ざっくり解説 時々深掘り

理念なき国家の行く末

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安倍総裁の総裁三選が現実味を帯びてきた。一連の報道で興味を惹かれたのが憲法改正と安倍首相の関係である。これまで憲法改正については「他人に押し付けられてきた夢」だと分析してきた。つまり、実際は岸信介が果たせなかった夢の続きを見ているか、それを端から見ていたお母さんの夢ではないかと考えていたのだ。

どうやら、安倍首相にはさしたる政治的野望はなく、全て首相でい続けるための行動にのみ熱心なようだ。考えてみればこれまでも政策についてはさほど関心は示さずすべて部下に丸投げしてきた。すべてヒモがついていて支持者の望みを叶えることだけが目的になっている。さらに、豪雨災害にも興味がないようだ。これは政策だけでなく統治にも興味がないことを意味している。

首相はこうした「雑事」を忘れて総裁戦に向けた票固めにのみ専念したかったようだ。今回も閣議をお休みして私邸に引きこもろうとしている。さらに三選後のライバルを潰すための工作もしている。今の総裁選挙で勝てなくてて善戦されてしまうと「次世代のリーダー」という印象がついてしまうために、スキャンダルを探して芽を摘んでおこうと考えているようだ。岸田文雄の面子を潰すために「会っていない」と面会を否定したり、面会の内容をリークして優柔不断ぶりを宣伝したりというのがその一例である。

政策にも統治にも興味がない人がどうしてあれほど憲法改正にこだわるのかを考えてみた。来る参議院選挙に勝つためにはなんらかのプレゼントが必要だと考えるのが安倍流だろう。だから、選挙で自民党が勝ったら「何かいいことが起こる」か「悪いことが避けられる」という見込みがなければならない。だが、こうした銃弾を使い果たしてしまったのではないだろうか。

ところが国の財政はことのほか厳しいらしい。最近わかったのは豪雨災害の時に地方にばらまくお金はなく、小学校にエアコンすらつけられないという厳しい状況である。「ケチ」という見方もできるのだが、実際にお金がないのだろう。こうした状況で「地方に夢を見てもらう」ことは難しい。

そこで最終的に残ったのがお金のかからない夢である。憲法というルールを変えれば全てがうまく行くとすれば、議員も頑張るだろうし、有権者もついてきてくれるかもしれない。ただ、ここで問題が出てくる。具体的な項目が示された途端に多くの人が「なんだつまらない」となってしまう。そこで「憲法改正を目指さなければならない」ということをお題目のように唱え続けつつも具体的には何も提示しないことが求められるのだ。憲法改正に必要な議席を確保しておくためには自公政権が大勝しなければならないと言っておけばとりあえず参議院選挙は戦うことができるだろう。

重要なポイントは「憲法改正の中身などどうでもよい」ということである。重要なのは夢が持っている希望なのだ。

だが、実際には憲法改正を具体的に議論し始めると多くの自民党の政治家たちが自分の感覚で語り始めてしまう。それが毎日のように軋轢を生み出している。地方の政治家は各県に一つづつ議席が必要だという。さらに、安倍首相に近い議員たちは限定的自己肯定感の世界を生きており、意味のある人生だけはサポートするがそうでない人生は見捨てても構わないと考えている。人権という権利は義務を果たすことによって生じるなどという妄言をつぶやく人もいれば、自分たちが憲法を通じて生き方を国民に訓示すると言った人もいた。民主主義世界から見れば、実現の可能性も支持される見込みもないのだから、政治的妄想の類である。だが、永田町ではこうした妄言が幅を利かせている。

憲法は理念であり、まだ実現されていない目標を掲示することに意味がある。つまり憲法改正の議論はある意味夢についての議論であるはずなのだ。ところが日本人はこのような理念を持つことを嫌がる。理念はギリシャ語のイデアを和訳したものである。つまりイデオロギーを持つことを日本人は「お花畑」として嫌うのである。

日本人が憲法改正にどのような夢を見ているのかはわからないのだが、美しくはあるが世界には似たような山もある富士山を称揚してみたり、世界一尊敬される強い国になるのだという妄想に集約されてしまう。これは日本人が自らにイデオロギーを持つことを禁止しているからなのだろう。

