このところ、オウム真理教の問題と杉田水脈議員の問題を考えている。前者は国家が人を殺してもいいのかという問題であり、後者は生産性のない人間は生きていても仕方がないのかという問題だった。どちらも命の選別を扱っている。この両方を一緒に考えることで日本人が西洋とは違った世界を生きていることがわかる。敬語世界を生きている上に、絶対神がいないので人間がいろいろなことを決められるのである。
オウム真理教の問題でジャーナリストの江川紹子が面白いことを言っている。江川さんは自身も被害者(事件化はされていない)なのでオウム真理教に対して処罰感情があるようだ。教祖の死刑は仕方がないことだと考えている。だが、命令を下したのは教祖一人でその他の人たちは別だとも考えているようである。彼女は麻原彰晃元死刑囚は処罰されるべきだと考えているので正気に戻った教祖に事件について聞くべきだったと主張する人に感情的とも言える反応を示す。
事実に基づかず、なんら具体的可能性が見られない、威勢のいい言葉って、なんて空疎なのだろう。 https://t.co/jBzThs6VAJ
— Shoko Egawa (@amneris84) 2018年7月26日
だが、一方で弟子たちについては真相究明に役に立つと考えているようである。
面白いのはこの議論のもとになった森達也という映画監督の人も江川さんも「役に立つ人は死刑を執行しないで調査を進めるべきだ」としているという点である。田原総一郎も同じようなことを言っているところをみると、これは日本人に共通する態度らしい。
つまり、役に立つ人と役に立たない人を峻別して、役に立たない人は先に執行しても構わないと江川さんは考えており森さんも「役に立つことがあるのだから」という点を論拠にして死刑をやるべきではないと考えている。この論争だけを見ると彼らは対立しているように思えるが、実は同じ立場に立っている。
ヨーロッパの死刑廃止論もかつては犯罪抑止や冤罪の回避などの機能論によっていたようだが、実際に死刑が廃止されてしまうと「国家は人の命を奪う権限を持ち得ない」というイデオロギーにとって代わられる。ドイツ政府は「死刑は野蛮だからやめるべきだ」と言っている。いったん社会的了解ができてしまうと「死刑を行っている国は遅れている」という感覚が生まれる。これはかつてあった仇討ちが禁止されてしまうと「それは前近代的だ」という感覚が得られるのに似ている。だが、武士社会においては「家族の心情や伝統はどうなる」という反発があったであろうことが予想される。つまり、日本は未だに国家が国民にかわって「仇討ち」をする制度を温存していると言える。
日本人は「その判断が正しいならば、他の人間が命を奪っても構わない」という社会を生きていることがわかる。これを杉田問題に展開すると面白いことになる。杉田さんは「生産性のない人間に補助をすべきだろうか」という問題を提起した。また別の自民党議員も限定的人権論に立っている。
憲法で定められた国民の義務は「勤労、納税、教育を受けさせること」。義務を果たしていれば権利を主張して良いと思うし、どんな生き方をしようとどんな考えを持とうと、それが犯罪でなければ個人の自由だと私は思っています。自由には責任が伴いますが、それを覚悟で私も自由に生きています。
— 小野田紀美【自民党 参議院議員】 (@onoda_kimi) 2018年7月25日
これを広く捉えると次のような定義が得られる。それは、生存を許されるのは社会に許容された人たちだけであって、誰が生きて良いのかは私たちが決めるということである。Twitterや新聞ではこれに対する反対記事がたくさん出てくるので、国民の間に反発があることがわかる。
だが、人々は何を反発しているのだろうか。
死刑判決を受けた人の中でも「役に立つ人間は生かしておいて利用すべきだ」という論に反対する人はあまり多くないのだが「自分が役に立たないと認定されたら殺されても構わない」という人はそれほど多くない。これは日本人が「限定的肯定感」の世界を生きているからであろう。
だが、これを「絶対神的世界」を生きている人が同じことを考えると、「他人にそういうルールが設定されたのだから、自分にもそのルールが設定されても文句は言えない」ということになる。日本人のように意思決定を保留しておいてその時に都合の良いように考えようとは思わないからだ。
だがその肯定感は限定的なので「生産性がない」と「世間から」認定されたら姥捨されかねないという恐怖感は芽生える。だから、自分には生きてゆく正当性があるということを証明しなければという気分になってしまうのだろう。
Twitterで「寝たきりになった人であっても世話をしている誰かに給与が支払われているから生産性がある」と主張するTweetをみかけた。これはGDPへの貢献を「生産」と見なしており、生産性と生産を誤認しているのだが、その裏にあるのは、役に立たないと認定された人であっても役に立っているとみなされるべきだという止むに止まれぬ気持ちなのだろう。ただ、これを受け入れてしまうと、経済効率性があげられるように効率的に世話されなければならないということになってしまう。人間の価値はGDPへの貢献で決まるということを受け入れてしまっているからだ。介護される人はものではないのだから、ちょっとこれは受け入れ難い議論であろう。
この議論から抜け出すためには「どんな人であっても生存権や人権などが奪われてはならない」という前提をおかなければならない。つまり、限定条件をなくしてやる必要がある。
だが、絶対神の概念を持たず、人間が恣意的に条件を決める日本人にはなかなかこの点が認識し難いのかもしれない。
基本的人権を受け入れた人たちはおのずと死刑の廃止論に傾くのではないかと思う。そうしないと自分の生存権も限定的なものだということを受け入れざるをえなくなり、いつまでも不安がつきまとうからである。