死刑廃止議論についてインプットをいただいた。ヨーロッパではフルの人権の一つとして捉えられているということである。つまり、人間には自分の命は自分のものであるという考え方があり、たとえ犯罪者であってもそれは変わらないというのだ。
この意見はよくわかるのだが日本では理解されにくい議論であるとも言える。が「日本では理解されないだろう」というのが「俺は理解しないけどね」と取られたのかもしれない。すこし情報交換が続いた。
「人間には間違える可能性があり」「自分の命というのは神様に許されて存在している」というキリスト教の漠然とした了解が基礎にあるので、死刑がいけないことであるのは明白である。その論点から見ると堕胎もいけないことということになる。アメリカでは「プロライフ」という。個人的にはキリスト教の実践者ではない(教会に通っていない)のだが、なんとなくこの了解に従って自分の意見を決めている。だから個人的には死刑には反対である。法的な言い方をすれば「冤罪の危険性が排除できず、その間違いを補償できる人がいないから」反対ということになる。再審請求が受け入れられて無罪が確定した事例は実は少なくない。また袴田事件のように再審請求は棄却されたものの再収監されないというケースも出てきている。結局「よくわからない」という事件も多いのだ。
かといってこうしたキリスト教的な心情を日本で吐露しようとは思わない。神社で「神様は主のみなので手を合わせない」というようなことは、かつて言っていたがいまは言わない。と同時に書き物をするときにも、日本的な心情を合わせて書くようにしている。そうしないと意外と反発が起きる。
その立場から見ると日本人がキリスト教的な人権意識は持っていないというのも確かだと思う。日本人には絶対的な神というものをおかないどころか、絶対的な権力者という存在スラ理解しない。代わりにムラが了解すれば村人を断罪して命を奪っても構わないという心情があるように思える。ある意味極めて民主的な社会である。人権なき民主主義国家と言っても良い。
だから、今回の死刑論争を人権問題だと捉えるといろいろと無理が生じる。今回の死刑論争を見ていると「切り離し論」がかなり見られる。切り離し論とはは宗教的な価値観というよりも衛生概念だ。モチがカビてしまったらカビのある場所を切り離すかカビたモチをすべて捨ててしまうべきだというようなイメージだろう。例えば「ヨーロッパが死刑を廃止するというなら、麻原を輸出するからそちらで引き取ってくれ」というような反論を見たことがある。これも切断願望の一つであろう。
これを切断処理だと見ると、国民は「衛生上の問題」を国家に押し付けているとも言える。生ゴミを出したらそれをどう処理するかを考えるのは誰か他の人の仕事なのである。この考え方は西洋流の死刑の議論からするとかなり倒錯している。人間を「異常なゴミ」とみなされており、その処理について誰かに押し付けていると言えるからである。日本人の中で少数者の人権について考えている人から見れば猛烈な講義の対象になるだろう。試しにこれを「障害者」に置き換えてみても良い。社会からこうした人たちをなくせば社会が効率化すると考えている人は多いが、そう書いただけで「お前はヒトラーの意見を支持するのか」という抗議が寄せられても不思議ではない。
いずれにせよ「犯罪は穢れ」であり、社会復帰という文脈では捉えられない。そしてこうした考え方はヨーロッパなどの人権先進国では受け入れられないが、日本では割と当たり前に語られてしまう。西洋が先進世界だとすると「遅れた」考え方だと言えるし、多様な世界観があるとすると「特異な」考え方である。
このように概観すると別の視点が見えてくる。日本人は概ね犯罪者は処罰されるべきだし、それは被害者の処罰感情に照らしても当たり前だと考えている。にもかかわらずヨーロッパでは反対意見が多い。反対というより「野蛮な行為」と見なされる。では国はいったい誰にたいして言い訳をするべきなのかという問題だ。
江川紹子の主張を読むとこのことがなんとなく見えてくる。この人はオウム事件については被害者であるので「加害者は処罰されなければならない」と考えた上で、教祖と弟子を同時執行すると神格化が進みかねないと考えている。敵を利すると言っている。そんな江川さんの文章に次のような一節がある。
なぜ、そこまで急いで、かつての幹部をまとめて処刑する必要があったのか、はなはだ疑問だ。法務省は、麻原と共に執行した6人を選んだ基準について、きちんと説明する必要があると思う。
