ざっくり解説 時々深掘り

なぜ日本人は承認欲求をネガティブに捉えるのか

Xで投稿をシェア

本日のテーマは日本人と承認欲求である。日本人は承認欲求をネガティブに捉えることが多いと思う。この理由と意味づけについて考える。最終的に行き着いたのは「個人主義」である。

Follow on LinkedIn

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

|サイトトップ| |国内政治| |国際| |経済|






このことについて考えるきっかけになったのは、フランシス・フクヤマの著作「政治の起源」だった。承認欲求という言葉が出てくる。フクヤマは個人が社会に対して承認欲求を持つことを当たり前だと考えていてそれが持続的に満たせるのは自由主義陣営だけだと主張している。

断片的な内容ではあるがNoteの記事を見つけた。「歴史の終わり」でも同じ主張をしているようなので継続的な内容なのだろう。最近では「IDENTITY (アイデンティティ) 尊厳の欲求と憤りの政治」という著作も出しているそうである。かつては経済成長する優れた体制が自由主義といっていれば良かったのだが中国が台頭してくるとこれを「幸福」に置き換えてやらなければならない。この「幸福」の源泉が承認欲求と自己顕示だったのかもしれない。

ところが、日本人は承認欲求にあまり良いイメージを持たないように思える。「あの人は承認欲求が強すぎる」というと「甘えている」か「わがままである」というような印象になる。あるいはかまってほしいから「うざい」というような意味合いで使われることもあるようだ。

改めて考えるとその意味がよくわからない。なぜ日本人は個人の承認欲求を嫌うのか。

まとまった記事を探してネットを見てみた。まず見つけたのは「承認欲求という”病”」というビジネスインサイダーの記事だ。ビジネスインサイダーの記事は、日本人は自分の欲求ではなく「望まれた自己」を演じてしまうために不幸になりやすいと書かれている。ビジネスインサイダーの記事はこれを「承認欲求の呪縛」といっている。同調圧力が高く突出した人がでないのでイノベーションが生まれない原因だと考えているようである。

確かにこれはこれで正しい気もするのだが、ネットなどを見ていると歪んだ自己承認欲求から他人に食ってかかる人が多いのも事実だ。認めてもらいたいし認めてもらえないなら相手を引き摺り下ろして破壊してしまいたいという欲求が見られる。

ビジネスインサイダーの記事は社会を表面から見ている。日本人は表面では社会に対してい子でいたいと思っていて、社会もまた承認欲求をマネージメントの手段として利用している。SNSというのはその裏面なのかもしれない。おそらく社会的に良い子でいたいということがパフォーマンスを低下させる。すると承認欲求が満たせないので裏に回って破壊衝動に変わるという二面性があるのかもしれない。体制を破壊するのではなく、相手の承認欲求を個人として満足させるわけでもなく、周囲を潰して自分だけが集団に浮かびあがろうとする。それはまるで天上に上がる蜘蛛の糸に群がる人々のようだ。

このことから「個人としての承認欲求が<健全に>満たせれば」問題が解決するだろうことはわかる。ビジネスインサイダーはこれを乗り切るために「多様性を持つべきだ」といっている。おそらくはアメリカのような社会だろう。

実際にアメリカで多様性のある社会に日本人が適合するのはそれほど難しくはない。日本人も個人としての承認欲求を持っているし、社会の約束事に従うのはそれほど苦痛ではないからだ。つまり<健全な>承認欲求を持つこと自体はそれほど難しくないのだ。ただ、若いうちに違った環境に接触した人は複数の文化に即した行動をとることができるようになるがそれには年齢的限界があるように思えるのだ。日本人は成功した人ほど村の掟を体に染み込ませてしまうからだ。

これは、別の課題を考えていた時に作った図である。日本人は自分の結論をSNSで人に説明なく押し付けることがある。Quoraのような対話型SNSではそれが相当のストレスになっているようだ。

それを説明するために「視座」という概念を使った仮説を作ってみた。

日本人は村に住んでいる。村とは自分と我々の間に区別がない社会である。自分が知っていることは我々のメンバー全てが知っているというような社会である。

そういう社会では細かい説明をしなくても自分の常識を相手に押し付けることができる。だがSNSはそうではないので対立が起こるのだろうと説明した。

さらにSNSは実はそれを見ている大勢の人がいて、彼らにもわかるように説明をしてやらなければならない。だが村に住んでいる日本人は視座を動かすことができないし自分が他者の目に取り巻かれていることすらわからない。

残念ながらこれは年配者に多い傾向である。今まで終身雇用の会社に勤めていて定年退職したような人たちだ。彼らは村が当たり前の環境だと思っている上に自分は社会的に指導者の立場にあると思い込んでいて修正はほぼ不可能である。学者と言われる人たちもそのような傾向があるようだし、教育関係者に至っては人生の早い時期に村意識を身につけてしまう。学校で先生と呼ばれているからだろう。その視座を持ったままSNSに参加して問題を引き起こすか、あるいは通用しないと諦めて逃げてしまう。

承認欲求が正当なものと考える欧米の傾向も実は自然にできたものではない。アドラー心理学の「承認欲求」について書かれた文章を見つけた。「嫌われる勇気」というベストセラーの紹介文である。アドラー心理学は社会の要請に応えるという承認欲求を自己の欲求に置き換えるという訓練を促す。日本では周囲に期待されること=承認欲求になっているという意味ではビジネスインサイダーの記事に似ているが、それが日本特有の問題では実はなかったということもわかる。

適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

アドラー心理学は、あなたの「承認欲求」を否定する!

議論はここから「課題の分離」という問題と人とを分離するところに進んで行くようだ。アドラー心理学はオーストリア人が「個人」というものを獲得するプロセスで作られた心理学でのちにアメリカで開花した。アメリカもまた「社会」が形骸化してゆくプロセスの中で個人というものを確立せざるをえなくなった社会である。

おそらく話し合いができる社会を作るためには少なくとも次のようなステップを積み重ねる必要がある。

  1. まず、私という視座を持ち
  2. あなたという視座を認めた上で
  3. 第三者という想像上の視座を確認し
  4. これを敵味方に分けることなく
  5. 課題を分離する

ある程度の若い年齢ならこれを理屈ではなく体で体得することができるのだが、日本人が自力でこれを獲得するのはとても大変そうだ。モデルになるものがまったくないからだ。

前回は、日本人は集団的に政治に関わってきたが安倍政権がそれを壊してしまったというような文章を書いた。これに代わる政治機能を作るためには西洋式の個人主義を導入するしかない。

おそらく個人主義の確立に失敗すれば日本は形骸的民主主義と家産主義的国家運営が跋扈する二流の国になってしまうだろう。オーストリア人やアメリカ人ができたのだから日本人にもできるだろうとも言えるし、そんな伝統はなくこうした試みがすべて失敗してきているのだから当分は無理だろうとも考えられる。

果たしてどちらの予想が当たるのか今はよくわからない。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで