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新型コロナをめぐる文化の違い:集団主義の日本人と個人主義のスウェーデン人

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日本人は集団主義で和をもって尊しとなすと言われている。ところが新型コロナウイルス対応を見ているとどうやら他人を信頼したり協力したりするのが苦手なようである。これについて引き続き観察したい。

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先日来見ているように、日本では新型コロナ対策がうまくいっているのかそうでないのかがわからなくなりつつある。いろいろな背景があるのだろうがこのブログでは協力してクロスチェックする体制が作れないことが問題なのだと考えている。だが、この問題を考えて行くとかなり根深い文化の問題があることもわかる。それが日本型集団主義である。日本は個人主義的な民主主義を受け入れつつ「うまく」集団主義を温存した。集団主義には良い点と悪い点があるのだが、今回は悪い点が出ている。

日本型集団主義の一つの特徴は相互監視による抑制である。まずはパチンコ屋への恫喝が始まった。日本人は相互牽制に慣れているので密告や恫喝が起こる。彼らは個人で行動しているのだが心理的には「日本」という集団の一員になっているのだろう。確かに自粛要請に従わないパチンコ屋も悪いのだが普段なら恐喝は犯罪だ。だが「このご時世では大目に見てもらえるであろう」という見込みがあるようだ。テレビでは「コロナより人が怖い」というパチンコ屋の店主の声が紹介されていた。

パチンコ産業は特別後ろ暗いのではないかと思えるのだがそうとばかりは言い切れないようだ。

こうした脅迫は岡山県でも見られた。検問所を設けたところ脅迫が相次いだのだそうだ。こちらは「岡山に来たことを後悔させてやる」という知事の発言に反発したものと思われる。脅迫は集団感染を起こした京都産業大学でも見られた。AERAによるとコンビニで働いている中国人も脅迫を受けているのだそうである。今や自主的な恐喝が横行しているが、それを取り締まろうという機運はない。

こうした集団抑制は問題解決には役に立たないが、おそらく恐喝している人たちは「世の中がよくなった」とか「役に立った」という感想を持っているはずだ。

このように日本人は本質的に問題解決を選択しない。災害は誰かがやったのではなく自然に起きたことだ。「した」のではなく「なった」のだから収まるまで相互牽制して待つのである。この時に「どれくらい広がったのか観測しよう」と言い出す人はいない。

日本社会を見ているとこれが当たり前に思える。ここで例にあげたいのがスウェーデンだ。スウェーデンは近隣諸国と違って集団免疫獲得という戦略で対処している。Quoraを探したところスウェーデン人の文章があったので翻訳してみた。

スウェーデンは集団免疫を獲得させるために外出自粛が緩やかなままだ。高齢者施設を保護しようとしたがそれには失敗したので「死者が増えた」が失敗を認めなければならないと言っている。このスウェーデン人は「政府を信頼しているからこういう選択ができる」し感染を加速させているのだから「死者が増えるのは当たり前である」と言っている。

たまたま見つけた文章であってこれがすべてのスウェーデン人の意見だとも思えない。だが、「ここまで割り切るのか」と思ってしまう。よその国では軍隊が外出自粛のために駆り出されているが自国では病院を建てていると言っている。

おそらく日本人にはここまで冷静というか冷酷な割り切りはできないのではないだろうか。Newsweekの記事を読むとスウェーデンにも反対意見はあるそうだ。時事通信は「概ね市民から支持されている」と書いている。市民の側もソーシャルディスタンスを自主的に保つなどの行動規制をしている。このため5月には集団免疫を獲得できるのではないかという見込みを立てる人もいる。だが、どうなるかはわからない。日本は集団が置かれて<なった>環境を甘んじて受ける社会だが、スウェーデンは個人の選択の自由を大切にするという異海でも「究極の<する>文化圏」である。

政治家が「明確に説明責任を果たす」裏にはこれくらいの割り切りが必要なのだということがわかる。

日本人は「死者が増えるのは嫌だしかといって経済が滞るのも嫌だから政府でうまいことなんとかやってほしい」と考える。と同時に「コロナになってしまったものは仕方がない」と考える。日本は官僚主導の歴史が長く「官僚がうまいことやってくれれば議会も国民も意思決定しなくてよかった」という伝統がある。決めることにもすることにも慣れていないのである。かといって政治も国民の延長になっていて自分たちで責任を取って決めることは出来ないだろう。その意味では独立した議会という主体は存在しない。

相互協力体制を取らない日本人はおそらくここまで他人を信頼することはできない。いつ獲得できるかもわからない集団免疫を獲得するまで数年はこの状態が続くのかもしれない。ただ、日本人は自分より弱いものを見つけて恫喝するだけで社会システムに対して抗議運動を起こすことはないだろう。これはある意味不幸なことだが最終的な社会混乱を起こさないという意味では評価できることかもしれない。つまり数年間ひたすら耐え続けるのだ。

例えば、民主主義の伝統の短い南アフリカでは外出禁止令に背いたとみられる男性が射殺されたという事件が起きている。買い物でソーシャルディスタンスを保たせるためにゴム弾で脅したりしているそうだ。日本人はATMやスーパーのレジで整然と待つことには慣れているのでこうした混乱が起こることはない。それぞれの国は異なった社会資産を蓄積しており、結局はその範囲でしか問題が対処できないことがわかる。

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