バラバラに処刑が進めば長引きかねず外国からの反発が予想される。一週間ずらして行ったとしても数ヶ月の間「今週は誰が執行されました」というニュース速報が国内外に垂れ流される状態が続く。かといってすべてを同時執行してしまえばジェノサイドという別の批判も生まれる。そこで数をなんとなくバラしたのであろう。その上で執行をマスコミにリークし「オウムはこんな悪いことをしましたよ」というプロパガンダを行い「国民はこうした人たちが社会から取り除かれるということを支持している」という空気を作ろうとした。
ただ「厄介な問題は誰かの手によって適切に処理されるべきだ」と考えている国民にとっては、順番のような面倒なことは考えたくない。だから「国が勝手に決めてくれよ」と思っているはずだ。そもそも実際に誰が最初に死ぬべきかなどという順番を人間が決めることができるはずなどないので「一応の理屈」はつけられても、アカウンタビリティという意味での説明などできるはずがない。どんな説明をしたとしてもヨーロッパ的な価値を持った人たちは納得しようがなく、国民は興味がない。江川さんはことがわかってこう書いているのか、それともそれに対して無自覚なのかということはわからない。
このことを考えていると国は執行者としてヨーロッパの批判の矢面に立つのでそれなりの準備をして死刑執行に臨んだことがわかる。もちろん前日に上川さんを呼びつけて酒盛りをしたそうだから安倍首相がどう思っていたかはまた別問題だが、ヨーロッパ旅行を控えたタイミングで執行を許しているので何も考えていないのではないかと思う。すると気にしているのは外務省か法務省であろう。
その意味では実際に執行する人たちの方が国民よりも死刑の意味を意識せざるをえないということになる。巷で言われているように、権力者が死刑について無自覚であり国民はそれを憂慮しているという図式は実は成り立たないのかもしれない。
死刑は世界的には野蛮な行為である。日本人の感覚からすると、市民の武装による自衛や仇討ちと似たような感じなのだろう。日本人が死刑について同じ感覚を得るためには仇討ちを正当化してみれば良いと思う。これは日本の伝統であって、遺族の心情に照らし合わせれば正当化ができないこともない「情のある刑罰」だ。だが、日本で仇討ちを正当化しようという人もいないだろうし、復活させようという人もいないだろう。
その意味では上川法務大臣が「死刑には国民の理解と支持がある」という主張は「仇討ちも武士の心情を汲んだ尊いものだから」という程度の説得力しかない。ついでにいえば「抑止力がある」としながら「まだ重大犯罪が起きている」という主張をしており、上川論法には論理的な矛盾がある。抑止力があるなら重大犯罪はなくなっているはずだからである。さらに死刑をなくしたら重大犯罪が増えるという統計もない。だが国内からは異論が出ない。
さらにアメリカ人の武装について擁護してみてもよい。アメリカでは市民の武装が許されているために銃による犯罪がなくならない。最近では報道機関まで襲われた。日本人はこれを野蛮だと思うだろうが、アメリカ人にそれを指摘すると「内政干渉だ」という話になる。彼らにとっては独立の精神という情の話だからだ。中には「銃が悪いのではなく使う人が悪いのだ」という人もいるのだが、これは屁理屈にすぎない。
死刑論だけを見ると「それが正当なのか、それとも正当ではないのか」というような議論が技術的には成り立ちうるのだが、これをすべて総合して「人が人を殺していいのか」という問題に置き換えてしまうと、そうしたことは一般的になくしてゆくというのが潮流なのだということが明確になる。しかし、各論で技術的な反論が成り立っているように見えるのは、私たちが必ずしも論理性だけで議論しているわけではないからである。それぞれの現状というものがありそれを正当化しようとしている。つまり文明の衝突の一環なのである。
当然ヨーロッパはこうしたことを理解しているだろう。自分たちの国でもかつて同じような論争があり、当然心理的な抵抗もあったはずだからである。このためヨーロッパは「世界は今こうなっていますよ」ということを繰り返し主張するに止まっている。そして自分たちのコミュニティに迎え入れるためには同じ価値観を持ってもらわなければ困りますよと主張するのである。
こうした主張の結果死刑を廃止したのがトルコである。だが、彼らはヨーロッパに加えてもらいたいから態度を変えたように見せているだけだ。EUへの加盟は絶望的であり魅力も薄れており、現在では死刑復活論も出ているという。ヨーロッパ的な資本主義社会の魅力が薄れれば同じような揺り戻しも増えてゆくと考えられ、日本が人権や民主主義から外れてゆくのもその動きの一つなのかもしれない。