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安倍政権の限界が一気に露呈しているが誰も敗戦が認められない

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新型コロナウイルス対応に対する混乱が広がっている。これを見ていて安倍首相の重大な限界が見えたと思った。変化する状況に対応できないようなのだ。これがわかると安倍首相のこれまでの行動原理がわかると思った。

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新型コロナウイルスがいよいよ市中感染期に入った。検査難民が増え、ついには岡田晴恵さんが「後々政府への恨みに変わるだろう」と言い出した。尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長は「飲み会も自粛すべきだ」と危機感をあらわにしている。これまで各地の感染症を見てきた専門家は明らかに心配している。

この専門家会議の提言内容を受け安倍首相が対策会議を行い方針を発表したのだが、髪は乱れ下をうつむきながら官僚が書いた紙を読み上げるだけだった。いつものような「力強いリーダーシップ」は見られなかったのである。

その理由はすぐにわかった。加藤厚生労働大臣が会見をしたのだが、加藤さんは状況を説明した上で記者に的確に答えていた。加藤厚生労働大臣は東京大学の経済学部卒業だそうだ。安倍さんには状況を把握して自分の問題として捉える能力がないのだろう。

もちろん、尾身さんにも加藤さんにも不満な点はある。特に厚生労働省を誰もグリップしていないという意味では加藤さんの責任は重いだろう。枝野幸男議員の質問を聞いていると、各省庁が「他人事」として厚生労働省にだけ対応を押し付けようとしているという様子もわかる。かろうじて当事者意識を持っているのは国土交通省と文部科学省だけのようだが、経済産業省などは全く関心を持っていないらしい。これが、安倍政権の官邸主導の帰結であることは間違いがないだろう。

もちろん、政府の対応がすべて正しいとは思わない。だが、加藤大臣には少なくとも時事刻々と変化する状況を理解した上で判断をする能力がある。そして、おそらく安倍首相にはそれができないのだろう。安倍首相は状況を隠蔽しているわけではない。彼には状況が判断できないし責任を引き受けることもない。意志の問題なら非難もできるが、残念ながらこれは能力の問題でありどうすることもできない。

この違いを見て加藤さんを暫定首相にするべきではないかと思った。加藤さんは大蔵官僚出身であり加藤六月さんの後を継ぐために加藤姓に変えたという方なのだそうだ。自民党がある種の土着新興貴族社会になっていることがわかるエピソードではある。官僚出身なので「能力はある」が「政治家として最終責任を負う」気構えは持てないのかもしれない。であれば、首相に据えて責任をとってもらうという覚悟をしてもらうべきだと思ったのである。首相というのは日本ではそういう役職である。

「安倍首相が国民に訴えるべきだ」という意見が出ているようだがおそらく彼にそんな能力はない。却って国民の不安が増すだけだろう。

細かいことがわからない安倍内閣のもとで昨日の予算委員会はさらにぐちゃぐちゃになっていた。

新型コロナウイルス対応の他に検察長定年延長問題というのがある。そもそも人事院が「法律の解釈変更はない」といい、それを後で「間違えた」といった。次にこれまで検察官をどう扱うか取り決めはなかったと法務大臣が発言し、その後で1980年の文章に検察官についての取り決めが出てきた。さらには法律の解釈は口頭で変えたといい、今度は口頭ではなくメモがあったが手渡しだったので日付がないという言い訳が提示された。これは宿題をやらなかった子供の言い訳ではない。国会の議論なのだ。

森法務大臣は明らかにリングの上にぶっ倒れているのだが、リングサイドからタオルを投げ入れる人は誰もいない。内閣は「敗戦が認められない」状態になっていると言えるだろう。おそらく複雑さが処理できない安倍首相には目の前で何が起きているのか把握する能力はない。

時事通信は「事実上撤回」と書いているが、森さんは撤回するとは言っていない。なので答弁記録は残ったままである。この記事を読んで「何が書いてあるか」わかる人は誰もいないだろう。なぜなら発言の時点でもうぐちゃぐちゃになっているからである。

知性の破壊と無効化が安倍首相最大の発明なのだ。

安倍首相は時事刻々と変化する状況に対応することはできない。おそらく彼が最初の内閣を放り出した後にした発明は「制御できないものは自分が制御できるレベルに落とし込もう」と言う一種のコペルニクス的転回なのだろう。これがおそらく彼を支持している「政治が理解できない人たち」のニーズと合致したのではないだろうか。つまり「政治主導」によって日本の政治が国民のレベル(つまり議会の平均的知能)にまで降りてきたわけである。

実際にこれは有効な対策だった。国会自体がぐちゃぐちゃになってしまえば、それを書いた記事もぐちゃぐちゃになる。そして読んでいる人はみな「わからないからもういいや」となってしまうのである。見事な発明と言っていい。

これまで政府は彼の情報処理能力の低さに振り回されてきた。あるものは怒り、あるものは呆れ、最終的にはぐちゃぐちゃが容認されてしまう。しかし、我々市民生活への影響は目に見えなかった。

ところがウイルスはこうした事情を忖度してくれない。目にも見えないのでどれくらい蔓延しているのか(あるいは蔓延していないのか)もわからないのだが、実際に発病はする。我々が無視してきたことがすべて最悪の形で我々に戻ってきていることになる。

ここに来てオリンピックの中止案が出てきた。古参のIOC委員がそう言っているがバッハ会長が言わせているのではないかという憶測もある。バッハ会長は発言していない。こうして硬軟使い分けて相手を動かそうとするのがヨーロッパの政治である。白黒はっきりしたファクトと正解が大好きな日本人には太刀打ちできない。

安倍政権に疑念が持たれ国際世論が盛り上がれば「中止ではなく欧米で開催」ということになるだろう。せっかく支払った放映権料を捨てたいと思うテレビ局もないだろう。おそらくIOCはそういう流れを作ろうとしているはずだ。これまで外国の安倍首相評がいくら悪くてもそれは国内事情とは関係がなかった。だが、IOCもおそらく政権に忖度することはない。あるいは東京オリンピックは取り上げられてヨーロッパや北米で開催されることになるのかもしれない。

この中で置き去りになるのは一般の人たちである。「SNSがなかったら」と考えると恐ろしい。検査も受けられず、自分が新型コロナウイルスに汚染されている稼働かもわからない人が自己責任で自宅に閉じ込められ「運が悪かった人」として社会から遠ざけられていただろう。今Twitterでは「検査拒否」というハッシュタグができ、日本の統治の失敗が可視化されている。政権に忖度しないウイルスをコントロールするのは不可能だし、IOCなどの国際世論もコントロールできない。

結局安倍政権とは弱者に犠牲を押し付けあるものをなかったことにすることにより問題を隠蔽してきただけだった。それは「表面上だけでも穏やかに暮らしたい」我々の弱い心につけ込み隠蔽と忖度は許されてきたのである。我々は危機の中にある今だからこそ、どうしてこうなったのかを考えなおすべきだ。

この文章は割と気軽に「加藤暫定首相」というようなことを書いた。しかし、安倍首相のあの憔悴ぶりを見るともしかしたら前回のような政権の投げ出しもあるかもしれない。予算委員会を見る限りマスクをしている国会議員もおらず平和な日本が保たれているのだが、一歩外に出ればパニックに近いようなことはすでに始まっている。安倍首相はおそらく暖かい支持者たちと何もないふりをする永田町に引きこもる道を選びそうだが、あるいは政権の投げ出しもあるかもしれない。

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