総理大臣が各世帯にマスクを2つづつ配ると発表して日本中の失笑を買ってから数日が経過した。大きく分けて三つの問題がある。一つは総理大臣が国民の感情を全く理解しておらず、総理の取り巻きが全く無能で、国が流通について全く把握していない。この結果総理大臣は権力という檻に閉じ込められている。では権力の檻から出るためにはどうしたらいいのだろうか?
前回は「権限委譲して重荷から解放されるべきだ」と書いた。これについてはQuora側で「単なる丸投げになってしまうのでは?」という質問がついた。日本人がフォロワーやサーバントという支援型リーダーシップを知らないという事情が垣間見える。そもそも日本にはリーダーシップという考え方が定着していないのかもしれない。だが、今回考えるのはそれとは別のことである。それが「課題の分離」だ。
朝日新聞によるとマスクの国内供給はもともと月4億枚だったそうだ。各メーカーに補助金を出し増産を依頼し3月には月産6億枚に増えたとしている。ところが需要がそれを上回ったのか国内では品不足が続いている。1月の一週間だけで9億枚売れたという統計もあるという。日経ビジネスもマスク供給業者に話を聞きにいっている。
だが供給が増えてもマスクは店頭に出回らない。市場が混乱しているからである。ではなぜ市場が混乱していて誰がその原因を作ったのだろうか。
本来必要がない人がマスクを買っている可能性があるのだが、彼らがなぜマスクを必要としているのかよくわからない。おそらくなんとなく安心したいためにマスクを買いあさっている人が多いのではないかと思われる。このためマスクの需要が必要ない数に膨らみ品不足感がいつまでも解決しない。そしてさらにマスクが足りなくなる。悪循環である。
そもそもマスクには予防効果がない。日本医師会横倉会長も「マスクをしていれば安心だ」という安全効果だけがあると断言している。WHOも感染拡大期に布マスクを使用するのは「いかなる状況においても勧めない」と言っているそうだ。朝日新聞が伝えている。
それでも総理大臣がマスク政策にこだわるのは経済官庁出身の官僚が「全国民に布マスクを配れば、不安はパッと消えますから」と総理大臣に吹き込んだからだそうである。これも朝日新聞が伝える。朝日新聞はおそらく名前を知っているが名前は書かない。これまで大手を振ってきた経産省官僚への意趣返しである。田崎史郎さんは「スピーチライターだと思うと」ニヤニヤと笑っていた。こうした思い付きが総理によって拡散されますます不安になる。
それを拡散するのが野党の役割だ。厚生労働省が原口議員に「布マスクも使い捨てマスクも予防効果はありません」と説明して逆ギレされていた。原口議員は布マスクだけが効果がないという答えが欲しい。総理大臣にケチをつけたいからである。だがそもそもマスクには予防効果はないのである。
本来ならば正しい知識を伝えてマスク不足解消に努めなければならないはずの官邸は非科学的な「安心・安全」を優先して当事者能力を失ってしまった。さらにマスコミと野党議員がこれを拡大する。ある意味いつもの光景なのだが、今回は実害がある。医療にマスクが届かない。
マスクのそもそもの目的が理解されていないというのは国会の答弁を聞いていてもわかる。逢坂議員は「マスクが十分に流通せず、感染の恐怖にさらされている。国内のマスク増産を支援すべきだ。」と質問したようだ。
ところが総理大臣は「さらなる増産を支援する。また、再利用可能な布マスクを全戸に2枚ずつ配布する。店頭でのマスクの品薄が続く現状を踏まえ、国民の不安解消に資するよう速やかに取り組む。」と答えている。
国会では、国会議員を検査することもなく単にマスクをつけてみせる「マスクパフォーマンス」が始まった。日本人は反省せずその場その場に流されて空気による意思決定を続ける。このため最初の間違いが修正されることはなくどんどん間違いが積み重なって行く。そして国民はそれをみて「ああ政府には打ち手がないのだな」と不安を募らせる。
混乱だけを延々と記述していても仕方がないので分析してみよう。
背景には日本人分析ではおなじみになった二重思考がある。いわゆる本音と建前の使い分けである。最初の思考はマスクは感染予防に効果的だという思い込みだ。ところがこれが「非科学的だ」ということがわかっても日本人はマインドを変えない。だが自分が変わらないことを責められると面倒なのでマスクは他人に感染させないためだという建前で説明することにした。こうしてマスクは自分を守るためであるという本音がカプセルに入って固定されてしまった。
おそらくマスクパフォーマンスに参加した国会議員たちは自分がなぜマスクをつけているのかをよく理解できないにもかかわらず「なんとなくみんながつけているしマスクをしてないと不安にみられるだろうから」という理由でマスクをしているのだろう。本音と建前を分けているうちに「とりあえず何かしないと不安」と思う人が出てくるのである。根拠なき「安心・安全」が生まれる瞬間だ。
札幌ではこの安全志向に「児童生徒らしく」という別の思い込みが重なり「白いマスクを着用しろ」と指導する学校があったそうだ。目的を完全に見失っているがこれが日本人なのである。
おそらくこれが国内でマスクが足りなくなっている理由である。日本人は自分たちがなぜマスクを必要としているのかがわかっていない。わかっていないのだがなんとなくマスクをつけなければならないという空気が広がっているのでマスクが必要である。だからマスクが見つかったらマスクを買ってしまうし、ないと焦るのだ。
おそらくこんな状態でマスクをどんなに増産してもマスクが足りることはないだろう。根本にある不安は消えないからである。
さらにここに「自分が無能であることを知られたくない」という官邸のマインドが入るともういったい何を議論しているのかがわからなくなる。これを分解して議論をすることもできない。過去の様々な経緯が癒着して一つの複合体を作っているからだ。
この思い込みは大変危険である。国民はマスク不足に不安を感じ続け、医療従事者は危険にさらされ、感染者が出れば医療機関が止まってしまう。地域の医療機関が止まれば新型コロナ対策ができなくなるだけでなくその他の患者も救えなくなるだろう。
台湾のようにマスク流通をトラッキングするシステムを作るべきであるという考え方はある。韓国のように国がマスクを買い上げて必要な人たちに配るというアイディアもあるだろう。韓国ではマスク5部制というものを作ったそうだが混乱もあるそうだだ。だがその根底にあるべきなのは「誰がマスクを必要としているのか」という国民の理解だろう。
マスクは国民の間に広がった安全安心思考のために闇に消えてゆく。そしてそれを先導しているのは他ならぬ日本政府なのだ。権力に閉じ込められた人は思い込みで暴走しシステム全体を混乱に陥れるのである。
こうした思い込みの檻から脱出するために、我々は目の前の問題に注目するべきだ。本音と建前の二重思考という便利だが副作用のある習慣は今すぐやめるべきである。