話したいが留学経験もないので自分たちはとても無理だ」と思っている。日本人がいつまでたっても英語が使えない理由がよくわかるような話である。
そもそも菅総理大臣は日本の総理大臣なので英語が使えなくても一向に構わない。日本語で通しても構わないのである。齢の日本人には英語を話せた方が政治家として一流でありそうでないとアメリカに見放されてしまうかもしれないという変な思い込みが高あるのだろう。それこそGHQ時代の自虐的な認識である。それではとても国際的な交渉に打ち勝つことはできない。
変な思い込みは却って安倍総理のように滑稽な「外交通」を生んでしまうだけなので、今からでも認識を改めるべきだ。