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家産制についてゆるく考える

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フランシス・フクヤマの本「政治の起源」(政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで)と(政治の起源 下 人類以前からフランス革命まで)を読んでいると家産制という言葉が出てきた。よく知らないので調べてみることにした。社会学や政治学の勉強をしたことがないのでよくわからないのである。調べて行くと「悪口」として使われることが多いようだった。

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フランシス・フクヤマは家産制を「民主主義からの退行」と考えているようだ。フクヤマはもともとネオコンだったとそうなので自由主義者の立場から古い体制を批判しているのだろう。そこで、さらに一般的な使い方を調べてみようと思った。科学的に厳密に議論した文献が見つかるかもしれないと思ったのだ。

だが見つかったのはいずれも単なる悪口だった。まずGoogleで山口二郎さんの記事が見つかった。おそらく社会学者としては尊敬される立派な方なのだろう。だが、私の印象では「反安倍の過激なコメンテータ」ポジションが強い人である。社会学者さんなので「家産制を知らない」とは全く思わないが、特に説明がなくネガティブに使われている。おそらく「私物化」という意味で使っているように思える。官僚を自分が先祖から受け継いだ下僕のように使っているという意味ではなんとなく成り立つ表現ではある。

家産制とは、文字どおり、権力者の私的財物と国家の公共物との区別が存在せず、権力者の私的な目的のために国家の財物を費消したり、権力を行使したりできる体制である。また、権力者と家産官僚には身分的隷属関係がある。

安倍長期政権下で進んだ「家産制国家」への逆行

立憲民主党の議員もフランシス・フクヤマの別の著作「政治の衰退」から家産制を取り出して、これも安倍政治批判に使っている。

フランシス・フクヤマ氏の新刊「政治の衰退」から再びです。最初に用語の定義から入りると、「家産制国家」とは「領土や人民などがすべて君主の私有物となされる国家。封建時代の国家、ことに領主国家がこれにあたる」と定義されます。

家産制国家化する日本

どうやら家産制は「リベラル」な人たちが旧体制を批判するのに使っている用語なんだろうなということがわかった。

両者に共通するのは、安倍政治というのが「国家家産主義」とでもいう体制に向かっているという認識である。つまり国家を私物化し「自分が先祖から引き継いだか」のように好き勝手に振る舞うのが安倍政権の正体であるというような見方である。

「面白いな」と思うのは、フランシス・フクヤマがそもそもネオコンと呼ばれる極端な自由主義擁護者であるということを知っているからである。立憲民主主義とか左派リベラル主義とはほぼ対立するようなポジションのように思える。おそらくフクヤマにとっての理想は現実のアメリカ政治であり、日本の左派リベラルにとってはまだ見ぬ理想の政治なのではないかと思える。だがつかているのは同じ家産主義という言葉だ。

フランシス・フクヤマはおそらくアメリカの民主主義を至上のものと考えている。その全身はイギリスの政治でありイギリスの政治は国民の積極的な政治参加により国家権力との間にバランスが取れた理想の政体だ。この状態では強力な国家体制・法の支配・説明責任がバランスよく存在していて、なおかつその中で社会承認を目指す個人が自己実現できる。

家産制という言葉を最初に使ったのはマックス・ウェーバーだそうだ。Wikipediaで読んだところでは「西洋というのは合理性を持った優れた文明である」という立場から、合理性について研究したように読める。ウェーバーは支配体制を三つに分類したと書かれている。

  • 合法的支配
  • 伝統的支配
  • カリスマ的支配

この伝統的支配の中に家産制と封建制があるそうだ。もともとは王が家の財産を父親のように支配するというのが家産制だそうだ。ところが国家規模が広がると家産制は成り立たなくなるので封建制に移行するというということである。つまり、識者たちは「民主主義が対抗して封建主義を通り越して家産制国家に逆戻りする」と言っているのだ。

この時代は「社会学」が出てきたころでまだ構造主義的な文化人類学はなかったはずだ。おそらく断片的な文献などを基にして非キリスト教系の文化を研究し、それに基づいて支配や国家の見方を観念化しているのだろう。心理学的な研究手法もなく「価値判断を全て学問からとりはらおう」という考え方もあったようだ。さらに、かつて政治問題化した暴力装置という言葉もウェーバーの言葉だそうである。国家が合理的に運営される限りにおいて軍隊や警察力などの暴力は容認されるという考え方である。つまり、国家権力というのは概ね肯定的に扱われている。だが、民主主義以外の体制は合理的ではないという考え方である。

確かに安倍政権は民主主義体制からは先祖返りしているように見える。これが安倍さん個人の問題なのか、あるいは体制全体の問題なのかというのは議論の分かれるところであろう。だが、これもまた多くの人が指摘するように、そもそも日本には説明責任と法の支配の概念はそれほど定着していない。なのでそれを回復させるのに「説明責任」を求めても無駄である。

安倍政権には「自分たちの好きなようにやりたい」という気分はあるが、おそらくはそのために支配者としての地位を受け入れようという気持ちはないような気がする。ウイルスに国をめちゃくちゃにされれば話は別だろうが、おそらくは国家予算の私物化とだらだらとした統治の形骸化が進んで行くのではないだろうか。

フランシス・フクヤマは自由主義の擁護をするときに中国という大きなアウトライヤー(例外)について取り組まざるをえない。また、山口や立憲民主党の議員たちは日本にはそもそも西洋流の民主義はなく別の統治原理があったという点を避けて通ることはできないだろう。家産主義という言葉を軸にそんなことを考えた。

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