実は今回の文章は完結していない。もともとの題材と今の疑問が違っているからである。前回、西浦教授が「自分で作ったモデルの弁護を自分でしなければならなくなった」という状況について書いた。「コロナ再生産数、更新止まった日本 足らぬ集合知」というなかなか深刻なタイトルの記事を見つけたのでその続きを書こうと思っていた。だが参議院の予算審議を見て別の疑問を持つようになった。「あの国会には何かが欠けている」ということに気がついたのだ。日本型議会政治は行き詰ったと思った。
登録しないと全体が読めないのでまず日経新聞の記事の大筋をまとめる。
新型コロナウイルスが収束したかどうかを探る鍵は再生産数である。だがこれが4月1日から提示されていない。
安倍政権は再生産数を提示しない理由を「二週間経たないと政策の効果がわからないからだ」と説明しているという。
ところが背景には深刻な事情がある。クラスター対策班のメンバーである西浦教授らのグループが単独で試算している。だがこれを検証するスキームがない。比較・検証するためには複数のチームを競わせたい。だが、人材がおらず西浦さん以外のチームが作れないのだそうだ。西浦教授も「複数のチームがあった方がいい」と言っているという。
算出根拠も公開されていない。西浦さんは公開データを基に算出していると言っているがそのモデルは明らかにされていない。専門家はモデルを出せと要求しているが政府は「専門家による査読付きの学術誌に掲載されるまでは公開したくない」と言っている。さらにPCR検査が十分に実施されておらず感染者数の全容がわからずモデルが有効なものかどうかはわからない。
ざっとこんな具合である。西浦さんはこの状態で自己弁護をする必要がある(そうしないと政治に意見を取り入れてもらえないので)うえに政府もうまくいっていると言いたいので大本営発表になる。だが、実際には彼らは「なんとなく負けているな」ということはわかっても「どれくらい負けているのか」はそもそもつかめなくなっている。
複数の問題があることがわかる。まず政府には隠蔽体質がある。おそらく悪意からではなく精度に自信が持てないのだろう。精度に自信が持てない数字をもとに政策を決めているので政策にも自信が持てない。自信がないから数字が公開できない。こうして秘密主義に陥ってしまうのである。数年にわたって安倍政権はこのような状態に陥ってきた。雇用の数字もGDPも統計には内閣の恣意的な操作が入っていると言われている。景気が悪いと誰もが思っていてもそれを証明することはできなかった。だが、新型コロナは医療リソースを現実的に逼迫される。偽装体質が可視化されてしまったのである。
ではなぜ数字に自信が持てないのか。その背景にあるのが協力の不在である。つまりインペ一体質だけでは大本営状態は生まれないのだ。
ドイツは検査体制を構築するにあたって検査ネットワークを構築したと言われている。日経新聞のこの記事は、モデルを作るにあたってイギリスの事例(インペリアル・カレッジ・ロンドン、オックスフォード大学、ロンドン大学)やアメリカの事例(国立研究所、ハーバード大学、ワシントン大学)が協力的に競争して成果を競っていると言っている。欧米の個人主義的と言われる。個々の研究機関の競い合いが協力になっている。一方、協調主義と言われる日本は実は相互協力が苦手である。表面上は協力してみせるが本当は相手がどうなっても構わないと考えるのが「和を尊ぶ」はずの日本人なのである。あるいは自分も突っ込まれたくないから相手のことは言わないでおこうと考えるのが日本人である。
再生産数がわからないので政府は自信を持って緊急事態宣言を解除することはできないだろう。欧米は早くも段階的解除に向かって動いているところがあり具体的な指標を見ながら政策調整をしている。
仮に政府が政策的な都合で緊急事態宣言を解除したとしても安心安全を求める国民は納得しないだろう。具体的には学校再開などに反対する保護者などがでてくることになる。だらだらとした自粛ベースの経済活動抑制も続くことになるかもしれない。さらに外国政府も「日本はエビデンスベースでは状況を把握できていないから潜在汚染国である」として渡航禁止を続ける可能性がある。オリンピックの開催は絶望的であろう。
「わからない」という問題は結局国民生活を疲弊させる。
もちろん全数検査をしろと言っているわけではない。偽陽性・偽陰性の問題なども承知している。だが今の数では足りない。なぜ検査ができないのか。
どうやら保健所もパンク寸前になっていてこれが検査数の抑制につながっているのではないかと思える。保健所協会の会長がオンライン会見し窮状を訴えたというニュースがあった。だがおそらくこの声は政府にも議会にも届いていない。
ここまでで十分長くなってしまった。この後安倍政権批判を展開するつもりだったのだが、国会の議論がどうもおかしいことに気がついた。与野党ともに「共通認識」を持って数字を確定させた上で対策を議論しようという機運がない。具体的に言うと国会審議に専門家の姿はなかった。どれくらい続くかがわからないのに延々と「この予算が足りない」とか「いやこれで足りるはずだ」いう話を繰り返している。そもそも議会も行政も計画や見込みを立てられなくなっているのである。
いつまで続くかわからないのに予算の意思決定などできるはずもない。おそらく与野党ともに現状把握を諦めているのだろうが、不思議と国会論戦を見ているとそのことに気がつかない。与野党ともに何と戦っているのかよくわからないのに「議論」を続けている。つまり、補正予算審議には解決すべき課題の姿形の提示がなされていないのである。日本の議会は課題の抽出をしなくても問題解決ができるだろうと思い込んでしまっていることになる。
おそらくそのツケはとても高いものになるだろう。
Comments
“日本型議会政治の行き詰まり 新型コロナ対策国会に決定的に欠けていたもの” への2件のフィードバック
見ていると政府は「ひょっとすると奇跡的に神風が吹くかなにかしてコロナが終息するかもしれなくて、そうなったらいろいろ対策をとっても準備をしても金をかけても無駄になる、損するから、できるだけぎりぎりまで様子見様子見をしているだけで、何かしているアピールをするだけで、何もしない、というのをすでに決め込んでいる気がします。
なるほど。バブル経済処理の時もそんな感じでしたもんね。コロナは梅雨時にはいったん収束したように見えるはずなのでそのあとの秋頃がまた大変になるかもしれません。