例えば「経済格差のない平等な国が作りたい」というのはイデオロギーだが、日本人はイデオロギーを理解しないため「ソ連のような統制国家を作るのがイデオロギーだ」と感じてしまう。理念や理想の代わりに社会制度などの外形的なものに注目してしまうのである。

では先進国は理念をどのように広げようとしているのだろうか。

まず目につくのは死刑制度の廃止で見たようなやり方である。問題が起きた時に「自分たちは死刑制度は野蛮だと思うので話し合いましょう」と理念を提示するやり方がある。これは国家が人の命を奪うことなしに平和に統治できるようにしましょうという「お花畑」について語っている。つまり、これがイデオロギーである。

しかし、ただ単に価値観を押し付けてしまうと「内政干渉だ」と言われることはわかっている。そこでほうびと組み合わせる。EUはトルコに対して「加盟申請国は死刑を廃止しなければならない」と提示した。ヨーロッパは夢だけを与えトルコに門戸を開こうとしないのでトルコには死刑制度復活の動きがあるそうだ。

豊かさに触れさせることで影響を与えようとするもう一つの例がオリンピックである。だからオリンピックでは公共工事だけを受け入れて価値観は受け入れないということはできない仕組みになっている。

オリンピックの理念は様々な形で布教される。その一つがGAPという農産物の規格で「持続可能性」がテーマになっている。その規格にそぐわない農産品はオリンピックで使えないらしいのだが、日本ではほとんどこの規格を取得している人たちがいない。だから日本産の食材が使えないというのである。あるテレビ番組によると、JGAPでは養鶏場では鶏が自由に動ける空間が確保されている必要があり、安い外国人労働者を最低賃金以下で使ってはいけないとされているという。

このことから、経済的に豊かということだけで先進国になれるのではないということがわかる。豊かになった国にとっては「個人の理念をどう社会として実現して行くか」ということが重要であり、それを広げて行こうという意欲がなければならない。

だが、憲法改正の議論を見ても農業を見ても、日本人はそもそも理念を理解できない上に経済的余裕もない。とりあえず今あるものにしがみつかなければならないと考えている人が多く、理想を語ると「お花畑」と笑われる。オリンピックをきっかけに日本でも持続可能な都市開発や農業を取り入れて今後も定着させて行かなければならないのだが、これに賛同する人はそれほど多くないだろう。

東京でオリンピックをやるべきではないという声が趨勢のようだが、実際には理念が広がるならば良いきっかけになるのかもしれないとは思う。オリンピックを契機に都市の持続可能性を見直すという動きがあってもよかった。

ただ、実際に出てくるのは広告屋と組織の運営経験のない気まぐれな都知事ばかりで、問題も「会場は暑いのだがクーラーをつけるお金が調達できない」とか「人手は足りないのだが、賃金は支払いたくない」というようなつまらないものばかりである。私たちはこれからの二年間「理念を失いかけており」「夢をみることすら贅沢になりつつある」という現実を突きつけられて過ごすのだろう。

日本がかつてのように先進国の一員であったならば、今は実現されていない平和主義のような理念を実現するためにはどうしたらいいのかということを一生懸命に考えていたのだろうし、70年前にはなかった同性愛人たちがどうしたらもっと暮らしやすくなるかということを試行錯誤してきたのだろう。だが、そのような議論は起こらず「波風立てない方がいいですよ」という善意を装った受動攻撃性に潰されてゆくという社会を生きている。

よく「日本は発展途上国に逆戻りしてしまうのではないか」という懸念を耳にするのだが、発展途上国というのは経済的な意味意外に理念の意味でもこれから成長して行くという意欲があることを意味している。そうした意欲を失い、単に現状維持だけを目指して仲間内で恫喝し合う社会をどう呼んでいいのかはわからない。オリンピックとか憲法改正といった「未来を見据えた」議論を目の前にした時、私たちは先進国から滑り落ちた「単に過去の蓄積のある何者でもない国」になってしまったという現実を目にするのかもしれない。その意味では日本は夢に疲れて擦り切れた国になってしまったのかもしれないと思う。

安倍首相は首相でいたいために私邸にこもって悪巧みを続けているようだが、そのような首相を持ってしまったのも偶然ではないのかもしれない。日本は先進国でいつづけることが自己目的化しており、先進国としてどういう影響を与えて行こうかということを議論する人は誰もいないからである。

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